二月の感覚

ようやく春が来たと思ったら雪が降ったり、晴れているのに空気が冷えていたり、なかなか敏感になる二月でした。今年の冬は、お店を思い切って休業させてもらい、「冬眠」をしました。スタッフみんな、休みの間は、研修をしたり、実家に帰ったり、違う職種のアルバイトをしてみたり、家でのんびりしたり、それぞれでリフレッシュできたようでした。私は、冬に開催した鳥取大学にんげん研究会が主催の「地域と文化のためのメディアを考える連続講座」の報告書を作成しました。コロナ禍により生活が変化した世界をどのように観察するか、美術家、音楽家、ダンサーが講師となって活動事例を話してもらう講座です。当時話されていた言葉を要約して編集する作業していたら、どなたも、移り変わっていく世界をじっくり見て、まずは何かやってみて、感じたことから、考えていました。そして、身体で感じること、考えることの深度が半端ない。私はそこまで感覚に向き合ってきたかなあ。と、編集しながら立ち返っていました。あるときから、頭の言葉は信用せずに、身体の言葉を信用しようと意識はしていたけれど、身体の言葉というのは何なのか、いまいち掴めていませんでした。講師の方の言葉を借りると「感覚」が、どうやら身体の言葉に近いようでした。自分の気持ちでもなく、意見でもなく、「感覚」。チームで会議をしていると、人前で意見をするので、正解らしいことを言おうとします。課題があるから、論理的に解決しようと思うのは最もなんですが、一方で、正解がわからないからと、意見が出ない状況も生まれます。意見ばかりを求めて、バラバラの価値観、状況も経験値も違う人たちの感覚を共有できていなかったことに気がつきました。目の前の仕事に追われてしまい、業務連絡とは関係ない、ご飯を食べながら話すような他愛もない話をみんなとしたのは、いつだろう?コロナ禍となってから対面を避け、情報社会による情報過多も手伝って、仲間の感覚、お客さんの感覚がどこにあるのか、わからなくなったのかもしれません。春がきて、あたたかくなったら、みんなでカチコチになった身体を開いて、リラックスして、感覚を磨いていきたいです。3月の営業再開が待ち遠しいです。


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