ある医師に関する記事について


 ミニトマトさん、いつもながら非常に興味深い内容、ありがとうございます。コメント欄に感想を書こうとしたら、思いが次々と湧き上がってきて、コメントに収まりきらなくなってしましました。
 
 岡教授、ベーチェット病の確定診断を受けてたんですね、その点に関しては本当に気の毒だと思いました。
 一般的に「ワクチン」と呼ばれているmRNA医薬の接種に関しては、ご自身が信念を持って接種される分には、いいと思います。どうぞご自由に、としか言いようがありません。最も、mRNA医薬接種後の自己免疫疾患発症または増悪についての症例報告は結構目にしてしまうので、個人的にはあまりお勧めできないように思いますが・・・まあ、私如きの意見など馬耳東風でしょうけど。
 しかし、医学部教授が、接種に対する信念をSNSに垂れ流すことに関しては、結構問題があると思いました。それに関しては後に記載します。
 
 ところで、紹介されていた岡教授のyahooのインタビュー記事を読みました。医師ではなく、難病に罹患した患者の言葉として、何か得るものがあるかもしれない、と思ったからです。

SNSによる誹謗中傷も大きなストレスになりました。コロナの現場の情報発信のために今も続けていますが、本当はもうツイッターはやりたくない。コロナが収束したら、すぐにやめたいと思っています。

 誹謗中傷を受け流せないのなら、特殊な現場しか見ていない方が、その現場でしか通じない内容を、実名で、上から目線で語ることは、本当にやめた方がいいと思います。身体的・精神的ストレスは全ての自己免疫疾患の増悪・再燃因子ですから・・・・使命感に燃えているようですが、それは他の方々に任せた方がいいです
 ベーチェット病は、現在の症状の辛さももちろんですが、次はどこに病変が出現するかわからない不安も大きなストレスになると思います。お体を大事にして欲しい。
 というか、正直、「情報提供」という名目で煽るだけ煽っておいて、何を被害者ぶっているのか、としか思えません。

命の選別が行われてしまうから感染症を抑えましょうと発信すると、『大学病院は今まで患者の受け入れを断って市中病院に押しつけてきただろう。ざまあみろ』という趣旨のことを言ってきた人がいました。そういう言葉に医療従事者たちは心を痛めるわけです。そんなことをやっても足の引っ張り合い、泥のぶっかけ合いにしかならないのに

 あなた方が、延命だけを過剰に重視する価値観を発信することで、政治が動かされました。その結果、多くの方々の行動が、福祉が制限されました。自宅軟禁を強いられました。それにより、職を失った方、家以外の居場所を失った方、精神症状が悪化した方、認知機能が悪化した方、ADLが落ちて寝たきりになってしまった方、ADL低下により誤嚥性肺炎・腎盂腎炎を発症しさらにADLがガタ落ちした方、そんな方々を見てきました。
 そういう惨状に、医療従事者は心を痛めるわけです。
 あと私は別に、大学病院ざまあみろ、などと思ったことはありません。でも、先に上から泥をぶっかけてきたのはそっちでしょ?、と思います。

 SNSは一個人の価値観が、議論や熟慮を介することなく、直接社会に影響を及ぼします。「医学部教授」のような、ある程度社会的ステータスがある方の発信は、なおさら影響は強いです。日本人の権威主義を甘く見てはいけません。
 あなただけでなく、多くの医療者(いわゆる「医クラ」です)が、酷く一面的な、視野の狭い、議論を介さない発信を積み上げていったこと。これがどれだけ世の中に影響を及ぼしたか、考えたことがあるのでしょうか?前述したような、その影響で苦しんでる方々のことも想って欲しい。医療を必要としているのは、あなたの目の前の患者だけではないのです。
 なので、

今は弱くなったし、努力できなくなってしまった。でも、その分、人の話を聞くようになりました。人の力を頼り、人の力のありがたさをわかるようになった。そして、事情があって努力できない人もいることに気づいたし、弱い人と気持ちが通い合うようになったとも思っています

と言われても、恐ろしいほど白々しく感じるわけです。
というか、「事情があって努力できない人もいる」とか「弱い人と気持ちが通い合うようになった」とか、言葉の言い回しに何ともいえない「他人を小馬鹿にしてる感」を感じてしまうのは、私がひねくれているからなのでしょうか・・・?

『痛い』と言われたらその痛みをとってあげたいと考えますが、ものによっては治らないものもある。そんなとき、以前の僕は話を聞くけれど、治らないからしょうがないよねと思っていました。ところが、今は『痛い』と聞いたら、どれぐらい痛いのかに思いを馳せるようになりました。

 いやいや、いい話のように言ってますけど、難治性疼痛の痛さに「思いを馳せる」のなんて研修医レベルでも当たり前ですよ?

以前は自らを犠牲にして働くことが医師の務めと思っていましたが、ワーク・ライフ・バランスを考えるようになりました。自分だけではなく、他のスタッフにもそう言っています。自分の生活や自分の健康が犠牲になった場合に、患者さんの健康や幸せに貢献できるのかと。

 「患者の幸せへの貢献」と一言で言いますが、それは、患者が今までの生活の中で大事にしてきたこと、そして今の日常で大切にしている価値観、さらには患者本人だけでなく生活を共にする人々(家族に限らない)の価値観、最低でもこれらを(完全に理解するのは不可能だとしても)理解しようと努めない限り「父権主義的な善意の押し付け」になりかねない、医療側の自己満足に陥りかねない、諸刃の剣です。
 この理解のために、医学が果たすことができる役割は限定的です。
 医療者側が健康であることやワークライフバランスが整っていること(もちろん、これらは日常を大切に生きるためには必須で、考えるのは当たり前のことです)以上に、我々医療者が、医療以外の事柄について知ろうと努めない限り、理解を試みることすらできないでしょう

難病や脳梗塞など大病を患っている人のアウトドアのサポートなんかも、今後ボランティアでやっていきたいとも考えています。

 ええっ、ボランティア、ですか・・・確かに大事なことですが、あなたの立場であれば、他にできることがあるでしょうに????

・・・・何故こんなに言葉が軽いんだろう・・・・インタビュアーが悪いのか?
ダメだ、ベーチェット病に罹患したことを気の毒に思い、ついインタビュー記事を読んでしまいましたが、やはり「医クラ」の方々の価値観は私にとっては受け入れ難いものでした。
まあ、今年の3月の記事なので、今どう考えられているのかは知りませんし、正直興味もないですが。

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