肝心なところでミスをしてしまう自分の特性についての考察

小学生の頃から思っていることがあって、「よく肝心な場面とか重大な場面で期待通りの結果がだせないなぁ~」と感じていた。
例えば、小学生の時、足が速かったのでリレーメンバーに選ばれて、県大会出場がかかった試合でバトンミスをしたり、高校時代は陸上部で長距離をしていたのだけど練習の成果がまったく出せず、「練習ではできたことが、本番にはできないやつ」というレッテルを監督に貼られ、ほとんど信頼を失っていた。なんならもう、「それがお前らしい」とか言われて、自分でもそんなことは理解していたので、反論することなく、そうだよな~と怒るとか感情がわいてこなかった。
リハビリの専門学校にはいって、自分はそれまで勉強とかできなかったけど、なぜかこの専門学校では成績が1、2を争うほどの出来で良かったのだけど、1年生の期末テストで1位を取って、「次も頑張ろう」とか思って勉強中していたら過呼吸になって倒れてしまい、よくよく調べると軽いパニック障がいになっており次の成績は順位を10番ぐらい落としたりしていた【今思うと、この時の自分の頑張りには感謝してもしきれないぐらい感謝している😭】

こういったことを振り返って今まで【なんで自分はこんなにプレッシャーに弱いのだろう?】と疑問に感じていた。
だって上に書いたやつは全部共通して「せっかくそれまで頑張ったのに途中でその努力が頑張った通りの結果がでてないもの」だから、それじゃぁこれから何かを頑張っても途中でその努力が水の泡になるのかな?と思うと当然モチベーションが低下するからだ😭

そんな中、YouTubeで為末さんが「怒られてスポーツとか教育を受けると勝負弱い人間になる」という解説をされている動画をみた。
もう本当に共感でしかなかった(笑)

確かに自分は、父親から理由もよく分からないことで怒られて育ち、とてもじゃないけど自分の意見なんて言えるような環境で育った記憶がなく親の期待に添えない時の、親のガッカリした態度や雰囲気を感じとる程度には親のことをよく観察していたと思う。

動画の中で、為末さんもオリンピックでメダルを取ったあとの次の年で試合で負けてしまい、周囲からの期待に添えなかったことに落胆を覚えたと言っていた。
オリンピックでメダルを取るまでは、シンプルに速く走りたい❗️楽しい❗️という動機で陸上をしていたのに、オリンピックでメダルをとってインタビューとか答えたりしているうちに「速く走りたい」「楽しい」という動機から「周りの人の期待に答えなくちゃ」という義務感にかわって走ることが楽しくなくなり、試合でも勝つことよりも負けないようにしようというリスクを取れないようになったそうだ。
この感覚、すごく分かる専門学校時代は、成績1位になるまで、順位とか成績とかよりも単純に自分の興味とか好奇心で勉強していたのに、1位になって周りの期待とか「あの人は勉強ができる」みたいな声に囚われて、その後の勉強がなんか「次も1位をとらなくちゃ」と思った結果、過呼吸になった(笑)
まさに「好奇心」が「義務」に変わった典型だと思う。

これまでの人生を振り返って、順位とか成績とか社会がよしとしているランキングみたいな「外的価値」で物事に取り組んでいる時に自分はよくミスをするんだなぁということがよく理解できた。
動画の中で為末さんは、「義務」と「好奇心」は紙一重で物事を進めるに当たってこの二つは実は並走しており、「義務」で取り組むとほとんどの場合、引退したりうまく結果がでなかったりするそうだ。
で、どういう人がこれを打開できるかというとホームみたいなところがあって【自分の心ふるさとみたいなものかなぁと解釈しました】「俺はここに戻れば自分でいられるから、ちょっとそこからそっちの世界に飛び込んでみてそこで結果がダメでも自分が自分でいられる」といった感覚を持てることが大事だと言っていた。

これを聞いて、「それもう自分やってるじゃん❗️」と膝打った。【膝を打ったてこういう意味でよいのかな(笑)】
自分のホーム、それは「お笑い」だ。
元々すごいお笑い好きとかではなく、テレビとかでお笑い番組やってると「お笑いかぁふ~ん」ぐらいで見ていたりした。専門学校で軽いパニック障がいになって、まじで授業中も動悸がしたりするほど苦しくて、ろくに授業を受けるような気持ちになれなくて正直、学校にかようのもやっとだった時があった。そんな時期に社会人から入学していた同期の人とたまたま班編成が同じになり、その班で協力して授業とかを進めるといったシステムになった。
で昼休みとかにその人と、何でもない話しをして笑ったり、DSでゲームしたりしたりすると不思議とパニックも幾分か楽になった。そのときに漠然とだが「あーしゃべって笑ったりして自分を出すことでこんなにも気持ちは楽になるんだなぁ」と感じた。そして、何故か分からないけど、この状態がずっと続けばパニックとは無関係な感じになれそう❗️といったものすごい安心感を感じた。この時、たぶんのこの人以外の人と同じ班になってたと思うと、本当にゾッとする。

そこから時がたって働き始めて、ある日尿から血尿が出て、病院に行って難病だと診断されてまじで割りとリアルに「自分て死ぬんだ」と絶望した時に「なんかやり残したことはないか」と本気で考える日々が続いて、「あーそういやお笑いやりたかったなぁ」と急に沸いてきてYouTubeとかで改めてお笑い芸人を真剣に見るようになって見ていくと、何故か友近さんやロバート秋山さんの笑いに対して、鳥肌がたつほど笑える自分がいることに気づいた(笑)
これは今でもそうで、どんなにつかれててもこの人たちの笑いを見るだけで一気に笑えるのだ(笑)
ある芸人さんが、笑いは「その人の生きた証だから、例え他の人がそれは面白くないといって否定されたような気持ちにならないほうがよい」ということを言われていて、ここでも確かに❗️と膝を打った(笑)

なので今では、お笑い好きで特に「この人の笑いが好き‼️」と胸を張って自己紹介の時に言えるほど自分のなかで唯一自信をもっていえるジャンルになっている。昨日も、これ面白いよ❗️と友人に進めたのだけど「面白くない」と返されて、まじで1ミリもへこまなかった(笑)

少なくとも、今誰に何を言われようとも何故かこの「お笑い」に対する自分の価値観は揺らぐ気がしない。だってそれが自分の生きた証なのだから。これからもたぶん外的な価値観に翻弄されながら色んなことをすると思う。そんな時に、お笑いは外的な価値観にさらわれた心を内的な価値観に圧倒的に自分を連れていってくれる。

そう考えると本当にお笑いの懐の深さを感じる。ダメだとされることもやコンプレックスをがお金にかわるのだから。

これからは、自分にはお笑いがあることをはっきりと自覚し、「いつでも自分に還る場所がある」と自信を持って物事にチャレンジしていきたい。

なんかちょっとここ20年間ぐらいの伏線がアラサーになって全部回収された感じがして、とてもうれしい😭。

その時、その時は点でしかなかったけど実は全部繋がってるんだとはっきりと自覚して、自分の中で納得感が持ててる感覚がはっきりとある。

これからの自分がどうなるからちょとだけ楽しみだ。

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