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医療倫理は資本の前に跪いた

中川淳一郎氏のブログが興味深かった。
そうか、言われてみれば確かにそうだ。

【研究者の思考】
その時点で与えられた情報から私の知見を基に最適な仮説・論を出す。それを研究室・学会内で発表・議論し、一旦の結論を作る。その後、新しい知見ができたらその論はアップデートし、長い研究生活で高みに到達をすればいい。人類の役に立てばいいが、場合によっては役に立たなくても私の研究成果が後世に役立つのであればそれでいい。
(中略)
研究室・学会内であれば、「アップデート」と言っておけば許される。なぜなら人の人生に影響を与えないから。人の人生に影響を与えない仕事をやり続けた人物が人の影響に絶大なる影響を与えるとどうなるか。

 多分、コロナ対策禍の扇動者たちは「間違った」とは思っていない。try  and error を繰り返してup date していくのが彼らにとっては当たり前のことだから。基本、新たな知見を見いだすことに喜びを感じる進歩主義者だから。その過程で目の前にいない他者に与えた影響など興味もないだろう。
 ブログにおいては、8割おじさんこと、西浦氏が恐怖感じていたのでは、と推測されているが、私は彼は恐怖など感じていないと思う。「新たな知見も得られたんだから、もういいよ。いい加減飽きたよ。」ぐらいに考えているだろう。彼にとっては、コロナ対策禍も自身の研究をup date するための過程にすぎないだろう。常に新たな知見を模索する研究者としては、ある意味で正しい態度なのかもしれない。
「間違った」と思ってない以上、彼らが謝ることはない
 
 なので、リアルな人間を対象とした研究に対して、倫理審査委員会の存在は、私が考えていた以上に歯止めになっていたのだろうな、と感じる。

 私自身は、治験担当をしていたころ、この存在を「邪魔くさいなぁ、倫理観ぐらい持ち合わせてるよ。なんで医療のことなど大して知らん人間に説明して意見を求めないとあかんのよ…」と思っていた。しかし、この委員会を通さなければならないという縛りは非常に大事なものだったようだ。世の中には、他者の人生に多大な影響を与えることに対する想像力が圧倒的に欠如している者が、こんなにも多かったのだから
 思えば、ヘルシンキ宣言のように「こんなの当たり前だろう」という倫理観をわざわざ宣言しなければならなかった理由について、十分に考えておくべきだったのだ。

 我々は「進歩のため、私欲のため、自身の信念のため」に容易く他者の人生を蔑ろにすることができる、という事実を常々直視しておくべきだったのだ。あまりにも油断していた。
 結果、たかがSARS  CoV 2ごときで、第二次大戦後から積み上げられてきた医療倫理が、メガファーマにまんまとハッキングされてしまった。かつて国家にハッキングされていたように。
その結果が、引き起こされたのが今回のワクチン禍ではないか。
 いや、今回の件だけでは済まない。医療倫理が資本にハッキングされるという、なんとなく予見されていた巨大なリスクが明確に姿を現したように感じるのだが、その危機感が医療従事者たちにあるのだろうか?ある訳ないか。

 👇でも言ったが、こうなってしまった以上、「自身の判断を依存できる「専門家」など、いない」という常識を取り戻し、個々で判断するしかない、ということだ。医療には最早、自浄能力はないと考えておいた方がいい。
 そしておそらく、その認識の必要性は医療問題だけに限定されるものではない

 


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