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溺れて死んだら魚になりたい

昔、ヨシノという女子生徒がいた。誰が見ても可愛くて、運動が得意で、勉強もできて、ピアノも弾けて、気が強い女。所謂一軍女子で、不良生徒たちとつるんでいたけれど、才色兼備でカリスマ性があった。
清水夏生も年頃の男の子であったので、もちろんヨシノの存在は知っていたし、それなりに会話をした記憶がある。なんたって夏生は顔が良かった。顔が良くてそれなりに喋れる人間ならば、大抵一軍メンバーになれるもんなのだ。
夏生が通っていた中学校は、偏差値が下から数えた方がはやく、他校からも噂されているほど荒れていた。教師イジメ、ボヤ騒ぎ、暴力沙汰、万引き、無免許運転エトセトラ。教師が喋っているのにも関わらず騒音を立てて妨害しまくって授業が進まず、結局二学期に退職してしまった新任教師もいたし、ノイローゼになった生徒もいた。各クラスに三人は不登校児がいる。ある女教師は、予定していた席替えの日に都合が合わず、席替えをしなかっただけでボロクソに叩かれてそのクラスは学級崩壊してしまったいえに、彼女はその年で教師を辞めてしまった。かわいそうに。
卒業した頃には三〇人くらいいなくなっていて、イジメによって転校したとか自殺したとか少年院に行ったとか。みんなクラスメイトが去る度にその日の三〇分くらいはお通夜タイムに入るが、三一分経ったころには次の遊びを考えていた。「一体親からどんな教育を受けているの!」と怒鳴り散らかしていた家庭科の女教師もいつのまにか退職していた。みんな笑ってる。さぞかしおかしくて面白いのだろう。本当に何が面白かったんだろうな。でも人の顔を靴で踏みつけて笑うような奴らが、ペットや家族ものの映画を見たら泣くのは面白かったな。
ところで学園のアイドルのヨシノという女。彼女はもうすぐ中学三年生というところの春に死んだ。つまり三月だ。汚いアパートの浴槽の中で死んでいた。口はガムテープで塞がれ、手足もガムテープで縛られたうえに、浴槽の底に貼り付けられて、冷めたお湯に美しい黒髪を揺らして溺死していたそうな。ヨシノの人形のように可愛らしかった顔はボコボコに殴られていて、歯は折れていて、おまけにレイプもされていたらしい。
あまりにも惨たらしくて、夏生はそれを世間話のように話すアダチウタコは相当頭がおかしいと思ったが、世間話のように聞いていた自分も十分イカれていた。夏生にヨシノの事件について教えてくれたウタコは、今思えばヨシノが死んだ経緯を誰よりも詳しく知っていた気がするが、彼女は嘘つきで有名だったから、夏生は憶測程度の認識で話を聞いた。
他の区に比べてマァ平和なこのC区でそういった事件が起こることは、べつになくはないが、本当に珍しいことだった。事件そのものは過去を調べれば日本のどこかしらであったとしても、何ら違和感はないし残虐な事件として、歴史に刻み込まれているだろうけれど。夏生たちが生まれ育った“この地域”で、そんな残酷なことが起こったことが問題だった。
この事件があまりにも残酷で奇妙で、誰かのせいにしないとどうしようもなかったのだろう。学校内では犯人探しが始まった。ヨシノの友人たちを始めとし、数人怪しいと思われる人物が上がった。ヨシノの親友のヤマシタ。ヨシノの彼氏であるサザキ。元彼と言われている一つ年上のアズマ。そして小鳥遊初。
「小鳥遊初?」
「そォ。アレ」
「あの一番後ろの人?」
「は?ちげーし。それヨリだから。その前の席で寝てる奴のこと」
ウタコが指を指した先。窓側の後ろから二番目の机に伏せて眠っている、例の小鳥遊初という女子生徒を見た。小鳥遊初のこともまた、夏生はすでに知っていた。というより、この学校どころかこの地域に住む人間はみんな彼女のことを知っているはずだ。
「あの人がヨシノを殺したってのか」
「そう言われてるらしいよ。ヤマシタとかそこら辺のグループは小鳥遊初だって思ってる」
「小鳥遊さんとヨシノって友達なのか」
「友達ではないでしょ。二人が会話してるところ見たことないし、知り合いだったんならむしろ仲悪かったんじゃない?」
一見他人と思われる小鳥遊初が疑われている理由は、小鳥遊初とヨシノが近所に住んでいるからだった。夏生たちが生まれ育ったこの区では、住んでいる番地で地位の高さが決められる。べつにそれだけで初が疑われるには不十分だが、最も地位が高いとされる一番地に住む初と、二番目であるヨシノの容姿が似ていたから、初は容疑者リストに入ってしまった。顔は違う系統の可愛さであったが、身長や髪型が同じだったため、後ろ姿をよく間違えられていたのだとか。それでなぜ初が容疑者扱いされているのかと言うと、つまり、嫉妬らしい。全てが自分より勝っているヨシノと間違われることに、コンプレックスを感じていた──。とは言うが、所詮はウタコの妄想である。ないとは言い切れないが、夏生が知る限りでは初はヨシノにコンプレックスを抱くほど何かが劣っていたとは思えない。むしろ自分の番地を利用して好き放題していたヨシノのほうが悪ではなかっただろうか。
誰かの憶測で盛り上がって生徒たちは、すっかり探偵気分になっていやがった。誰も本気にしていないし、なんとなく面白半分で探るような真似をしていただけだ。首吊り死体を見つけたとして、写真を撮ってネットに載せて「死体みっけた。やばすぎ笑」と言うのが現代の人間であろ。まったくもってクソッタレ。そのうちの一人であるウタコは、自分のクラスメイトが死んで、また別のクラスメイトが犯人扱いされているのに、まるで自分が少しずつ謎を解いていく探偵になっているかのように、自慢げに夏生に妄想を語るのだった。
「あの人警察に話聞かれたんか」
「そんなの全員聞かれてるじゃん。小鳥遊はその時間スーパーでリンゴ買ってたから無実。サザキはコンビニで万引きして事務所に連れてかれてたから無実。アズマはヨシノが死ぬ三日くらい前になんかヘマして、蟹地獄に入れられて逝っちまったらしいよ」
「なに蟹地獄って」
「ドラム缶に蟹と一緒にぶち込まれんの。したら蟹が皮膚を食い破ってくるから」
この前レイプした女がヤクザの娘だったんだって。ウケるよね。
ウタコは当時援交をしていたので、様々な職業の男たちから情報をもらっていたからか、妙に色んなことに詳しかった。山田太郎の党の山田太郎はナザリンガスだとか、十一番地のマツシタさんの畑を進んだところにあるコンビニの店長は、近親相姦で生まれた子供なので顔のパーツが中心に寄り頭が大きな奇形児だったとか。変なことを沢山知っていた。ちなみに山田太郎の党とは、山田太郎の党に所属して出馬する者は全員「山田太郎」という名で登録しなければいけないらしい。マニフェストとしては不老不死だとか週一出勤だとか、ビールとタバコの無料化、義務教育の廃止などを訴えている。どいつもこいつも狂ってんな。党を設立した山田太郎は放置子であったため、今でも自分の名を漢字で書けない劣等感が爆発した故に作ったんだとか。五十三番地に住んでいるからこそ、そういう汚れた世界のことをよく知っているのだろう。
とにかく学校内で疑われている三人にはアリバイがあるということだ。アリバイがあるのが分かっているのに、ウタコがどうして初を犯人だというのか、夏生には全く分からなかった。そもそもあの事件を同年代の子供が起こしたものだと考えている時点で、同級生の奴らは本当に馬鹿だ。仮に小鳥遊初ならば、ヨシノがレイプされたという事実はどうなる?わざわざ誰かに頼んでヤらせたのか?じゃあ今度はその共犯者は誰だって話になるだろう。警察はとっくに周辺に怪しい人物がいたかどうか調べていて、ガキどものつまんねぇ推理ごっこなんぞを鼻で笑っていたことだろう。そうだったら面白いな、って、そういうやつ。
夏生もコンビニに行けば、雑誌コーナーに置いてある表紙の巨乳に自然と目がいくごくごく普通の男の子であるから、これで実はうちの生徒が犯人でしたってオチなら相当面白いだろうなとは思っていた。
「ウタコ、お前何してんの」
小鳥遊初の後ろの席に座っていた四十九番地のタチバナヨリが、いつの間にかウタコのそばに来ていた。セフレっぽいものはたくさんいるのに友達はいないウタコの、唯一と言える友達がヨリだ。表情筋が硬いのかいつも無表情で、口元はあまり動いていないのに声にドスが効いていて、そのアンバランスな感じが妙に近寄り難さを纏っていた。ウタコに対してはやけに口が悪い。
「お前色んな人に適当なことばっか言ってんなよ。マツオカには社会科の先生が弱みを握られた逆恨みって言って、セコグチには市長のペドフィリアが爆発したとかなんとか言ってただろ」
「だってそうかもしんないじゃーん?」
「ヨシノはもう十四歳過ぎてただろ。てかプリント写さないなら返せよ」
ヨリは軽蔑したような目でウタコを睨むが、ウタコはヨリに腕を絡めて「レイプだのなんだのでいちいち大騒ぎするからウザかっただけじゃん。ねーこんなことで怒んないで」と甘ったるい声を出す。ウタコはあからさまに呆れたようなため息を吐いて、夏生を見た。ヨリの目はいつも真っ黒だ。目は大きくてパッチリしているはずなのに、どうも死んでいるように見える。
「コイツの言うこと嘘だから、真に受けて流さない方がいいよ。後で恥ずかしい思いすんの自分だから」
そう言ってヨリは、一度鬱陶しそうな表情を夏生に向けてから、ウタコの腕を振り払って自分の席に戻る。彼女は嫌悪感というものを隠そうともしないらしい。人嫌いなのかしら。
「あ、起きた」
あと数十秒でチャイムが鳴るころ、ウタコがそう言ったので夏生もそちらを見やる。ヨリが椅子を引く音で目が覚めたのか、身体を起こした初は口元を押さえ欠伸をした。腕に頬に触れていた部分がほんのり赤くなっている。便利な体内時計を持ってんだな。瞬きを数回して、まだ眠たげな目をこちらに向けた時、あ、やっぱり、ヨシノに似ていると思った。なのにヨシノの顔はもう思い出せなかった。


