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磯野真穂さんの「コロナ禍と出会い直す」

 医療人類学者の磯野真穂さんの連載が始まったことを森田先生のnoteで知った。これは、特に医療従事者にとっては、是非読むべき連載になるのではないか、と期待する。

 昨年発行された本の中で、私は「今後も読み継がれるべき名著」と感じた本の一つ「他者と生きる」の著者である。磯野真穂さんという研究者の存在とともに「医療人類学」という学問の存在を知った点でも、この本との出会いは大きかった。

 今回はプロローグだが、既に重要な指摘がいくつもなされている。
 以下、磯野さんの上記記事より引用。太字は引用者。

 私は人類学の観点から、(中略)国内で起こった健康をめぐるいくつかのパニックを分析してきた。すると、これらの現象には一つの共通点があることがわかる。
 それは、パニックを沈静化させるためにとられた極端な対策が、長期にわたりダラダラと続くことだ。私はこの傾向を「和をもって極端となす」と呼んでいる。
 極端な対策により社会の調和がそれなりに取り戻されると、その和を保つことが最優先事項となる。おかしいと感じる人は内部に複数いるものの、波風を立てることを恐れ、あからさまな反対運動には至らない。結果、対策の副作用として深刻な問題が生じても、それは見過ごされたままとなり、対策は漫然と続いていく。

 リスク対策は、問題Aを避けるための対策と、その対策によって生ずるであろう問題Bをてんびんにかけ、問題Bが大きくなりすぎないよう対策の内容を調整することだ。しかしこの3年間、日本のあちこちでコロナという問題Aを避けることが最優先事項となり、その結果生ずるであろういくつもの問題は仕方のないこと、取るに足らないこととする判断が蔓延(まんえん)した。
(中略)
 コロナ禍で連呼された「大切な命」というフレーズ。しかしこのフレーズをもとに積み重ねられた多様で大量の感染対策が、元から脆弱(ぜいじゃく)であった人々の命を砕いた。そしてその余波はいまだ続いている。

新型コロナは医学や統計の観点から解説されることが大半であった。しかしこの連載はそちらではなく、暮らし、共同体、意味の観点に重点を置いて展開したい。

 「和をもって極端となす」このフレーズは素晴らしい。この3年間の馬鹿騒ぎを言い表すフレーズとして秀逸だ。
 医療人類学及び文化人類学的な視点からの、この3年間の総括は、是非行って頂きたかったので、この連載はとても有難い。

 この記事はRe:Ronという朝日新聞デジタルが立ち上げた新たなwebメディアのようだ。このメディアそのものも興味深いので注視しておこう。
 同じ朝日のwebメディアであるWEBRONZAが4月末で更新を終了するらしいので、その進化形、という位置づけになるのだろうか?
 私は朝日の調査報道に関しては評価していたので、朝日新聞デジタルの有料会員であった時期もあった。しかし、コロナ騒動後はあまりにも馬鹿馬鹿しく不快な記事にあふれていたので目障りになり、会員を止めていた。
 これを機に再度有料会員になってもいいかもしれないかも・・・いや、もう少し様子を見た方がいいか・・・


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