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恋せよ男子、そして死ね



春村葵の考えていることはよく分からない。
と思うのは伊織だけではなく、この世のほとんどの人間がそうだろう。それこそエスパーじゃなければ葵の考えていることが分かる人間なんていないだろう。葵に限らず、人の考えていることが分からないと嘆くなんておこがましい。とは言え大抵の人間は嬉しかったり楽しければ笑い、悲しければ泣き、ムカついたら怒るもんだ。しかし葵はそういう、人として最低限の感情表現すらほとんどしない。正しくお人形。
「可愛いんだけどなぁ〜……何やっても可愛いし、座ってるだけでも可愛い」
「なァ俺小指の爪にこの白い点?みたいなのよくできるんだけどコレなに?」
「あんなに可愛くて大丈夫?今どき高校生でツインテールしてる子いないよ?しかもツンデレとかロリボってわけでもないしギャップすげぇよ」
「コレって病気なんかな。なくなったっておもったら別の指に出てくンだけど小指がいっちゃん多い」
「でもやっぱ笑ってた方が良くない?女子は愛想が良いほうが可愛いよ」
「愛想は男女全員良い方がいいだろ。なんで女子だけに求めるんだよ」
「今までシカトしてたくせに急にマジレスすんのやめろ。女が愛想悪いと印象悪いのは全国共通の認識だろうが」
「葵さんは印象悪いのか?」
「ソレを上回る圧倒的可愛さがあるから全然いいよ」
「じゃあいいだろ」
じゃあいいか。そうだな、笑わなくても可愛いんだからべつにいい。馬鹿なくせに自己完結だけは異様にはやい伊織と澄彦は、澄彦が作ったマシュマロチョコスティックを食べた。伊織は少しだけ澄彦のお菓子を食べることに戸惑いがある。

と言うのも、昔忠邦が伊織にココ最近毎晩同じ夢を見る話をしたことがあった。忠邦は自室に繋がる地下の調理場にいて、テーブルには母親が俯いて座っている。忠邦は動けない。俯いた母親が貧乏揺すりをしだすと、少しずつ脚の動きが激しくなり、床に肉がぶつかって潰れ、肉片が飛び散り、骨が飛び出す。そこで夢は終わった。次の日忠邦が地下の冷蔵庫を確認すると、少しだけ扉が開いていた。
その日も忠邦は夢を見た。忠邦は地下にいて、母親が俯いて座っている。母親は今度は爪でテーブルを引っ掻き出した。爪先が削れ肉がすり潰されていく。前日と同様に肉片と血と骨が飛び出し肘までなくなったのを見て夢は終わった。起きた忠邦はまた開いていた冷蔵庫の扉にガムテープを貼り付けて固定した。
また次の日。夢の中の母親は首だけになっていた。首だけが、テーブルの上に置いてある。記憶の中に鮮明に残っている、若々しくて愛されるために綺麗であろうとしていた母親の顔だ。忠邦は少しだけ懐かしい気持ちになった。そして母親の口元がゆっくり動くのが見えた。口元が開かれるのと同時に目も大きく開かれてゆく。そして、そして、目をかっ開いて何かを叫びだそうとした瞬間に、忠邦は目を覚ました。地下の冷蔵庫を確認すると、ガムテープは剥がれていて、扉が開いていた。
伊織はその話を聞いた翌日、忠邦と喧嘩した。なぜ喧嘩になったのかは覚えていないけれど、自分が忠邦を怒らせたのは覚えている。それから喋らない二人を見かねた和成がサイクリングを提案し、二人でサイクリングに出掛けた。休憩中に澄彦が作ったお菓子を食べてのんびりと過ごし、伊織と忠邦は無事に仲直りをすることができたのだ。が、伊織はその日奇妙な夢を見た。伊織は夢の中でコンクリートで覆われた冷たい空間に立っていた。目の前には巨大な冷蔵庫と、見知らぬ女の頭。