*


溺れて死んだら魚になりたい。水族館の魚になりたい。でっかい水槽の左端で、サンゴの近くでウヨウヨして、職員に餌を与えられて、安全な場所で若い女がストーリーに載せるための道具になりたい。なんて。
何もすることがなく、手の平に乗せた三枚のおはじきを無心でジャラジャラと動かしていた。おはじきとかビー玉って、ガラスが青とか赤とか一色に染められているものより、透明で、中にインクを注入したみたいなやつが好き。透明ってなんかいいじゃん。見た目は水なのにオレンジ味とか桃味の飲み物も好き。いや飲み物に関しては好きっていうのは嘘だな。べつに普通。
「あ、初さん。こんなとこにいたんすか」
聞きなれた声がして顔をそちらに向けた。ここは生徒立ち入り禁止の屋上……なんかではなく。でもちょっと特別な場所。道路があって整備されてはいるけど、山の中にあるから地元の人は知ってるって感じ。って言っても私も最近知ったばかりだ。よく年配の方々がジョギングをしている。夏休みになると小学生たちが見つけて大はしゃぎするような川である。そう、川。水が透き通っていてまぁまぁ深く飛び込みも可。苔が生えてる岩に座れるほど自然に心を許していないし、何より秋なんで虫が多いから。私は自転車に跨ったままさっきダウンロードしたばかりのゲームを消した。
スマホゲームは基本しない。すぐ飽きるもん。話題になってたゲームを入れてみたけど、ストーリーを読むために自分のレベルを上げなきゃいけないあの作業が本当にめんどくさい。暇つぶしのためにパズルゲームを入れて、その日のうちに消す。そう言えば中学生になってからゲームとか一切しなくなっちゃったな。
こんなところでダラダラしてないで、できれば早く帰りたかったけど。こんな時間に帰ったら親が何事だと騒ぐだろう。なんせ過保護なもんだから。もう本当にうんざりするほどにね。毎日毎日学校はどうだったかとか、何か言われたりしてないかとか。あのね、お母さん。毎日報告できるような何かがあるわけではないのです。ところで今日は早退しました。すこぶる元気です。
秋の冷たい風に吹かれて二の腕が冷える。初さん、と呼ぶ彼。夏生は、私のラムネ色の電動自転車の横に自分の自転車を止めた。彼も電動自転車だ。三週間くらい前にタイヤが壊れたかなんか言って、最近やっと修理が終わったらしい。後輪だけで三六〇〇〇円も取られたんだとか。電動自転車はマジで壊さない方がいいっすよって前に言っていた気がする。
「君、授業どうしたの?」
「なんか明日の生物、ワークシート使うから忘れずに持って来いって」
「質問聞いてた?別のクラスなのにわざわざどうも」
夏生は教科書に挟まれた四つ折りのプリントを渡した。私に渡してくれと先生に頼まれたのかな。いやファイルに入れろよ。せめて二つ折りだろ。私を「初さん」と呼び、敬語で話しかける夏生は後輩ではない。中学からの同級生で、なぜだか知らないが私のことだけ初さんと呼び敬語で話しかける。彼がそうする理由はべつに興味がなかったし、マァそういう人間もいるだろなって感じ。
「初さん、今日のことですけど」
「あぁ、あんなの気にしてないよ」
「いや、気にしてください。気にしてないならなんで帰ったんすか」
「君が騒いだからだよ」
「騒ぎましたっけ?」
「騒いだから目立った」
「だってアレ、俺のせいでしょ?」
「そうだよ。君のせいだよ。私が君の告白を断っただけで私はビッチ呼ばわり。今どき黒板に悪口書くやついる?頭悪いよね」
「よく考えたら俺のせいではないな。俺は振られただけなのにとんでもない言いがかりだ」
その通りだ。私が夏生の告白を断ったのは私の意思であって、夏生のせいじゃない。かと言って断った私が悪いわけがない。断ったから女子にハブられて、ビッチだなんて分かりやすい悪口を書かれたのも、そんなビッチが大嫌いな女子グループが勝手にやったことであって夏生のせいではない。でも総合的に見ると夏生のせいだ。イケメンで、運動神経が良くて、器用で。頭はちと弱いが、音楽も美術も得意で。夏生は人気者なんだ。だから夏生のせいでもある。人気者なのが悪いね。それなら夏生をいじめたらいいのに。てか夏生が好きじゃないだけなのになんで私が悪いの?不思議。
「あぁいうのいじめって言うんですよ。初さんは知らないだろうけど」
「いじめくらい知ってるけど」
「初さんが来るまで誰も消さなかったでしょ。そういうのが許される空気作っちゃダメなんすよ。てか初さんならいくらでも黙らせられるでしょ。なんで何もしないんですか?」
「あんなのに時間割くのだるくない?ほっとけばいいよ。どうせ殴ってくるわけじゃないんだし」    
そんなことよりそろそろお腹すいてきた。黒板に堂々と悪口書かれたことより腹を満たす方が大事じゃない?そうでもない?
「あの程度をいじめって言っちゃダメだね。もっとこう、なんか、こうさ……教科書をゴミ箱に捨てられたり、上靴に画鋲入れられたりされなきゃいじめとは言いづらいよ」
「ドラマの見すぎですよ。ああいうのっていじめられたことがない人間が想像で作ってるだけでしょ。実際上履きに画鋲とかない」
「おめぇの席ねぇから!って。おもろ」
「俺の話聞いてます?」
「実際にないかどうかなんて君が決めることじゃないよね。夏生こそ大していじめられた経験ないのになに語ってるの」
そんなことよりやっぱりなんでこの人はここにいるんだろう。プリント渡すなら明日学校で渡せばいいじゃん。学校戻ったほうがいいよ。てか戻ってくれないかな。
登校したら黒板に『小鳥遊初はビッチ』『ブス』『死ね』『人殺し』とか書いてあっただけで、机に落書きされたり教科書が破られたりしてたりはなかった。そりゃそうだ。だってそれ以上すると立派な〝いじめ〟になるもの。暴言のボキャブラリーは少ないいじめ初心者のくせに妙に頭は回る。黒板の文字は消せば終わり。私が何も言わず消せばそこで終わりだったのに。私のすぐあとに来た夏生が、私の腕を掴んで止めたから無駄に目立っちゃったんだ。
『消したらダメです』
『え、なんで。君私のこと好きなんじゃなかったっけ。笑いものにしたいの?』
『証拠残しておかないと。先生が来るまで待ちましょう』
『え?嫌なんだけど。目立ちたくないし』
『いいから』
何が?私、もしかして可哀想な奴になってる?告白を断っただけで女子からハブられて、いじめ紛いなことをされて、それでも気丈に振舞ってる可哀想な奴になってない?やだ、ウケる。
皆ふつうに談笑してんじゃん。チャイム過ぎて登校してきたやつはなんでもないような顔をしてリュックから筆箱を取り出してる。自分はいじめとか興味無いしって大人みたいな顔してさ、肌ではしっかり私たちのことを気にしてた。
今頃誰かは「人殺しってどういう意味?」って聞い回ってるんだろうな。お前らも同罪だろ!って喚けばよかったかな。一番近くに座ってるセコグチの胸ぐら掴んで「お前明日からいじめてやるからな」って言ったら、タニグチはきっとなんで?って思うだろう。なんでそんなことになる?なんで自分?って思っただろうね。
「初さん一時間目どこ行ってたんですか?」
「多目的室。先生二人いた」
「いじめのことちゃんと言ったんすか」
「いじめって言い方やめない?なんか大袈裟だよ」
「大袈裟ですよ。大袈裟にしなきゃダメなんすから」
「君、昔いじめられたことがあるの?なんでそんなに過敏なの。私と同じ中学だったよね?じゃあアレくらいおままごと程度って分かるでしょ」
「初さんのことが好きだからです。あと昔友達がいじめられて不登校になったんで」
「最後の方が重要じゃん。そんなついで感覚でいいの」
「べつについでだとは思ってないですけど」
夏生って結構さっぱりしてる。今はクラスが違うけれど、私と夏生は中学三年生の時同じクラスだった。いつからか夏生が私に話しかけるようになってきて、それから高校も一緒で、何かと一緒にいることが多くなったけれど。正直夏生のことはよく知らない。
黒板の文字を見た先生は、私を階段の踊り場で待たせて、ホームルームを終わらせてから戻ってきた。そのあと私は 多目的室に連れていかれて、担任と副担任に話を聞かれた。心当たりは無いのかと聞かれたけれど正直に答えなかった。「はぁ」とか「らしいですね」とかぽけーっと答えていたら、妙に真剣な顔をして慰められるもんだから、気持ち悪いなぁと思う。教師っていつもこうだ。いや、この気持ち悪さは教師だけじゃない。父親の会社の人も、近所の奥さんも、先輩も後輩も。みんな気持ち悪い。みんな私の顔色をよく観察しているんだ。
教室に居づらいなら帰っていいと言われた。そこで帰ったら、まるで私が傷付いてる可哀想な奴みたいになるから嫌だったけど、被害者ヅラしておくに越したことはない。先生に家には絶対連絡しないでと伝えた。そうすると先生は安心したような顔をするから、やっぱりキモい。
 クラスメイトのほとんどはイジメを見たことがなかったんだろう。うちのクラスの海くんみたいに誰も話しかけない存在はいたんだろうけど、あんな分かりやすいイジメの目撃者になることはなかったんだ。皆知らん顔しながら興味津々だった。だがこのイジメは広がったりしない。馬鹿もいるけど皆がみんなそこまで馬鹿じゃない。告白して振った女が調子乗ってるって騒いでるのは極一部だけだ。小声でアイツらしょうもないことしてんなって、あの文字書いたやつらのこと鼻で笑ってるよ。夏生が言う通り、クラスの皆がいじめを許すなんてドラマみたいなこと滅多にないんだよ。マァ止める人もいないけどね。
あ、海くんっていうのは同じクラスの男の子です。襟足も前髪も長くて、なんかどんよりしてる人。いつもヘッドホンを付けてるから誰も話しかけない。常に一人。集合写真ではいつも左上にいて、グループ分けの時に最後まで残って、クラスを牛耳ってるスクールカースト上位の人間に申し訳ないとか思ってないくせに、「ごめんなんだけど」とか言われながら同じような冴えない男子グループの中に入れられる人。本人は「どこでもいい」なんて言っちゃって。まぁマジでどこでもいいんだろうけどさ。野外学習とか絶対に来ないもん。
海くんはハブられている。誰かが「アイツ無視しようぜ」とか言い出したわけじゃない。ただ見るからに暗くて扱いづらいから、いつの間にか海くんは孤立していた。べつに皆、彼のことを嫌ってるとかじゃないんだろうけど。でも故意に孤立させようとしてるところはあるよね。
「行くとこないなら俺の家来ます?このままじゃ補導されちゃいますよ」
「そんなのイオンのフードコートでたむろってるサボり魔だけでしょ。付き合ってない男の家に一人で遊びに行っちゃダメって決まってるの」
「じゃあ付き合いましょ」
「やだ」
「あら残念。一人で遊んじゃダメって、親にそう教育されてるんすか?」
「親関係なくない?夏生って高校生になってから一人暮らし始めたじゃん。常識的に一人暮らしの男の家に一人で行かないよね」
「俺、初さんに嫌われたら病んじゃうから嫌がることは絶対にしないよ」
そう言って夏生がケラっと笑った。彼は笑うと目尻にしわができる。ていうか夏生ってあんまり笑わない。真顔で淡々としてるし、笑ったとしても笑うタイミングがいまいち分からない。
そんなどうでもいいことを考えていると、少し離れた場所からチリンチリンと自転車のベルの音がした。
そっちを見ると、この飛び込み川の敷地の入口に、オレンジ色の自転車から降りて夏生に手を振る男子生徒がいた。
「お、海ちゃん」
とこっちに来るように手招いた。海。海と言ったら、あの菊池海しかいない。いつも一人でいる、髪の毛が長くて顔が見えにくい海くんだ。夏生は特に驚いた様子もなく「なんで来たんだよ」と言った。知り合いなんだ、この二人。人気者とぼっちが。じゃあぼっちじゃないじゃん。前言撤回。
「君が急にやっぱ帰るって言うから……」
「一緒に昼飯食お」
「脳天気な」
海くんは私の存在に気付いているはずなのに、ずっと夏生の方を向いて話をしているので目が合わなかった。教室で見る彼はどんよりとした空気を纏っているのに、今見るとそうでもない。なんか、こう、意外とハキハキしている。私が夏生を見ると、夏生は聞いてもないのに「あぁ、幼馴染みなんすよ」って言った。へぇ。
「なぁ、そっちどうだった?」
「あー、先生が話してくれてたよ。誰かがヤマシタさんたちのことチクったみたい」
「海くん、なんで夏生に言うの?それ私の話でしょ」
「え?あ、あぁ……マァ……」
私が話に割り込むと海くんは夏生の後ろに隠れた。夏生はソレを全く気にしていない様子で冷静に「俺が聞いたから」と答えた。そりゃそうだ。夏生に聞かれたんだから夏生に答えて当然だ。
マ、ヤマシタがやったってことくらいは分かってる。四番地に住むあの女、中学の頃から何かとあたしに食ってかかってくる。その食ってかかってくる理由を知ってるから何も言わないんだけど。今日もまるでずっと友達だったかのように馴れ馴れしく、ただ興味本位で聞いてるだけ!みたいな無害そうな笑顔でそう聞いてきた。ヤマシタさんたちってことは、いつもヤマシタと一緒にいる女子グループもやったのね。
「教室で全体にちょっと話して、あとは生徒指導の先生に連れていかれたからどうなったのは知らない」
「へぇ」
「相手が初さんなので学校側はちゃんと対応してくれると思いますけど。ヤマシタと他の女子たちのことどうするんすか?これからもまたちょっかいかけてきますよ」
そう。〝私〟が嫌がらせされたんだから、学校はきちんと対応するでしょうよ。これが夏生だったら?夏生が嫌がらせされていたら、きっと教師たちは何もしないんだろうな。
「どうでもいいよあんなの」
「ていうか、なんでいきなりあんなことになったんだよ……」
「夏生を振ったから」
「……え、それだけ?」
「それだけだよ。あの子は私のことが嫌いなの。だから何かといちゃもんつけてストレス発散してるの」
彼女は私への嫌悪感を全く隠そうともしない分、素直な人間なんだなと思う。けどこういうことやったら自分の株が下がるだけだってなんで分からないんだろう。それでも私を虐げたくて、結局のところヤマシタは私のことが嫌いなだけだ。
べつにヤマシタは私が夏生に告白された事実が気に入らなかったわけじゃない。ヤマシタは夏生のことが好きと言うわけではないし。ただ人気者である夏生に特別扱いされている私のことを気に入らない女子たちの僻みを利用して、それっぽい理由に変えて私に嫌がらせをしてるだけだ。夏生絡みで喧嘩を売ってるのはヤマシタじゃなくてグループの女子たち。
こんなのいじめじゃないよ。喧嘩だよ。私はもうめんどくさいから全部「夏生に言えば?」って言うね。私を好きになったのは夏生。私に告白したのも夏生。私は全部された側。なんでコレが分からないかな。で、振ったら振ったでお前ごときが調子に乗んなって。マジで頭イカれてんじゃないの。むしろ喜べよ。誰のおかげで今夏生がフリーだと思ってるんだよ。
「夏生は振られたのになんで小鳥遊さんといるんだ……まだ諦めてなかったの」
そう言った海くんの花色の髪が揺れた。強く風が吹いて、暴れた髪の毛で一瞬前が見えなくなる。適当に髪を掻き上げると、長い前髪がふわりと浮いた海くんと目が合った。
あ、綺麗な顔。そんな顔してたんだ。
でもそんなことより。私はその一瞬を見逃さなかった。海くんの腕を掴んで袖を捲り上げると、彼は目を見開いて固まった。
「わァ、めっちゃリスカ痕ある。やばい」
