「根拠」よりも「穢れ」と「思い込み」を重視する人たち 

(20時4分に「EBMとABM/KTM」、から改題)
思えば、この3年間の医療を支配してたのは、
assumption based medicine (思い込みに基づく医療)
かつ
“kegare” traped medicine (穢れにとらわれた医療)
だったな。
 穢れは、対応する英語はimpurtyになるようだが、何か違う気がするので、無理せずkegareでいいと思った。

 ABMとKTM。evidence based  medicine(根拠に基づく医療:EBM )と相反する概念。でも、EBMよりも「直観的」に受け入れやすい概念。であるがゆえに、我々が容易に嵌まりこんでしまう概念。
 平時はあれほどEBMを必死で取り入れ、斯くあらねばと金科玉条のように振りかざしていたのに、非常時(?)になればこの有り様だった。ABM/KTMの両概念をあまりにも甘くみて、警戒を怠り、慢心していたように思う。そこには、「EBMを重視するに至る歴史」に対する無関心が根底にあるように思う。我々は、根本的にEBMの必要性が理解できていないのかもしれない。だから、同じような誤りを繰り返すのかもしれない。
 
 それとも、そもそもEBMという科学的感覚を要する概念自体が、我々と相性が悪いものなのか?いくら根拠を提示されても、因習的感覚が強すぎて、納得できないのだろうか? それとも、同質性と同調性が強すぎて、思い込みを正せない、もしくは正さなくなくとも生きていけるからだろうか?正す努力をしない方が楽だからだろうか?正直、そうではないと思いたいところだ。
 
 確かにEBMにとらわれすぎることは良くない。臨床における発見が失われるからだ。誰だか忘れたが、ある学会にて「EBMにとらわれない医者が1割ぐらいいないと、医学の進歩が停滞する。」と言っていた方がいた。本当にその通りだと思う。
 しかし、医療行為の軸としてEBMの存在が重要なのは間違いない。従うにしても外れるにしても、EBMとの距離感を意識しておくことは、自身がトンデモ医療に陥らないために極めて重要なことである。つまり、ABMやKTMに陥らないために、だ。
 
 この3年の経験から我々が考えなければならないことは、あまりにも多い。


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