あ、あ、
あああああ

コレ、コレ、おい、これ、ふざけんなよ。おい、コレ、忠邦の夢じゃねぇか。


忠邦は、澄彦が作った菓子に伊織の分だけ粉砂糖の代わりに人骨の粉末をかけた。その人骨は忠邦が何回閉じても開いていた冷蔵庫の中に入っていた女の骨である。母親ではない。母親は数年前に食って処理した。伊織は見知らぬ女の一部を口に入れたのだ。そして忠邦の夢の続きを見た。
コレが忠邦の、誠心誠意を込めた仕返しである。
夢の続きを最後まで見てしまった伊織は飛び起きて忠邦の部屋に走った。ふざけんな、と叫んだところで気持ち悪くなって、忠邦の前でうずくまって吐いてしまった。忠邦はソレを見下ろして歯を見せて笑ったのだ。

あの日から何も悪くない澄彦の手作り菓子に対して強く警戒していた。だが忠邦は基本無害だ。食べることにしか興味がないし、ぼーっとしているし、意外と感情豊かで分かりやすい。けれどもシェアハウスをしている七人の中で一番惨いことができるのも忠邦だった。相手が伊織だったからまだいいものの、もし人骨を口にしたのが澄彦だったなら、きっと澄彦は今頃精神病棟にいたことだろう。
「てか、伊織はなんでそんなに葵さんのことが好きなの?」
「え、可愛いじゃん」
「可愛い人ならいっぱいいるだろ」
「先輩は特別に可愛いじゃん」
「付き合いてェの?」
「ぎゃは、なにそれ」
「好きなんだろ。じゃあ付き合って、結婚するのか」
「いやいや澄ちゃん……話が飛びすぎでしょ」
「なんで?付き合ったら結婚するだろ」
「あのね、付き合ってから結婚できるかどうか考えるもんなの」
「はぁ?結婚するかも分からない奴に時間も金も使えねぇよ」
「お前なんなの。生き急いでんの?いつもみたいに韓国人ASMRの大袈裟な再現しよってアホみたいなこと言えよ」
「韓国人ASMRの大袈裟な再現しよ」
澄彦は無表情でそう言う。澄彦はちと、変わった子供だった。倫理観が失われた場所で生まれた伊織や忠邦はとっくに壊れてしまっているが、澄彦は違った意味でイカれていた。死体を見れば泣いてしまうくせに、陽彩に触れた信者の手の甲にフォークを突き刺したり、階段から突き落としたり、そういうことを平気でするのだ。そんで「だって、だって」と叱られた子供のように拗ねる。だってアイツ陽彩に触ったんだもん。触っちゃダメなのに。陽彩は神様なのに。神様は綺麗なものなのに、あの、あの豚野郎。俺の神様に触ったな。とか、マァそういった具合で澄彦もちゃんと頭のネジが飛んでいた。
好きなのか?とかお前に一番聞かれたくないんだけど。じゃあお前はなんなんだよ。アレだけ陽彩さんに神様だのなんだのつってヤンデレかましてるくせに、お前のその執着はなんなんだ。信仰か?恋か?お前も分かっちゃいないんだろう。じゃああんま偉そうな口きくなよ。俺たち二人とも馬鹿なんだから。
「あ。葵さんだァ!おーい!」
澄彦が渡り廊下から大きく手を振ると、今中庭に来たらしい葵が声に気付いて見上げた。葵は一度視線を下ろして、また上を見上げる。すると校舎から死角になっていた場所から律が出てきて、律は葵と同じように二人がいる窓際を見上げた。
「わぁ、律さんもいるー!」
「げぇ……」
澄彦がブンブン手を振ると、葵と律は一瞬だけ手を振って、律は葵の腰に手を回してそそくさといつものベンチまで歩いていった。
「……見た?あの人絶対レズだよ。うちの陽彩さんと壱成くん見てみな。同じ幼馴染みでもこうも距離感が違う。普通は一緒のベッドで寝ないし、他人に威嚇しない」
「でも壱成くんも完全に陽彩ファーストだぜ。あの人陽彩がよければ俺たちが部屋で首吊って死んでたって『誰が掃除すると思ってるんだ』って言いながらコーヒー飲んでる」
「何言ってんだよ。あの女先輩とセックスしてるぜ」
「セッ……!うそォ!?」
「いやマジで」
「きゃあ!お、大人……!」
澄彦はぽぽっと赤くさせた頬に手を当てて、生娘のように恥ずかしがった。伊織は、手を振ってきた時に自分を冷ややかに見たあの女のいけ好かない顔を思い出して、「おえ、」と舌を出した。