馬鹿みたいにやべぇやべぇ言いながら海くんの手首を人差し指でなぞった。ザラザラ。ぼこぼこ。うわ気持ち悪い。火傷のような痕もある。自分で自分の肌がこんなことになってるのに気持ち悪いって思わないのかな?「気持ち悪いね」と言いたかったけれど、その前に海くんが大声を上げた。
「やめろ!なんだよ!頭おかしいのか!?」
「何が?」
「何がだって!?君の常識の無さだよ!」
んなこと知るかよ。海くんに思い切り振り払われた腕をさすって、また長い髪で隠れた目があるであろう位置を見つめた。
「海くんってさ、病みとか思春期とか人の生死とかテーマにした曲のコメ欄に『死にたいんじゃない。消えたい』って書く人?」
「は?そんなことしないけど……そもそもコメントとか送ったことないし」
「じゃあアレだ。病み垢のみたいにさ、いっぱいタグつけて、目元だけの写真とピンクのモンスターと、それらしいセリフつきの拾い画と一緒に『お友達になりませんか』ってツイートしてるんでしょ」
「さっきから何の話をしてるの?」
「なぁんだ。大量の錠剤並べてツイートしてるんじゃないのね」
「なんでさっきからそんなに的確なのさ。ていうか、馬鹿にしてる?こういうことあんまり言いたくないけど、小鳥遊さん自分が結構やばい自覚持った方がいいよ」
「言いたくないなら言うなよ。なんで自分の立場を守るための保険かけんの」
「いや、僕の目の前でそれ言うか?って思ったんだよ」
「じゃあリスカなんてしてなんて言ってほしいの?心配してほしいの?寄り添ってほしいの?理解があるふりして話聞いてあげようか」
「…………」
海くんは目をぱちぱちさせて私を凝視した。やっぱ綺麗な顔してる。髪の毛切ればいいのに。でもそうしたらきっと海くんは、明日から皆にちやほやされてしまうんだろうな。だってこの世界では顔が綺麗な奴を蔑ろにする方が異端で非常識なんだから。一生そのままでいてほしい。可哀想な奴が可哀想じゃなくなった瞬間一番惨めになるのは、今まで可哀想な奴の相手をして優越感に浸っていた人間だ。
海くんは、ほんとは可哀想な奴ではないのかもしれない。綺麗な顔を持っていて、夏生とかいう人気者の幼馴染がいる。家に帰ったらヘッドホン付けて友達と通話しながらゲームして、全然貧乏でもなくてふつうに充実した暮らしを送っているのかもしれない。そう思うと酷く腹立たしい。
海くんは学校に友達がいなくたって……いや、本当はいるのかもしれない。あのクラスに海くんの友達がいないだけで、隣のクラスに夏生がいるように彼には別の場所に友達がいるのでしょうね。同じ趣味を持つ仲間もいるんだ。きっと彼は学校にそんなキラキラしたもんは求めてなくて、学校以外の世界で超はしゃいじゃってんだ。本当に最低な気分。妄想ですけれども。
「夏生、ほんとにこの人に告白したの?」
「え?した」
「……君ことちょっとおかしいと思ってたけど、ほんとに頭おかしかったんだな」
「急にディスられたんだが」
「小鳥遊さんってかなり性格悪いんだね」
「君がそう思うならそうなんじゃない?」
「君、他にも精神的に苦しんでる人がいたら同じことをするの?笑うの?」「は?今お前の話してんだけど。他にも苦しんでる人ってなに?それ海くんと関係ある?」
「…………」
海くんはまた信じられないものを見ているような目で私を見た。もしかして君、自分はまともだと思ってんじゃないの。私のこと諭して、自分は高いところから常識人みたいな顔をして。自惚れてんじゃねぇよ。親身になって考えろって?他人でしょ。私たち他人じゃん。友達でもないよ。手首切ってるくせにまともみたいな顔してんなよ。お前もろくでもないんだからよ。無理矢理自分を不幸に当てはめようとすんなってマジで。バーナム効果だから。
海くんは確認するように夏生を見たが、夏生はディスられたことにまだ拗ねていた。
「てかなんで手首切ってんの?それなんの意味があるの?」
「そんなこと人に聞くな!夏生ほんとにこの人のこと好きなの!?」
「めっちゃ好き」
「馬鹿みたいだ!」
海くんは本当に鬱陶しいらしくて、その鬱陶しそうな目を私に向けた。やっぱり美形だ。綺麗な顔に見つめられるのは嫌な気はしない。でも皆と同じ目だ。「なんでこんな奴が?」って、ひしひしと伝わってくる。
「だからなんで手首切ってんの?衝動とかじゃなくてそういうことするようになったきっかけ」
「だから!なんでそういうこと聞くの!?デリカシーないの!?」
「聞かれたくないなら徹底的に隠しなよ。そしたら誰も気付きやしない。気を使われたいの?結局心配されたいだけならもっと被害者みたいな顔すればいいのに、なんでなんでもないような顔すんの?心配はいらないってこと?でもされなかったらそれはそれでまた今みたいにムカつくんでしょ」
「僕もうこの人と話したくないよ。なんでこの人こんなに極端なの?遠慮とか知らないの?君にはあえて触れないという選択肢があるだろう」
夏生はもう興味がなくなったようでスマホゲームをしている。指の動きはやくてキモいな。彼は自分の幼馴染が自傷行為をしていることについて、何か思ったのだろうか。やめとけとか言ったのかな。
きっと海くんは正しいことを言っている。人間って相手を説得しようとするときすごく傲慢になるんだ。自分が正しいと思ってるでしょう。だから私も「私の方が正しい」と言いたい。そして海くんはとんでもないことを言った。
「そんな性格だから嫌われて、いじめられるんじゃないか」
「おい」
スマホゲームに夢中になっていると思っていた夏生が真っ直ぐ海くんの方を向いて、怒りを滲ませた声を出した。あ、怒ってる。私のこと好きだから怒ってるのかな。それともそういう人間性?絶対に前者だな。夏生が善人というのならきっとさっきの私の発言も咎めていたはずだ。恋は人を盲目にさせるという言葉は本当だ。私が謝らなかったから、海くんも謝らなかった。
私がこんな性格だからいじめられる。確かにそうかも。海くんが教室で浮いてるのだって皆のせいじゃない。海くんが誰にも関わろうとせず、髪の毛伸ばして一人で音楽を聞いてるからだ。夏生があの時守ってくれたのだって私のことが好きだからで、私じゃなかったらきっとクラスメイトたちと同じように、知らん顔しながら情報だけは知りたがるんだろうな。じゃあいじめられて当然なのでしょう。ところで君は同じことを言われたら、はぁそうですかって納得するんですか。まともみたいな顔して、君だって黒板の文字は消せないんだ。
「そんなに聞きたきゃ夏生に聞けばいいよ。そしたら君も笑うんだろ」
「笑うかどうかは私が決めることだよ」
「ほら夏生、言えよ」
「落ち着けよお前。ムキになってんなよ」
「じゃ自分で言うよ。僕にそっくりなAV男優がいるんだって。中学の時にそのAV男優の画像と僕の顔を貼り付けたコラ画像を並べて黒板に貼られたことがある。僕が何かを言う度にそのAV男優が言ってたセリフを被せて言ってくるんだ」
「おい、海」
「なんだよ!知りたいって言うから教えてやってるんだろ!クラスの皆が笑ってたよ。僕らが通ってた中学校ってそういうのが平気で許される場所だったの分かってるだろ。汚い汚いって言われ続けた。だから僕、僕、自分が汚いんだと思って消しゴムで自分の腕擦ってさ、カッターで切ってさ、ぐちゃぐちゃにしてるんだよ。これで満足?君には分かんないだろうけどさ」
海くんはへらっと笑いながら私の胸ぐらを掴んで引き寄せた。思ったより力が強くてよろけてしまったが踏ん張って何とか耐える。夏生が咄嗟に海くんの腕を掴んだけど、私が「離して」と言うと、夏生はあっさり引き下がった。
白い肌にはニキビ一つなくて、まつ毛は長かった。目の下に隈があるのが少し残念だけれども。夏生が言ってた中学の時に不登校になった友達は、海くんのことだったんだろう。
「こんな顔じゃなかったら、僕は、」
じゃあ腕じゃなくて、その顔をズタズタにすればよかったのに。親に向かって「お前らが産まなければ」とか言ってやれよ。なにビビってんだよ。自傷行為ってきっと精神的に辛い時とそうじゃない時があるからずっと繰り返しちゃうんだ。自殺行為はしないんでしょ?海くんのトラウマは自傷行為で何とか済ませることができるから死んだりはしない。知らんけど。今私に話したことで忌々しい記憶が蘇って今日家で首吊って死ぬかもしれないね。はは。
海くんはちゃんと可哀想な人だった。髪を伸ばして顔を隠す理由があって、一人でいたい理由があって、自傷行為をする理由があって、心配される理由がちゃんとある人だ。つまり立派な被害者ってこと。ちゃんと大きな不幸を持ってていて、つまらない。
ほんとなんで私いじめられてるんだろ。海くんをいじめたらいいのに。彼の方こそ立派ないじめられる理由があるのではないでしょうか。私がクラスのグールプチャットにそのAV男優の写真と、海くんの中学生の時の写真を載せれば明日から彼はいじめられるのでしょうか。いいえ、そうはなりません。そしたら結果的にそんなものを送った私が悪になって、彼は顔が綺麗だってちやほやされるだけで終わり。
「……」
「……何か言いなよ。君が聞きたがってたんだろ」
「大変でしたね」
「………はぁ……………。もういいよ。なんか、小鳥遊さんって変わってるね」
「A型だよ」
「べつに誰もO型なのかな?なんて思ってないよ」
振っただけでいじめられた。というのは少し違う気がしてきた。これたぶん私じゃなかったらこうはならなかったんだ。夏生が人気者じゃなかったらとか、誰かがガキのくせにAVなんて調子乗って見てなかったらとか、それと同じ。私じゃなかったらこんなに反感を食らうことはなかったはずなんだ。だから海くんが「そんな性格だからいじめられるんだ」って言ったのは間違いじゃない。むしろ正解かも。でもそれって世間じゃ通用しないから間違ってる。
「小鳥遊さんってちょっとおかしいよ。大丈夫?」
「初さんは元々ちょっとイカれてるから心配すんなよ」
「夏生にイカれてるとか言われたら相当だよ」
「ちょくちょく俺のことをディスるな」
「ほんとに夏生はこの人のどこを好きになったんだよ。顔?小鳥遊さんってちょっと、いやだいぶおかしいと思わない?倫理観っていうか道徳心が欠陥してる。過去になんかあったの?家庭環境がやばいとか?」
「君散々私に向かってデリカシーないって言ってたアレなんだったんだよ。謝れよ」
「俺初さんのそういうところがマジで好きだから心配すんなよ」
何言ってんだこの人ら。てか、どうせならば海くんにはちゃんと不幸でいてほしかったんだけど。トラウマ抱えて自傷行為してるのだから今も不幸なんでしょうけど。ちゃんと人間不信になって夏生のことも信じられなくて、私とも一切喋れなくて、家の外に出るのも怖くて何回も自殺しようとしてほしかった。すればよかったのに。
夏生も女子たちに嫌われてくれないかな。会いに行ってさ、直接「お前らのことマジで興味ないから嫉妬とかやめてくれる?迷惑」つって。人気者とかご立派な立場を利用して、女子たちを精一杯傷付けて、傷付けたつもりなんかないですって顔してほしい。そしたら周りは「夏生が誰を好きになろうが夏生の自由なのに、嫉妬していじめるとかダサ笑」って君の味方になるよ。だって君は人気者だから。クソッタレ。
「で、夏生はなんでここにいるの?」
「初さんが好きだからですよ」
「もういいよそれ。海くんが同じことされても学校抜け出して追いかけるんでしょ」
「嫉妬ですか。嬉しい」
「何言ってんのマジで。私じゃなくてもするくせに、好きだからとか適当なこと言うなって言ってんだよ」
「いやこっちこそマジです」
ね。そう言って夏生は私の手を握ってカラッと笑った。目尻にシワができていて、それがなんだか可愛いと思った。元々可愛い顔をしているけれど。大きな手が私の腕に優しく触れる。親指の腹で手首をなぞられた。肌から伝わる彼の体温が気持ち悪いと思った。夏生ってなんかめちゃくちゃ気持ち悪い。そう言えば海くんはどうして学校に行けるようになったのだろうか。同じ中学のはずだけど、海くんほど綺麗な顔の人間がいたのなら覚えているはずだ。
「初さんが望むならアイツら殺したっていいよ」
「黙れ。そういう発言キモい」
私がそう言っても夏生は笑っていた。
「てか、そんなギリギリにいたら落ちますよ。危ないからこっち来て」
私は撫でられた手首を見つめた。傷一つなくて、うっすら緑色とか紫の血管が見える。
水は嫌いだ。海も、川もプールも嫌い。恐ろしくて、中学三年生の夏の水泳授業は全て欠席した。高校も水泳授業がないところを選んだ。
夏生の肩を軽く押して距離を取る。夏生と海くんがぽかんと口を開けて見ているのがなんだか馬鹿っぽくて、ちょっと面白い。苔が生えた岩の上に立って、底の石が見えるほど透き通った川を見下ろす。一瞬意識が遠のいていきそうになったのもなんとか耐えて、今にもガクガクと震えだしそうな足でしっかり立って。
立って、飛び降りた。
「え?初さん」
あ、待って私着替え持ってないじゃん。それに気付いた瞬間、私の身体は冷たすぎる水の中に沈んだ。しばらくゆっくり沈んで、腰が川底の石に当たった。足は下につけるはずなのにどうしたらいいのか分からない。
海くんが私に怒ったのはまだ他人に期待してるからだよね?理不尽にからかわれて罵られて手首切っちゃっても、海くんは今ちゃんと学校に来てるし生きてる。きっと彼は今まで色んな人に支えられたんだ。ちゃんと優しくされたからまだ他人に期待できるんだよ。
海くんの気持ちなんて分からないよ。だって私と海くんは違うもん。本当は人の命を語る歌で自分語りする奴より、結構わがままな発言が多い病みツイートより、本当は、そういう人たちに向かって「みんな今日も生きてて偉い」って、貴方の理解者ですみたいな顔して言ってくるやつが一番嫌いなんだよ。なんなんだよアイツら。人の心を平気で殺すような人間が、その曲を聴いてストーリーに載せて「感動した」とか抜かしやがるんだよ。なぁ。
「初さん!」
水が嫌い。運動は得意だけど水泳だけはどうしてもダメだった。ねぇ、私本当に水が嫌いなの。呼吸ができない状態なのが本当に恐ろしくて、海の前に立つだけで泣いてしまったし、お風呂だってしばらく入れなくて、今でもシャンプーハットがないと無理だ。顔を洗うのもまだ怖い。誰かが上にのしかかってくる。顔を押さえつけてくる。口を塞がれて、手足を縛られている。
苦しい。息ができない。どうして魚になれないんだろう。魚はなんで人間になれないのかな。欲しいお菓子が買ってもらえなかった子供のように泣けたらよかった。泣きじゃくって、息ができなくなって、そのまま溺れて、窒息して死んで、起きたら生まれ変わって魚になれたらよかったのに。飛び降りて死んだら鳥になりたいし、首を吊って死んだらヘビになりたいんだ。
突然すぐ近くで何か大きいものが落ちてきた。大量の泡が頬をくすぐる。なんだ?って思ったらぐっと腕を掴まれて強い力で引き上げられた。はぁっ、と空気を吸えば水が器官に入って噎せてしまった。私を引っ張りあげた夏生は私と同じくらいずぶ濡れで、綺麗にセットされていたワインレッドの髪はぺしゃんこになっている。濡れていても可愛い顔は可愛い。夏生はくりくりの目を瞬かせて私の顔を覗き込んできた。
「マジでなにしてんすかアンタ」
呆れたような、怒ったような声でそう言われた。少し離れたところで海くんが「何月だと思ってるんだ!」って怒鳴っているのが聞こえる。二人がテキパキと着替えやタオルを用意してくれているのを、私は他人事のように眺めるだけ。
「やっぱ苦しかったなー」
溺れて死んでから魚になったんじゃあ、まったく意味がないな。





