思考ノートの供養

僕自身の感情とか思考を整理するために書き殴った後のメモを供養します。

ゴールも何も決めずにただただ感情的に書いてたせいで迷走し、自分でもよくわからなくなったポエムのようなナニカです。

自分の中で当然としてとらえていることは省略されていたり、その他もろもろ読みにくいところがあると思うので興味がある方だけご覧ください。



殴り書き

俺はたとえどんなに苦しかったとしても、自分を許してはいけない

許す、とは、一般的、健全、普通な精神状態に戻ることだ
変化して、普通になっているような気がして嫌

言ってしまうと、不幸を自ら望んでいるようなものだ
不幸になれば自分の魂が勝手にいい叫び声をあげてくれるのではないか、それが自分の存在を証してくれるのではないかとすら期待してしまっている
要らぬ不幸を自ら求めるのは、趣味の悪いことである。

安っぽい偉人の名言に絆されて自己肯定感を高めて、そういう安っぽい人間の一人になるのが嫌だ

(安っぽい言葉に絆される人間はみんな等しく安っぽいと言えるのか?本当に?すごい人だって安っぽい名言のおかげでモチベーションを維持しているかもしれないのに?)

どんな枠組みにも入っていたくない
自分でなければならない
でも、生きていくうえでカテゴライズは避けられない
0 or 100 にはなれない
でも、限りなく99に近い人間でありたい
限りなく個性的でありたい
俺は“普通”の中で頭を出せる人間ではないから
特別じゃないといけない
オンリーワンじゃないといけない
だからこそ変えるのが怖い
変わるのが怖い
自分だったはずのものが少しずつ自分じゃなくなっていくのが怖い
「人は変わるものだ」
「いくら変わっても、あなたはあなただ」
違う。
俺は俺が規定する自分以外に自分では存在し得ない
その先にいるのは「かつて自分だった誰か」

変わって、“普通”になるのが怖い
今も十分普通だけど、それ以上に普通に近づきたくない
特別でありたい
みんなの“当たり前”を当たり前にできない
そんな自分で良いと思っている節がある

思った以上に自分の精神は、心は変化を拒絶しているわけではない節もある
そういうところも含めて自分だから
全部ひっくるめて自分であればよい

自分の認知の歪みを自覚してなお、それすらも大切に抱えていようとする
でも、この駄文を公開したらあの人の反応がどうかなとか、あいつに引かれたりしないかなとか、そういうことを気にしちゃうあたり本当は俺も普通なんだと思う

というか0か100かじゃない
普通な部分があって、それでいて特別なところもあって、それが当然
完璧主義でありたがるのは、みんながグレーであることに逆張りをした結果なのかもしれない

自分を証明したい、アイデンティティを確立したいとか承認欲求を満たしたいとか思うことも本当は普通
オンリーワンでなどありえない
みんなどこか似てる
それが苦しい
組み合わせや比率の違いを“個性”と呼ぶなら、ほとんど同じ組み合わせや比率の人間が存在するかもしれない。世界には70億人もいる。
じゃあ、同じ個性を持つ人間がいるなら、それは果たして“個性”と呼んでいいのだろうか?
もはやそれは“類型”になるのではなかろうか?



…この先、僕の思考がどこへ飛んだのかは僕自身にもわかりません。

なんかもうすっげえ歪んでたのだけはなんとなく覚えてます。

なんというか、それが気持ちいいというか、自分が普通ではない・「じゃくしゃ」はじゃくしゃとしての”個”を持っている、みたいな感じがして少しうれしいみたいな感情を抱いていました。

そんなの、気持ちわりいよな。

みんなと俺は違う。

なんで?苦しい。 …というわけではない。

むしろ、違うんだ!俺は俺なんだ!という、自分が世界に承認された感覚。

世界に存在するモブの集まりの中から、頭1㎝だけ飛び出せたような、そんな感覚がしたんだ。


自分でもこの感情が行き着く先はどこなのか、この感情はなんなのか、もうよくわからん。

なんか、うまく言語化できない。おわり。

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