*


「sunshineとsunshine protectorって知ってます?」
「……?」
放課後。部活をサボった伊織は、今頃伊織がいなくて半泣きになっているであろう澄彦を置いて、樋口が働いている飲食店に葵といた。特進コースの葵と普通科の律は教室が違うので、伊織は律がいない瞬間を狙って葵の教室に飛び込み「放課後デートしましょ♡」と言ったのだ。葵の横の席である喜壱はソレを聞いてひっくり返ったが、葵は至極真面目な顔で断った。葵の返事くらい想定済みの伊織が「じゃなんか甘いもん食べに行きましょ」と言い直せば、葵はOKを出した。
こんな可愛い子を食べ物で釣るなんて……!と喜壱の怯えた声が聞こえたが、伊織は喜壱とはなんの関わりもない他人なので睨めば、喜壱はサッと葵の後ろに隠れて「夏川さんには僕から連絡しとくね。美味しいものいっぱい食べておいで」と言った。おい、余計なことすんな。
「先輩Twitterとか見てないんすか?」
「うん」
「えぇっ?じゃあ休みの日何してんの」
「映画観てる」
「うわー、忠邦みたい。アイツ休みの日ずっと映画観てるか小説読んでるんですよ」
「そう」
さりげなく忠邦のことを出してみたが、葵は大して関心が無さそうだった。五個目のケーキを食べる葵を見て、伊織は少しほっとする。同じ屋敷に住んでいる青葉忠邦は、今や世界的に有名になってしまった春村葵と月に一度一緒に出掛けているらしい。しかも彼は“葵ちゃん”と呼ぶ。伊織がふざけて葵ちゃん♡と呼んだ時は律が「お前の最終学歴は小学生か?」と毒を吐いてきたというのに、忠邦がそう呼ぶのは何のお咎めもなかった。伊織がどれだけ忠邦と葵の関係を聞こうとしても、忠邦は「葵ちゃんがいいよって言ってくれたから」としか言わないし、葵は「君には関係の無い話だよ」と言う。
ムカつく。俺と忠邦の何が違うって言うの。忠邦がイケメンだからか?頭が良くて可愛げがあるからだろうか。
二人は付き合ってる、のでは。ないかと。伊織はそう思っていた。自分の方が積極的に葵と関わっているはずなのに、忠邦のほうが圧倒的に彼女と共有している時間の濃さが違うように思える。ソレに酷く腹が立った。伊織は思ったことはなんでも口に出してしまう性格なので、もちろん葵に付き合ってるのかどうか聞いたことがある。葵はきっぱりと「ない」と言った。ない。ないと言うのなら、ないんだろう。ここで葵が嘘をつく理由もないのだから。
「目がくりっとした可愛い子の隣には、切るような鋭い視線を持つ子がいるって意味っすよ。まんま先輩と律さんじゃん」
「そうかな」
「うちの陽彩さんの横にもさァ、壱成くんがいるからマジなんだよね。陽彩さんってバディも五十嵐あきらじゃん?」
「年上を呼び捨てにしたらダメ」
「五十嵐サン。つか忠邦も先輩のこと葵ちゃんって呼んでんじゃん……」
「それとこれは関係ないでしょう」
「ねぇなんで忠邦だけいいんすか?」
「君はあたしをそう呼びたいの?」
「そんなんじゃないけど……忠邦だけいいのはおかしくない?そんなん特別扱いじゃん」
「……。そうかも」
そうかも。
そうかもだって?今遠回しに忠邦は特別だと言ったのか、この人。伊織は頬をテーブルにくっつけて、わざとらしく大きなため息を吐いた。
「ふ〜〜〜ん……」
「君、食べないの」
「ジュースだけでいい……家で陽彩さんがご飯作ってるし……」
「そう。じゃあそろそろ、」
「えっ!まだいいでしょ!まだ五時ですよ!先輩学校に来たのも久しぶりなんだからもっと喋りましょうよぉ〜〜ねぇ〜〜」
「……分かった」
どうせ帰ってもやることがない葵は、フライドポテトとガトーショコラを注文する。今日は樋口はいないらしく、今いる店員はキノシタと見知らぬ青年だけらしい。律も今日は久々に会ったセナと出掛ているし、つまりは暇だった。
「そう言えば」
「え?」
珍しく葵から話題を切り出してきたことに驚きつつ、伊織は身体を起こす。
「もうすぐ誕生日だって。忠邦が言ってた」
「え?忠邦って三月生まれじゃなかったっけ」
「君が」
「……あぁ!俺!俺ね!」
「そう」
「なんかしてくれんすか?」
「……何か。何か欲しいものがあれば」
葵は考えた。葵は来週伊織が誕生日だと忠邦が言っていたのを思い出したから言っただけであって、何かしてやろうとか、そういうことは全く考えていなかった。全くだ。そもそも葵は祝ったり祝ってもらったりということをあまり経験してこなかった。親にも。友達にも。毎年律が誕生日プレゼントを用意し、葵も律の誕生日に渡すだけだった。そこでケーキが用意されていたり好きな料理が用意されていたり、誰かがサプライズで盛大に祝ってくれたりなんて、葵の記憶の中ではもう十年くらい前の話である。
葵にとって誕生日は楽しいものではない。誰かにプレゼントを貰えば母親に「どうせ他人から貰った物の方が嬉しいんでしょう」と言われたし、母親に渡せば「部屋の景観を損なう」と捨てられたことさえある。だからもう、葵は誕生日とかどうだっていいのだ。
そういうわけで、葵は律に貰ったから自分も律に渡す、儀式的な方法しか祝い方を知らない。だが伊織はそうではないはずだ。きっと彼はクラスメイトからたくさんお菓子をもらって、年上に甘えた声を出して何かを奢ってもらって、屋敷ではミラーボールがギラギラと部屋を点滅させる中でパイ投げでもするのだろう。
「なんもいらないっすよ」
と、思っていたので。伊織の返事は意外だと思った。伊織は冷たい顔で、氷が解けて味が薄くなったコーラを見つめた。
「べつに、めでたくないんで」
見知らぬバイトの青年がフライドポテトとガトーショコラを運んできた。彼の右手には小指がなかった。