さて、夏生が初とめでたく交際を始めて二回目の夏が来た。お互いの両親にはもうとっくに認知されている(初の親には小鳥遊家の敷居を跨ぐことすら許されていないが)し、付き合った当初は驚愕してどうにか別れさせようとしていた友人たちも、今さら口を出すことはしなくなった。キスもセックスも一度だってしなかったが、安定した関係が続いていて、何事もなく順調に過ごせている。
はい嘘。何事もなかったわけではない。カラオケに行ったら、夏生と海は九〇点台なのに、自分だけ六〇点台だったことで深く深く傷付き、二度と行かないと誓った初を無理やり誘ってみたのだが、したらあらビックリ。通された部屋は彩しく飛び散った血と、マァ惨たらしい形で置かれていた死体があった。左は何やら見覚えのある顔の男。右は全然知らねぇ女の顔。死体は真っ二つに切られ縫われて二人で一つになっていた。二人で一つなんて最高じゃん。イイね。そう言えばその見覚えのある男は去年担任だった数学教師である。
先週は起きたら見知らぬ女が初に馬乗りになっていた。おお、何してくれとんじゃおんどれ。前世も来世もその次も初と出会い結ばれ、同じ墓に入って死ぬことを誓っている夏生は、それが叶わないのならせめて初の子宮に還りたいと思うほど初が好きである。産毛だって切られた足の親指の皮だって、初のものならなんだって口にいれてしまいたくらい好きなのだ。仰向けでぴーんと真っ直ぐ眠る初に向かって、包丁を振り下ろそうとした女の頭を掴んでベランダから放り投げた。七階だけどマァ運が良ければ即死だし、悪ければジワジワ死ぬだろ。
女は海のストーカーだった。海と親しい初を彼女か何かだと勘違いしたらしい。いつの間にか長かった前髪を切っていた美しい海には、三六五日ストーカーがいるが、海はそのことに全く気付いていなかった。
警察にはやはり疑われたけれど、犯人は二〇三号室のヨコヤマという女になった。なんでヨコヤマになったのかは夏生には分からないが、初がそうだと言ったのでそういうことになった。ヨコヤマは最後まで否認していたが、詐欺グループの一員であったため結局逮捕された。世の中こうやって上手く回っていくんだとえらく感心したものだ。何も知らないのか全部知っていたのか、その日は牛タンが食べたいと言う初の白い足を撫でてふつうに怒られた。良いことがあった日は焼肉に限る。その日もやっぱり初は牛タンと枝豆ときゅうりのキムチしか食べなかった。ロースも美味しいのにな。
何もかも順調。夏生はべつに人として大事な感情を母胎に置いてきたわけでも、何かのきっかけで倫理観がぶっ飛んでしまったわけでもない。生まれたときからこういう人間であり、目の前の事実を淡々と飲み込むことができた。良いものは良い。悪いものは悪い。死ぬ時は死ぬ。ただれそれだけの普通の男子高生である。友達のことは普通に好きだし、休みの日はカラオケとかラウンドワンに行くし、登下校中に彼女のスカートがめくれたらガン見する。青春を調歌する一人の男の子だ。
はい。
結果を申し上げますと、夏生は振られた。ビックリだ。衝撃で自分の名前を忘れた。親の顔も住所も分からない。将来の夢も美しい過去も全て失った。名前は確か菅田将暉だった気がするしジャニーズに所属していたような気もする。母はニューハーフで父は伊藤カイジだったかな。もう黙ってもらっていいっすか?例年通り人を殺すような夏だった。なのに暑さを感じさせないサラサラした黒髪に触れようとしたら、彼女は首を少し傾けて避けた。いつも真っ直ぐ自分を見る目が、伏せられている。
 夏生はうんともスンとも言わず、そうですか、と。ただ、長いまつ毛がつくった影が美しいと思った。



