「自分のため」を軸に、惑い続けるしかない

 私は職業柄、高齢者と接することが多い。
 そこでつくづく感じるのは、社会的引きこもり状態となっている高齢者が少なくないことだ。男女ともお目にかかるけれど、圧倒的に男性に多い印象がある。
 そういう人たちに対して「他者とかかわった方がいい」「人が集まっているところに行ったほうがいい」などと言うのだが、そのたびに「どの口が言うのかね・・・」と苦笑している自分がいる。
 なぜなら、自分にとって最もストレスを感じることが「他者とかかわること」「人が集まっているところに行くこと」だからだ。できれば社会とは関わらずに生きていきたい、と真剣に考えることを、若いころからずっと繰り返していた。
 いろいろあったが、現在は何とか医療の場に居場所を作ることができた。でも、その居場所もここ数年のコロナ対策禍で全く信用できなくなった。もうこの変な集団に関わっていること自体が罪悪なのではないか、とすら最近は感じてしまう。
 そろそろ鴨長明の「方丈記」のように生きていけないかしら・・・と夢想してしまう。

 「方丈記」は、前半の災害文学もいいが、後半の日野山で「ひろさは方丈、たかさは七尺」の家に独りで住み始めた後の人生観がとてもいい。
 蜂飼耳さんの現代語訳がよかったので、そこから引用させていただく。

人を頼りにすれば、その人の言いなりになってしまう。人を養い育てると、自分の心が愛情に振り回されてしまう。世間の常識に従えば、苦しくなる。従わなければ、まともではないと思われてしまう。
どんな場に身をおいて、どんなことをして生きれば、しばらくの間だけでも、この身とこの心を安らかにさせておくことができるのだろうか。

方丈記 - 光文社古典新訳文庫 (kotensinyaku.jp)

そして出家し、その後に日野山に「隠れ住ん」だ。
それからは、

もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁じる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。
(中略)
琵琶をうまく弾けはしないけれど、だれかに聞かせて喜んでもらおうというのではない。一人で弾き、一人で歌い、自分の気持ちを豊かにしようというだけのことだ。

方丈記 - 光文社古典新訳文庫 (kotensinyaku.jp)

やどかりは、小さな貝を好む。そのほうがよいと知っているのだ。みさごという鳥は荒磯に棲む。それは、人間を恐れるからだ。私もまたそれと同じだ。世間に近くに住むことがどういうことか、どうなるか、すでに知っているから、もう何かを望むこともないし、あくせくすることもない。ただ、静かに暮らすことだけを考え、余計な心配のないことそのものを楽しんでいる。
(中略)
下僕も、褒美を多く与えられたり、待遇がよいことをまず何よりも先に考える。優しく接してくれるとか、平穏な生活を求めるとは限らない。そんなことなら、ただもう、自分自身を自分の下僕にしておくほうがいい。
どのように下僕にするかと言えば、もし、するべきことがあれば、自分の身を使えばそれでよいだけだ。

方丈記 - 光文社古典新訳文庫 (kotensinyaku.jp)

 私はこれらの言葉一つ一つに強く共感してしまう
 だから、「老後ぐらいは社会的に引きこもらせて欲しい」と思う高齢者の気持ちに、深く共感してしまうのだ。
 まあ、その高齢者の現状に困惑しているご家族の手前、そんな空気は出さないように意識はしているが、たぶん出ていると思う。

 とはいえ、鴨長明は例外と考えた方がいいのだろう。
 残念ながら、隠遁には適性があるのだ。そして適性のある人など、極めて少数だというのが実感である。
 多くの人間にとっては社会から切り離されること、つまり孤立することは、最初は良くても、だんだん辛くなってくるようだ。細々とでも社会に関わることが心身の健康維持には必要なんだろうなぁ、と考えざるを得ないケースを目にすることは、実際とても多い。
 それ以前に、世間が簡単に隠遁させてくれない
 特に中高年が隠遁していると、不審者扱い、認知症扱いされるリスクがある。認知機能に問題のない人が、退職後に引きこもっているだけで、家族に認知症を疑われて外来に連行されてくるケース(ほぼ男性)に出会うこともある。このような「不当な扱い」に耐えるために、かなりのタフネスが必要とされることは想像に難くない。
 さらに困ったことには、どれだけ人里離れたところで暮らそうとも、国内では、どこまで行っても「その土地の所有者」がいる。それが鴨長明の時代と大きく異なる点だ。海外に居を求めたところで、そもそも人が住んでいる場所でコミュニケーションが求められることは、世界中どこに行っても変わらない。結局、極地にでも行くしかないのだが、そんなところで生き残れる自信はない。情けないことだが、やはり「命は惜しい」のだ。
 いや、それどころか私の場合、結婚して子供まで授かっている。それは自分の意思で行ったことだ。自分の意思で行ったことにはきちんとけじめをつけなければならない。少なくとも子供が経済的に自立するまでは、隠遁の資格がない。
 だから結局、凡人は社会にしがみついておくしかない、とあきらめることにしている

 社会にしがみつく動機として「自分は社会に必要とされている」と思える人もいるようだ。「必要とされている限り、働くつもり」とかいうやつだ。でも実際は、重要な立場にある人間でも、いなくなって困るのはほんの一瞬だ。代替要員など、いくらでもいるのだ。存在と発言で社会を動かすことができるような、影響力の大きい人間など、ほんの一握りに過ぎない。
 だから、「社会から必要とされている」などと思い上がることは難しい

 結局、自分がどのような人間で在りたいか」「どうあれば安心できるか」そして「何を遺したいか」など、「自分のため」にどう生きればいいのか、考え続けるしかないのだろう。たとえ老い先短いとしても、刹那的快楽や短絡的思考に溺れるべきではない。その後に残るのは「残された時間を無駄に過ごしてしまった」という後悔だけだ。
 「自分のため」が結果的に社会にとって良い影響をもたらすのであれば、次世代にとって有益なことなら、それはとても幸せなことだ。
 そもそも、少数の「自己愛過剰な異常者」を除いた大多数の人間が真に「自分のため」を目的に行うことは、社会にとってもそうそう悪い影響を与えることはないのではないだろうか?・・・少数の「自己愛過剰な異常者」が悪目立ちしていることは否定できないので、浅はかな性善説なのかもしれないが。
 でも、「異常者」ではない大多数の人々はそう信じて行動した方がいい。なぜなら、目的が「社会のため」「あなた(親子や親族も含む)のため」となった途端に、いやったらしく、軽薄で、刹那的で、押しつけがましく、余計なお世話にしかならない「有害物」に劣化するからだ。
 だから、寄付やボランティアなどの慈善・奉仕活動も、「自分のため」を動機として行動しなければならない。

 中高年者こそ「自分のため」に何をすべきなのか、を真剣に考えなければならない。若者よりも考えなければならない。「不惑」など持っての他、惑い続けることができる間は惑っていた方が幸せなように思う。体力気力がとことん落ちてしまうと、惑うことすらできなくなってしまうのだ。
 当然のことだが、自分で考えて「惑う」のであって、他者から「惑わされ」てはならない。ましてや、いい歳して「自己愛の過剰な異常者」に「惑わされ」ているのは、ただの思考停止、百害あって一利なし、だ。

 以上、自戒をこめて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?