バシャ、

「なにぼーっとしてるのさ」
脳天が冷やされキンとした痛みが走った。すぐ顔に冷たい液体が垂れてきて、輪郭に沿って口に入ってきた液体は甘かった。やってることと心配そうな海の声の温度差に、突然現実に戻される。長かった髪はさっぱり切り揃えられて、あの整った麗しい顔が夏生を見下ろしていた。海の肌の色が、髪が、服が、青、紫、黄色、赤、緑と変わっていく。
「……」
「ほんとに大丈夫?」
……アそうだ。今日は海とカラオケに来ていたのだ。学業というものを舐め腐っておるクソジャリどもは暇さえあればすぐにカラオケに行く。
二ヶ月前に殺人事件の現場になったこの部屋は、いわく付き物件としてマニア達が占領していたが、もれなく全員不運に見舞われたので誰も使わなくなった。夏生たちが怨念によって不幸な目に遭っていないのは、馬鹿だから気付いていないだけである。なんたって現役高校生。鉄柵を飛び越えようとしたときに引っかかって、太ももに鉄柵が刺さったって「血やば笑」と言って、冷静に写真を撮ってSNSに載せてから救急車を呼ぶし、遠くから「おーい!」と手を振る男がいたのでふざけて振り返したら、よく見ると手に斧を持っていた男がとんでもねぇ速さで追いかけて来た時だって、動画を撮ってグループラインに送るくらい馬鹿で愚かだった。あと若いからな。若けりゃなんだってできるし、足に穴が空いたくらいじゃ死にもせんし壊れもせんのだ。
ちなみに例の縫合殺人事件の犯人は数学教師の妻だった。右半分の女は教師の浮気相手らしい。
いやいやおめでとうおめでとう。お帰り。もう一週間が経つと言うのに、夏生は振られたショックでもはや日本語すら上手く喋れていなかった。上は制服、下は中学校の体操服、靴は家のスリッパで登校した夏生を見て、男子たちは机の上に飛び乗って喜んだ。
夏生が初と別れたことは、振られた翌日にはすでに全校生徒に知られていた。なんで?クラスメイトたちは上履きを投げて祝ってきたし、通りすがりの下級生には「終着点は出発点でもありますよ」と言われた。誰だよお前。ぶち殺すぞ。あの小鳥遊初とあの清水夏生というスーパーカップルが別れたのだから、そりゃもうパーティ以外やることがない。宴じゃ宴!
「全員死ねよマジで」
「そうですか、とかカッコつけるからじゃん。あのあとすぐにトイレ行って吐いたくせに」
「最近お粥しか食べてない」
「ストレスが胃に来るタイプなんだ……。ていうかなんで振られたの?」
やけに綺麗な顔をした海が残念そうに言った。夏生は感情が一周まわって冷静になってソレを受け入れたわけではない。ただ本当に、初は自分と別れたいという事実を理解した故の「そうですか」だった。受け入れたわけじゃあない。自分が何かをやらかしてしまったのかと考えたが分からなかった。分からないことが初をイラつかせてしまったのかもしれない。そういう無限ループ。いいから誰か早く殺してくれ。
「これからは色んな女子が君に猛アタックしに来るだろうね」
「はぁ?なんで」
「だって一番地の人間の恋人に手を出すなんて無謀にも程があるよ。でももう夏生はただの二十七番地の清水夏生だから、小鳥遊さんのものではなくなるよね」
つまりは、そう。夏生にはもう大した価値はなくなったということだ。夏生たちが住むC区は、番地の番号が最も重要視されている。一番地が最も権力が強く、五十七番地は他の住人たちから虐げられる。変なルールだろう。でもそれこそがこのC区の特徴なのだ。
この市にはA区からG区があって、それぞれの区に独自のルールが存在する。例えばD区は誰かが死んだら笑わなければいけない風習があるし、F区はC区と似ていて、団地の棟や号室で地位の高さが決められる。G区は戸籍すらない。Gというアルファベットに因んで、ゴキブリだとかゴミだとか呼ばれているのだ。そう考えればC区は番地のルールさえ守っていれば平和だった。
とにかく一番地から五番地の人間だけには逆らってはいけないというのが、海や夏生、他の子供たちが昔から親に強く言われてきたことである。また夏生たちの親も、自分の親からそう教えられてきた。世代を遡れば遡るほど、そのルールは人に強く深く根付いている。
「番地番地ってうるせぇな。んなこたァどうだっていいんだよ……」
「結構大事だよ。タケウチくんだって、4番地のコイケさんと別れてからいじめられて、結局不登校になったじゃないか」
「アイツ何番地だっけ」
「三十二」
海は純粋に夏生を心配していた。七番地に住んでいる海でさえ、一時期は学校に行けなくなるほど追い詰められていたのだから。それだけこの地域では番地の力が強くて、絶対なのだ。例え夏生が純度一〇〇の愛情で小鳥遊初と付き合ったとしても、傍から見れば「一番地の人間と付き合えた勝ち組」でしかない。
だが夏生は馬鹿なので特に何も考えていなかった。初と付き合う前だって夏生はモテモテだったし、男子とも仲が良かったし、そんな日常が戻るだけの話である。なんたって夏生は人気者なのだ。美しいだけの陰キャである海とは、生まれ持った素質が違うってわけ。
あと三日で夏休みになる。生徒たちは夏休みの間どこに行こうかと友達同士で話し合っていた。夏生にはもう絶望しかなかった。全員死ねばいいんだ。最近付き合い始めたマツモトとトクナガも別れたらいいし、移動教室でクラスメイトたちがいなくなったときに忘れ物を取りに行くふりをして、財布から金を抜き取ってるトダも晒しあげられて殴り殺されたらいい。人の体液を集めることが趣味な生物の教科担当が、中国人留学生を監禁していることだって全部全部バレたらいいのだ。
自分は初と会うことも連絡を取ることも出来ないのにお前らはなぜ笑ってるんだ?なぜ幸せそうにしてる。どうして未来の話ができるんだ。全員死ねばいい。森林伐採、人種差別、地球温暖化、貧困、紛争難民、観戦美容。もうどうしようもない世の中だ。募金では世界を救えないし、時計の針は左回転にはならない。
暗い。どうしようもなく暗い。心が荒む。人の孤独に寄り添った曲のコメント欄についつい自分語りをしてしまいそうなくらい。「死にたいんじゃなくて消えたい」と言ってしまいそうなレベル。もう死ねよ。全員死ね。
「俺ダーウィンと結婚したい」
「え、なんで?」
「俺も初恋の相手に絶叫マシンの上で告白したい」
「ダーウィンってそんな人だっけ」
「世界が滅亡する日にはジェットコースターの上でアイスを食べるんだ」
「チャールズ・ダーウィンの話だよね?」
「は?誰?ダーウィン・ラグランド・カスピアン・エイハブ・ポセイドン・ニコデマス・ワトソン七世に決まってんだろ」
「知らないよ。逆に誰だよ」
「カーチューンネットワークのアニメのキャラ」
「小鳥遊さんが観せてたんだな……」
やだな、ヤクザよろしく股かっ開いてポケットに手を突っ込んで、死んだ目をしてる野郎がカートゥーンネットワークを観てるだなんて。きっとこの猫かぶり野郎は、初の横では抱き枕を抱きしめて、目をきゅるきゅるさせながら観ていたのだろう。
長い時間、海の右太ももに夏生が頭を乗せているせいで痺れてきた。退いてと伝えると夏生は頭の位置だけ固定し、寝転びながらコンパスのように一八〇度移動して左太ももに頭を置いた。動きキモイなぁ。いじけて勝手に膝枕をしてるくせに、少し音程を外した海に口出しするもんだから面倒くさいこの上ない。
初と別れて一週間ともなると夏生は発作を起こすようになった。授業中に突然泣いたり、初の写真を見て笑いながら話しかけたり、調理実習中になんて死んでやる!と叫んで包丁を握っていた。だが夏生は初のことになると頭がおかしくなると、この二年でよく知ったクラスの男子と海は協力して「ま、ま。落ち着いてくださいよ」「あ〜お客様困ります!困りますお客様!」「チッチッチッ。ほら、骨っこやるから」と適当に宥めて、時にはおくるみで包んで寝かせてやっていたりしていた。
「初さぁん……俺たちラブラブだったのに……」
「いやラブラブぶちまけてたの君だけだったよ。小鳥遊さん結構ドン引きしてたもん」
「俺が何したって言うんだ」
「小鳥遊さんのスマホに勝手にGPSアプリ入れただろ。しかも人とのメールのやり取りが見れるやつ」
「それの何が悪い。初さんに媚びる人間がわんさかいるんだよ」
「小鳥遊さんの家の犬が死んだ時は犬の真似をして殴られただろ!」
「それの何が悪い!感傷に浸ってた初さんを慰めてただけだろ!」
「気持ち悪いんだよ!純粋に!」
「お前こそしれっと初さんの信用してる友人ポジになりやがって!男女比が二対一の組み合わせは危ねぇんだよ」
「やだよ小鳥遊さんみたいな子」
そう言って海は次の曲を登録した。そう言えば来月観に行きたかった映画が公開されるから、小鳥遊さんを誘おうと、めそぉっと泣いている夏生を他所にこっそり思うのであった。





菊池海と小鳥遊初は、友達と言うにはかなり淡白で、しかし本当に困ったことがあればお互いに相談することが多かった。映画やアニメの情報を交換しあったり、一緒に映画を見に行くオタク友達というか、でも好きな漫画やアニメの系統が違ったのでやっぱり友達ではない。けれどもたまに奇跡的に波長が合うときがある。
海と初の距離がぐっと縮んだのは高校一年生のときだ。海が初めて初と話した時に、初のデリカシーの無さと予測不可能な言動に憤慨したこともあった。その後、たまたまお互い一人で同じ映画館に来ていて同じ作品を観ていただけ。その日を境に二人の間にあった「共通の友人がいる他人」という見えない壁は壊された。この作品の原作を持ってるだとかこのキャラが好きだとか次は何月何日公開の映画を観るだとか。
海は、初のことが嫌いだと思ったし、やはり一番地の人間だなと思ったし、こんな人間を好きになる夏生はどうしようもないと、思っていた。が。マァ……。映画友達。うん。自分たちの関係は映画友達というのが一番安全でよろしい。漫画の貸し借りと、映画を観る日程を決めるとき以外にメッセージのやり取りをほとんどしない。だから今日も連絡を取っているのは、決して夏生とのことではなく、映画を観るためにいつもの集合場所に着いたので、その連絡をしているだけだ。
時間にルーズな初はやっぱり一〇分ほど遅れてやって来た。初は柄シャツに爽やかなジーパンを履いて、軽く手を振った。
「ねぇ、その格好暑くないの?」
初は海の前で足を止めるなり、いきなり海の格好を指摘してきた。夏らしい涼しげな格好をしている初に対して、海は薄手の白い長シャツを来ていた。初はやはり、遅れてごめんとかは言わない。そういうのも、もう慣れてしまった。
「遅れてごめんとかないの?」
「八分くらいでしょ」
「八分ならまぁまぁだよ」
「気にしてんの?」
「いやそんなに」
「じゃあいいじゃん」
「もういいけどさ……」
「ねぇその服暑くないの?ポリエステルじゃん」
「腕の傷跡があるから長袖着てるんだよ」
「じゃあ切らなかったらよかったのに。せっかく綺麗なのにさぁ、腕がボコボコなのめちゃくちゃ気持ち悪いよ」
「うるさいよほんとにもう。君っていつまで経っても余計なことしか言わないね」
初と海は会って話すたびに、こういうちまちました喧嘩未満のやり取りをする。初は一番地に住んでいるというのに、特に偉ぶったり誰かを馬鹿にすることをしなかった。マァ一番地に住んでいるから、というのも偏見ではあるが。だが海が過ごしてきた中で、一〇番地以内の人間なのに偉そうにしないのは初だけだった。
初が誰に対しても良くも悪くも平等であることを理解してから、海は警戒しつつも対等に初と話すようにしていた。初は初で、あからさまに自分に媚びを売るわけでも怖がるわけでもなく、それどころか結構ズバズバと物申してくる海を気に入っていた。
「ねぇ、ソレ」
「え?」
「最近ソレ、ずっと持ってるよね」
海が初の右手を指さす。初は「あぁ、」と小さく呟いて握りしめた指を開いた。そこには手の平の熱で少し曇った透明のビー玉が握られていた。
「なんでずっと持ってるの?」
「なんでだろ」
「なんでだろって……」
「なんか、可愛くて」
ほぉ。ビー玉を見つめる初の表情を見て、その可愛いが見た目に愛着が湧いたときのような感情ではなく、自分の子供を愛おしく思う愛情に近いものだと、海は直感で分かった。
初は、少なくとも一週間以上前から、ずっとそのビー玉と行動を共にしていた。移動教室でも、体育でも、ご飯を食べる時も、映画を観る時も、風呂も、寝る時も。いや風呂と就寝時がそうであるかは知らないが。昼休みにビー玉の分の食事をビー玉の前に置くなど、無機物に対する扱いとは到底思えない行動をするのだ。一緒に風呂に入っているだろうし、寝る時はビー玉にも布団を掛けているに違いない。実際海の想像通りであり、初はビー玉にも自我があるような異常な行動をとっていた。
実はビー玉だけでないのだけれど。初は昔からおはじきや飴玉、ボタン、ビーズなど、何かと持ち歩いていた。しかしね、この世にはお気に入りのタオルを持ち歩かないと不安になる人もいる。から、マァ。初もそういう類の人間なのかなぁと海は受け流していた。
「で?今日は一緒に映画観るの?」
「そうだよ。私だけ観たらかわいそうでしょ」
あーダメだなこりゃ。イカれちゃってる。海は初の今の状態が到底まともとは思えなかった。正直言って怖い。そりゃそうだ。友人がビー玉に食事を与え布団をかけ一緒に映画を観てるんだぞ。
コレが人形ならば少しは感情移入ができた。だって生き物の形をしているもの。しかしコレはビー玉だ。丸くて、透明で、目毛でも足も何もないんだぞ。頭がすっかりイカれちまったとしか思えない。
だが海はハッキリ「ビー玉はご飯食べないよ」とか「頭おかしいんじゃないか?」とか言えなかった。怖くて言えなかった。なんだか初が危うい場所にいるような気がして、言ってしまったら、初の何かが壊れてしまう気がしたのだ。小鳥遊さんが選ぶ映画はほとんどバッドエンドなのに観せるの?なんて、気持ち悪い芝居を続けることしかできなかった。


*


映画は面白かった。と思っていたのは海だけで、初はエンドロールを見届けた瞬間「あんま面白くなかったね。伏線分かりやすすぎるし、わりも簡単に想像できた」とまぁまぁな批判をした。自分で選んだのに酷い言い様だ。
シアターを出たあと、二人は一階にある書店に寄るのが恒例だった。数ヶ月に一度しかこうやって二人で出かけないので、映画を観に行く度に海は連載中の漫画の最新巻を買うのだ。初は小説の方が好きなので漫画には一切興味がないが、海が勝手に押し付けてくるのでたまに読む。が、海が好きな漫画はほのぼの系や恋愛ものばかりで初の好みじゃない。海はストレートの黒髪ロングの子がタイプらしい。自分も黒髪ロングでストレートだったので、一度もしかして自分のことが好きなのか?と聞いてみたが、絶叫されたので全然違うらしい。
本も買い終え、空がオレンジになった頃に二人はようやく帰路に着いた。昼食はワクドナルドで済ませ、映画を見て、本屋に寄って、そしてさっさと帰るのがルーティンだ。受験のことやら文化祭のことやらを話していたとき、海は世間話をしてるだけだと言うように口を開いた。
「そう言えばさ、犯人、見つかったね」
ビー玉越しに夕日を見ていた初が目線だけ海に向ける。
「ヨシノの事件の犯人」
三年前、初たちが通っていた中学の同級生である、ヨシノという学園のアイドルとも呼ばれていた女子生徒が殺された。暴行されて、レイプされたあとに、手足を縛られて浴槽に沈められていたと言う。海はその頃いじめが原因で不登校だったが、当時母親が取り乱した様子で伝えてきたのを覚えている。犯人は捕まっておらず、各クラスの何人かは安全のために保護者が登校させなかった。ヨシノが殺される前も、殺されたあとも、年に一度か二度くらいの頻度で同じような事件が起こった。死に方は様々だが、被害者たちは皆中学生から高校生の若い女の子で、暴行された上にレイプもされていた。
そんな残虐な事件の犯人が見つかった。捕まったのではなく、死体として見つかったのだ。五十三番地の貧困層に住むタジマという男。タジマは心臓発作を起こして、古びたアパートの一室で死んでいたらしい。タジマという男は、D区からの成り上がりであった。
D区は妙な風習があることとは別に、性犯罪や殺人など、倫理的に問題のある犯罪に対する罪悪感が薄い。部屋に置いてあったタジマのパソコンの中に、少女たちを殴って犯している様子のビデオが見つかった。死ぬまで殴り続けていたり、首を絞めていたり。そのうちの一つに、全裸で両手足をガムテープで縛られ、浴槽の底に貼り付けられて、少しずつ溜まっていくお湯の中で溺れ死んでいくヨシノの動画もあったそうな。
「ヤマシタ、泣いてたね」
「あの馬鹿女はヨシノと仲良かったからね」
「君たちまだ喧嘩してるの?」
「別にしてないよ。お互い嫌いなだけ」
「実は仲良いんじゃないかってくらい毎日小競り合いしてるじゃないか」
「何言ってんの?仲が悪いからしてるんでしょ」
当時初を犯人だと罵っていたヤマシタが初に謝ることはなかったが、初はヤマシタについて特に何かを言うことはなかった。ヨシノの両親はこの三年でものすごく老けて、母親なんかは美人親子として有名だったのに、目の周りが窪んで頬が痩け、艶のあった髪はぼさぼさで白髪だらけになっていたのを思い出す。何かに取り憑かれたかのように毎日毎日人に犯人についての情報を聞き回って、時には全く関係ない歩行者にお前が犯人だと掴みかかっていたりもした。
それももう全部終わったんだなぁ、と海はしみじみ思う。中学二年生なら卒業までほとんど学校に行ってなかったため、母親や夏生から聞いた話をニュース番組を観ているかのような気分で聞いていた。他人なのだから他人事ではあるけれど。犯人が見つかったり、初と夏生が別れたり。今年の夏は忙しい。
「スーパー寄って帰りたいんだけど、いい?」
海がそう言うと、初は後ろを向いてぼーっと道路を眺めていた。
「小鳥遊さん?」
「え?なに」
「何かあった?」
「何もないけど。なに?」
「スーパー。母さんから買い物してきてってメール来たから行きたいんだけど」
「私、このあと用事あるから。先帰っていいよ」
「用事って何さ」
「なんでもいいよ」
ふーん。
海は詳しく聞くことはしなかった。その後初は本当にどこかへ行ってしまい、海は一人で電車に乗って帰った。電車で涼しくなった身体は夕日に強く照らされ、すぐにじわりと汗が滲んでくる。自分が長袖を着てるせいではあるが。最寄り駅から三分のところにあるスーパーに入れば、今度は寒すぎるくらいだった。
買い物かごは使わず、かぼちゃ一玉と白味噌、豚のひき肉を抱えてレジに並ぶ。一個前の老人客が精算をしている時に、ようやく見慣れた顔と目が合った。
「お、来てたのかよ」
「そー、買い物」
夏生はまだ老人客が購入した商品をスキャンしている途中だと言うのに、後ろに並んでいた海に普通に話しかけた。
夏生は高校生になって一人暮らしを始めたので、一年生の頃からこのスーパーでバイトをしていた。はじめは商品担当だったが、なんせ可愛らしい顔立ちをしているものだから、パートのおばちゃんたちに大層気に入られてレジをさせられることになった。可愛らしいが、意外とあまり笑わないので集客効果があるかどうかと言われたら分からないが。
初はここで夏生が働いてるから来たくなかったんだなぁ、と海は思った。デリカシーの欠片もない初にも気まずさというものは持ち合わせているらしい。今までは初が買い物に来る度に、接客中だと言うのにアイドルの握手会のように、夏生は初が会計を終えて視界から消えるギリギリまで話し、手を握り、最後はデレッデレの笑顔で見送るのだ。普通は夏生がアイドルで初がファンの立場になるはずだが、夏生は初以外の客には「しゃっせー」「しゃあっしぁー」「二度と来んな」と、マァ適当な接客しかしない。
「カゴに入れたらいいのに」
「どうせエコバッグもないし、どっちにしろ手で持って帰るからいいやって思った」
「袋買えよ。ポイントカードお持ちっすか」
「お金かかるじゃん」
「二円だろォ。はい、二九三〇円でーす。てか初さんと映画行ってたんじゃないのか。初さんは?」
夏生は拗ねたように唇を尖らせながら言う。老人客の会計が終わり、今度は海が買った商品をスキャンしていく。
「用事あるからってどっか行ったよ」
「どっかって?」
「さぁ?本屋の近くで別れたし」
「はぁ?どこ行ってんだよ……」
夏生は海が財布から金を出している間に、エプロンのポケットからスマホを取り出した。衝撃を受けた海は思わず叫ぶ。
「正気か!?クビになるよほんとに!」
「初さん、今どこにいるんだ」





ギラギラとした夕日が肌をオレンジ色に染めるこの時間、初は一人で廃れた住宅街を歩いていた。ここはD区に最も近い五〇番以降の地域だ。そこらに不法投棄された電子レンジや廃車、手入れされていない雑草だらけの公園を眺めながら足早に歩く。田舎のように土地が広いから家はそれなりに立派だが、どこかどんよりした空気が流れていて、人がいる気配がなく、コンビニやスーパーも少ない。
ここに足を踏み入れることは初めてではない。中学生の頃に数回、三回ほど入ったことがある。好奇心やら、親への反発心やら、つまりその頃初は反抗期だったわけだ。初は自分の両親が嫌いだ。初が少し不満を漏らしただけで担任や校長を呼び出したり、二番地や三番地の主婦仲間に噂を流してクラスメイトの一家を引越しまで追いやったり。そういう、初だけで何とかなる問題にいちいち首を突っ込まれることにうんざりしていた。
反抗心とは言えど、初もこの辺りが危険なことくらいよく分かっている。ヨシノの事件があってからは、どこの保護者もここには絶対に行くなと自分の子供に強く言い聞かせたことだろう。今日だってこんな場所に来る予定ではなかった。しかし初は、海と本屋から出たときに見てしまったのだ。クラスメイトのヤマシタが、見知らぬ男の車に乗る瞬間を。
(あの馬鹿女、どこに行ったんだよ……)
念のために落ちていた鉄パイプを拾って、走り回る。坂道の上にある木製の一軒家の窓から、老人がじっと初を見ていた。無気味だ。ここは異様な雰囲気が漂っている。
ヤマシタのことは好きじゃない。自分が四番地に住んでるからと言って、意地が腐った大人たちと同じように人を見下している女だ。自分が優遇されるのは当たり前で、気に入らなければ不機嫌になる。自分より上の番地に住んでる人間にはニコニコと良い顔をするくせに、一番地に住んでいる初にはどうしてか噛み付いてくる。どうしてかって、どうしてヤマシタがそれほど自分を邪険にしているかということくらい、初はよく分かっている
五十二番地の汚れたクリーニング屋を通り過ぎたところで、女の甲高い悲鳴が聞こえた。ヤマシタだ。初は走って声のする方へ向かった。
「いや、」
「離してッ」
と、ヤマシタの叫び声が少しずつ近付いていく。とある古い民家まで走った時、誰かの身体の一部が見えた。初は音を立てないようにゆっくり近付き、鉄パイプをしっかり握った。砂利を踏む音が聞こえないように慎重に近付いていく。頭が痛い。ヤマシタの声が水の中にいるときのように聞こえて、途端に息が苦しくなる。口から飛び出しそうになるほど激しいこの鼓動が、相手に聞こえていないか不安になった。私ってこんなに緊張できたんだ。すごい。勝手口に繋がる庭で、泣き叫んで嫌がる女に覆い被さろうとしている男と、男に掴まれた女の細く白い足が見えた。女の足首には灰色の下着が引っ掛けられていて、

次の瞬間、初の頭の中で何かがパンッ!と破裂したような気がした。

初は鉄パイプを振り上げて、そのまま勢いよく男の頭に振り落とした。そのせいでヤマシタに向かって倒れ込んでしまい、ヤマシタは「ぎゃあっ!」と情けなく叫んだ。初が男の髪や首をめちゃくちゃに掴んで砂利に引きずり倒すと、男は呻きながら地面に蹲る。初はもう一度男の頭に鉄パイプを叩き付けた。
痛みに悶えて苦しむ男を、初は黙って見下ろした。ヤマシタは乱れた髪が口の中に入ってしまっていることにも気付かず、自分がされそうになったことに怯えて、ガタガタと震えながら泣いてる。初はそんなヤマシタに優しい言葉をかけるでもなく、早くこの場を立ち去ろうと急かした。
「早くパンツ履いて立って。警察呼ぶから」
「……」
「はやくしてよ」
「…………ないの」
「なに?聞こえない」
「立てないのッ!こ、腰が抜けて!」
「はァ?」
ヤマシタは鼻を真っ赤にした不細工な顔で初に怒鳴った。毎日時間をかけてセットしているであろう、いつものカールの髪はぐちゃぐちゃになっていたし、男から逃げるために暴れたせいで擦り傷ができていた。本当に馬鹿な女だ。
「コイツは何なの?アンタとどういう関係なの」
「叔父……ママの弟」
「で、なんでこんなところに連れてこられるわけ?」
「知らないよそんなの!今日うちの家行くから、ついでに迎えに来てくれるって言うから車に乗っただけだもん!そしたらだんだんこっちら辺に来てて、それで……」
ヤマシタは「どうしよう」と泣いた。どうしようって、どうしようもないですが?お前、コイツに騙されてたんだよ。叔父だと思って心を開いてる馬鹿なお前を、この男は犯すことしか考えてなかったんだ。そうじゃなかったら、よりにもよってヤマシタをここへ連れてくるはずがない。ヨシノと友達だったヤマシタを、最低な思い出しかないここに連れてくるはずがないのだ。
「帰るよ。ここが危ないことくらい分かるでしょ」
「そんなことアンタにいちいち言われなくても分かってるよ!」
「じゃあはやく立てよ。無理にでも立て」
さすがにヤマシタをおぶって帰ることは出来ない。ここから駅まで歩いて40分はかかる。バスも何時に来るか分からないし、とにかくこの場から離れることを優先しなければいけない。
ヤマシタの腕を掴んで立たせたとき、初の身体は横に吹っ飛びアルミ素材のフェンスに激突した。いつの間にか起き上がっていた男に突き飛ばされたのだ。突き飛ばされた拍子に額を強くフェンスにぶつけてしまったせいで、額からダラダラと生温い血が流れてきた。頭が痛い。
「小鳥遊!」
また座り込んでしまったヤマシタは、四つん這いで初の元まで寄る。ヤマシタは泣きながら「どうしよう」「血が、」「どうしよう」と、どうにもできずに手を彷徨わせていた。普段初を見る度に不機嫌そうにつり上がっていく眉は、頼りなく下げられている。
男はへらへらと笑ってヤマシタに手を伸ばした。ヤマシタは初の額の傷を見たショックで男に気付いていない。初が男の手を払い除けで、拳で頬骨を殴った。するとへらへらしていた男から表情が失われ、その瞬間、初は理解するより先に本能で身体が動いていた。ヤマシタの手を掴んで走り出そうとしたが、髪を掴まれ引きずり倒される。地面に強く頬骨を打ち付けて倒れたとき、腹を強く蹴られ一瞬呼吸ができなかった。
男は二、三度腹を蹴って初に馬乗りに、バチンッ!バチンッ!と頬が破裂してしまいそうなほど強い張り手をする。ヤマシタが「やめて!」と叫べば、男は穏やかな笑顔を見せて「そこで待っていてね」という。そしてすぐに初の方に向き直して、今度は首に両手を掛けた。容赦なく圧迫されていく喉から、初は潰れたような声を出す。男の手の甲に爪を立てたり、必死に身体を捩るが、男はビクともしなかった。男は無表情だった。
「ッ、カ、ふ、……っ……!かヒュ、」
唇に血がチリチリと集まっていく感覚がする。頭がぼうっとして、息は吸えないのに、肺から酸素が失われていく感覚がする。身体を必死に動かしても意味がなくて、口の端から涎が垂れ落ちてゆく。
息ができない。息ができない。嫌だ。水の中にいるみたいだ。息ができないのは恐ろしい。
嫌だ。

嫌だ。

意識が飛びそうになった時、ドンッ!と鈍い音がして、男は崩れ落ちる。急に肺に大量の酸素が入り込んできたせいで、初は身体を捩って咳き込む。馬乗りになっているはずの男は、初の横で汚い喘ぎ声を出して悶えていた。
「ゲホッ、ゲホッ!はァっ、!」
「大丈夫すか?」
聞きなれた声がスっと耳に入った。初は咳をしながら目線だけそちらに向ける。ぼやける視界の中、そこにはスーパーの制服を来た汗だくの夏生が立っていた。なぜかかぼちゃを抱えている。
「な、ゲホッゲホッ……!……なつ、お……」
「ちょっと待っててくださいね」
夏生は男の髪を掴んで引きずり回す。初は頭の痛みに顔を顰めながら、ただひたすら男に暴行を繰り返す夏生を眺めていた。夏生は庭から手ほどのサイズの石を持ってきて地面に置き、男の髪を掴んで石に額を叩き付けた。ピッと血がはね返る。
どうしてここが分かったのとか、そんなことを聞いたって「GPS確認したらここだったんで」と言うに決まっている。夏生はバイトを放り出してここまで来たのだ。しばらくしてようやく落ち着いて呼吸ができるようになった初は、よろよろと立ち上がってヤマシタを探した。だがどこにも姿が見当たらない。
「ヤマシタなら海が連れていきましたよ。警察ももう呼んでます」
なんだと。じゃあ私も連れていってよ。夏生は無表情で男の頬を殴り倒し、ゆっくり首を絞めていた。初がさっきそうされていたからだ。夏生はこの男が初にしたことをそっくりそのまま返そうとしている。男の顔がみるみる真っ赤になっていき、金魚鉢から飛び出た金魚のように目を見開いて、口をパクパクさせて必死に酸素を取り入れようとしていた。
石で殴られ、顔が血だらけになってしまった男は、弱々しく「やめてくれ」「許して」と懇願する。初はソレを見て、吐き気がした。
「どいて」
男に跨る夏生を退ける。男がビクビクと震えながら身体を丸めて「許してください」と言った瞬間、初は男の顔面を思い切り蹴った。
「ふぶッ、!」
何度も。
「ガッ、ヴぅ……!」
何度も何度も。
夏生が初の腕を掴んだ。初の靴が汚れてしまうのが嫌だったからだ。そんなことは自分がやるし、ぱっくり割れた初の額をはやくどうにかしたかった。夏生に止められて蹴るのをやめたかと思えば、初は片手で顔を覆ってぶつぶつと何かを呟いていた。
「不思議だなぁ。ゴミみたいな……ゴミでも血は赤色なんだなぁ。嫌だなぁ。同じ人間みたいで腹が立つなァ」
初は困ったように笑う。あーだとかうーだとか呻く男の頭に、転がっていたかぼちゃを拾い上げてもう一度叩きつけてやった。そしたらかぼちゃはぐちゃりと砕けてしまった。男の黒い瞳はぐりんと上を向いてる。
初はそれを見て笑った。男のその顔があまりにも不細工だったからだ。気を失っている男の頬を思い切り引っぱたいて、強引に意識を戻させた。額から流れ落ちる血が柄シャツの襟元を染めていく。口の中に血が入ってしまったけど、そんなことどうでもよくて、暑くて、痛くて、頭がおかしくなってしまったような感覚がした。
「オイ、聞こえてるか?聞いてんのかお前」
「は、はひぇ、ぐ、」
「ヨシノのこと覚えてるか」
「ぁ、あえ」
「覚えてんのかって聞いてんだよオイ」
男の顔を殴る。 重力に従って頬を伝わる汗がアスファルトに落ちてシミを作っていく。育ちが良い初が人を殴り慣れているわけがない。だが無抵抗の人間には十分すぎる力で、握りしめすぎて真っ白になった右手を、男の鼻に容赦なく振り下ろした。
「おごッ……!ガ、」
「ヨシノを殺したのはお前だな?」
「ヴ、ェぎッ、」
「三年前に殺したでしょ。可愛らしい顔した女だよ。浴槽に沈めて殺したんだよなァ」
「ヨシノの身体は良かったか?」
初の大きな瞳が揺れる。右手が痛くなったのか、近くに落ちていた鉄パイプを拾って、男の顔面目掛けて振り回した。血の着いた歯が二本飛んだ。血なのか何なのか分からない体液が辺りに飛び散る。男の喉からヒュー、ヒュー、と掠れた呼吸が繰り返される。
「抵抗できなかったヨシノの顔を殴って、歯を折っただろ。そんでレイプして、ガムテープで縛り付けて殺したのはお前だな?お前だろ。お前なんだよ。オイ」
また血が飛ぶ。初は髪を振り乱し、一心不乱に男を殴り続け、魂が抜けたように「お前だよ」「お前が殺した」と、まるで呪文のように同じことを何度も言った。
「私の顔を見ろ」
「覚えてるだろ」
男の髪を鷲掴みにして無理矢理目を合わせる。鉄パイプを構える初に、男は情けない声を出しながら必死に首を振った。そんな男に初は乾いた笑いを浮かべて、今度は腹を蹴った。強く鳩尾を蹴られた男は吐瀉物を吐き出す。胃液の酸っぱい臭いが路地裏に広がった。男のぐりんと白眼を剥いてぐったりとする。もう死んだかもしれないけれど、そんなことはどうだってよかった。もうなんでもいいから、殺してやりたかった。
夏生はまだ腕を振り上げようとする初の腕を掴んで、ようやく止めた。血で汚れた初の顔や手を自分のTシャツで拭い、乱れた髪を整える。
「……その人じゃないですよ。ヨシノを殺したの」
遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。さっきまでは何も気にしていなかったのに、全てを取り囲むようなセミの絶叫はあまりにもうるさかった。ベタつく肌が気持ち悪い。オレンジ色だった空は、いつの間にかピンクやら群青色やらのグラデーションを作っていて。 お互い服や頬に血を飛ばしていて、そう言えば久しぶりに夏生の顔を見たなぁと思うのだ。なんだか急に泣きたくなって、でも初は泣かなかった。
ヨシノを殺したタジマは死んだ。死んでしまったのだ。この男は夏生の言う通り、ヨシノを殺した犯人ではない。ヨシノを殺したタジマは誰からも罰されることなく、罪を償うこともなく、勝手に死にやがった。はは、死んだってなんだよ。部屋で心臓発作とかふざけてるだろ。せめて車に轢かれるとか、誰かに刺し殺されるとかしろよ。
「…………昔からさぁ」
初は小さな声で切り出した。
「なんでか分からないけど……小さくて可愛らしいものを見たら、無性に泣きたくなるの。守ってあげなきゃ、大切にしなきゃって」
「本当はビー玉なんかどうでもいいんだ。ビーズもおはじきもほんとはいらなくて、でも不安で。形に残るものをそばに置いておきたくて」
初はポケットの中のビー玉を取り出した。
「だって、死んだら何も残らないから」
そうだね。小さくて丸くて可愛らしくて、守ってあげたいね。一緒に温かいご飯を食べて、柔らかいベッドで寝かせてあげたいね。夏生はそう言って初の手からビー玉を取って、口に持っていって飲み込んだ。そしてニッコリ笑って初の手を握ぎる。夏生の手は汗でじっとりしていて気持ち悪かったけれど、初は警察が来るまでその手を離さなかった。





生理中でも体調が悪いわけでもなく、ただ人前でスクール水着になるのが嫌だから、プールサイドで見学しているときの、あの、妙に緊張した気持ち悪い感覚と謎の背徳感に似ている。塩素の匂いが好きだった。胸が苦しくなって、陽の光でテラテラ輝く水面が好きで、端っこに虫が浮いているのが嫌いだった。濡れたアスファルトの匂いは好きだった。クーラーとか蚊取り線香の匂いも、雨の日の冷たい風で二の腕を冷やしながら毛布を被って、忙しなくはためくカーテンを見つめるのも、生暖かい夕日に焼かれて生まれた影も、全部好きで、苦しくて、大嫌い。
清水夏生という男は、初が大嫌いな夏を詰め込んだような人間だった。ギラギラと照らして焼いていつも付きまとってくるのに、突然静かになって寂しくなる。波のようでもあったし夕立のようでもあった。初は夏生に見つめられることが苦手だった。何も考えてなさそうで、その実初に異常に執着していて、でもやっぱり何も考えていないから気持ち悪い。
別れを切り出したのは自分なのに、夏生の顔を見ることはできなかった。「そうですか」と、いつもと変わらない声色で言われた時、少し驚いた。初は自分が夏生に深く愛されている自覚があったからだ。だから少なくとも理由は聞かれると思っていたし、四肢をばたつかせて号泣される可能性の方が高いと予想していたのに。ショックというか、衝撃だった。そうですかと言われたらそうですけど。
「初さん」
ベッドのシーツが擦れる音がする。月明かりに照らされただけの部屋では、夏生の顔がよく見えない。一人暮らしをしている夏生の狭い部屋に来るのも久しぶりのことだった。一人用のベッドに二人で並んでいるから狭くて仕方がない。
「泣いてるんですか」
指の背で頬を撫でられる。 初は泣いてなどいなかったが、夏生に触れられるのはなんだか悪い気はしなくて黙っていた。
あのあと初たちは当然警察に話を聞かれたが、正当防衛という形で丸く収まった。マァそうなることは分かっていたからアレだけめちゃくちゃに殴ったのだけれど。初が正当防衛だと言えばそうなるのだ。暗闇の中でうっすら見える夏生の頬には湿布が貼られていた。初の母親が夏生をぶったからだ。初の母親は、海にもヤマシタにもヒステリックに怒鳴っていた。自分の娘が傷つけられたことしか興味がないのだ。夏生は殴られても無反応で、にこやかにすみませんと謝罪するだけだった。
「勝手に家出てきてよかったんすか?今日あんなことがあったばっかなのに、お母さん発狂しちゃいますよ」
「すればいいよ。なんかもうどうでもいい。あの人といると疲れるし」
「俺は好きなだけいてもらってもいいっすよ」
「高校卒業したらここに住もうかな」
「マジで?」
さぁ?どうだろうね。でも半分本気。
自分は、これからも守られて生きていくのだろうと思う。娘は被害者だと叫ぶ親に守られて、優遇してくる学校に守られて、もうそういう人間だから仕方ないと言う海に守られて、無条件に愛してくれる夏生に守られて、そして一番地という絶対的な数字に守られる。そう考えればヤマシタという女は、中々勇ましい女ではないか。
ヤマシタはヨシノが初と間違われて殺されてしまったことに気付いていた。本当はタジマに目をつけられたのは初で、同級生でも間違えてしまうくらい骨格や背丈が似ていた初とヨシノを、一度だけしか見たことがないタジマが見分けられるはずがない。初があの日、ふらふらとあの場所に行きさえしなければこうはならなかったはずだ。ヤマシタだけは、ずっと初を否定して責めてきた。例え初がD区付近に立ち寄らなかったとしても、タジマはどこかで初かヨシノを見つけていたかもしれないし、もしかするとヤマシタが殺されていた可能性もある。でもそんなことを言ったって、ヨシノは初の身代わりになったことに変わりはない。ヤマシタにとって初は、自分の親友を殺した最低な奴以外の何者でもない。
「初さん」
「なに?」
「俺があなたを苦しめましたか」
初は質問の意図が分からなくて、何も言えず彼を見つめた。
「俺の愛は初さんを苦しめますか」
「何言ってんの」
「泣かないで、初さん」
泣いていないのに、夏生は変なことを言う。私は本当に夏生が好きだったのかな。彼の優しさにつけ込んで、ただそばに居てくれるから一緒にいただけじゃないのか。結局自分を必要としてくれる人が欲しかっただけじゃないの。それがイコール夏生を好きだと言うにはあまりにも不完全だ。
「初さんは俺のこと、嫌いですか」
「ううん」
「じゃあ、俺やめませんから。初さんのことを好きでいるのをやめません」
少しずつ暗闇に慣れてゆく視界の中で、夏生は酷く優しい笑顔でそう言いのけた。目じりにできる皺は相変わらず可愛くて、どうしようもなく腹が立つ。
「気持ち悪いんだよ、君のそういうところ」
嘘だ。気持ち悪いのは全部夏生のせいじゃなくて、永遠を信じてやまない夏生のその綺麗な瞳が自分に向けられることが恐ろしかったからだ。ずっと怖かった。自分のせいで殺されてしまったヨシノのように、今日初の母親に殴られてしまったことのように、自分のせいで夏生が踏みつけられてしまうことが恐ろしい。私が夏生の手を取ることによって、また理不尽に何かに巻き込まれたら?周りに勝手に見定められて、人格も何も否定されて、悪意ある人間たちにぐちゃぐちゃに潰されてしまったら?
そうしたら夏生は、私を嫌いになるだろうね。
「どうせそのうちうんざりしてくるよ。私がそうなのに夏生がならないわけがない。なんでも耐えられるとか、そんなのはったりだ」
「私はずっと君に嫌われるかもしれないって思いながら、怯えながら生きていかないといけなの?そんなの嫌だ。めんどくさい」
初が冷たくそう言い放つと、夏生はまんまるな目をさらに見開き丸くさせた。ぽかんと口を開けて、馬鹿みたいな顔で初を凝視する。それからじわじわと、吐き気がするほど甘ったるい表情を浮かべた。
「そう思うなら試してみればいいよ」
「まさか、俺が今更アンタのことを離すと思ってるんですか」
夏生が初の顔の横に両手をついて、覆いかぶさるように見下ろす。今まで何度も同じベッドで共に朝を迎えたが、夏生は一度だって初にそういう意味で触れることはなかった。キスだってしたことがない。手も繋がない。初は何も言わなかったが、夏生は初がそういった触れ合いを避けようとしていることに気づいていた。
でも、それも今日で終わりだ。美しく生え並んでいるまつ毛に唇を落とせば、初の瞼が震えた。
「俺は俺が死ぬその時までアンタを離さないよ。死んでも俺から逃げられると思わないで。初さんに殺されて初さんがほかの男と結婚して子供を産んだら、きっとその子供は生まれ変わった俺だよ」
「アンタが死ぬころには、俺の言ったことは正しかったって思うよ。その頃には俺はとっくに初さんの一部になってて、俺がいなくなったら初さんは死ぬほど寂しくなるよ」
「海でもヤマシタでも初さんを埋めることはできない。誰にも何にもぽっかり空いたソコを埋めてもらえず、アンタは最後の最期まで俺を想い続けるんだ」
こめかみ、頬、顎、首筋、鎖骨と。夏生の湿った唇が肌をなでる。初の喉から潰れたようにみっともない声が漏れる。脳裏にチカチカとコマ送りのようにヨシノの姿が過った。なのにどうしても顔が思い出せない。黒いクレヨンで塗りつぶされてしまったかのようだった。せめてヨシノと同じ傷を負えることができたらよかったのに。でも今から初の身体を割って開く人は、初を愛し、初の愛すべき男だ。
ヨシノをぐちゃぐちゃにして殺してしまったこの方法で、私は今から愛されるんだ。
溺れて死んだら魚になりたいと願ったのはいつだっただろう。私はもうお風呂に入ることも顔を洗うことも怖くなくなっていて、あれだけ触れられることを避けていたのに、それももう今日で全部よくなっていくのだ。そうして全部よくなって、きっとヨシノのことも思い出さなくなっていく。私は勝手に許されていくんだ。
初は、傷一つない白い肌がなでられていくのを、ただ見つめていた。