*


「はぁっ、はぁっ、は、はぁっ……!」
本日緑川伊織氏爆誕(笑)。めでたい日だ。本来ならば、好物ばかりが並んでいるテーブルを七人で囲んで、食べ終わったら部屋の電気が消えて、ハッピーバースデーソングを歌いながら自作のケーキを澄彦が持ってきて、ケーキに刺さった16の数字の形をしているロウソクの火を消して、皆からプレゼントを貰って、ミラーボルで黄色だの紫だの緑だのに点滅したリビングで、壁に飾ってあるヘリウムガスで膨らんだ風船を吸って変な声で熱唱して、パイ投げをして壱成に怒られて、笑い転げながら楽しい夜を過ごすはずだった。
ならばどうして今俺は真っ暗な外を傘もささずに走ってるんだろうな。
そもそも伊織は、全国共通の一般的な誕生日の祝い方をされたことがない。伊織が生まれた土地では生まれてきたことを嘆き悲しみ、死ぬことを喜ばしいことだと思う風習があった。誰かの葬式では、いつも祭りでもしているかのような笑い声があちらこちらから聞こえていたし、誰かが産まれたら、なんて惨憺たることだと全員で泣き喚くのだ。伊織はそんな地域に15年住んでいた。例に漏れず伊織も家族に罵倒されながら産み落とされたものだ。
べつに、全員が本当にそう思っているわけではない。そういう風習だからそうしてるだけだ。古くから伝わる風習と言うのは恐ろしい。言い方を変えれば宗教みたいなもので、それに異議を唱えるのは裏切りと同じである。本気でその風習が素晴らしいと思っていやがるイカれた野郎もおるが、伊織の母親はそうではなかった。伊織の母も誰も見ていない時に、猿のように顔がしわくちゃだった伊織の額にキスをし「こんにちは」と優しく笑ったはずだ。
「はっ、はっ、はぁっ……」
伊織にとって、誕生日などめでたくもなんともないのだ。生まれてきて可哀想だと?全くもってその通り。生まれてきて大不正解だった。そんなことを言ったら綺麗で活発な母は顔を歪めてしまうかもしれないけれど、伊織は自分は生まれてくるべきではなかったと強く思う。
「あ"っ、!ぐ、」
濡れたアスファルトに足を滑らせて勢いよく転んだ。頬を強くぶつけてしまった。通行人たちは傘をさしていない伊織を好奇の目で見ることもなく、どこか一点を見つめていて誰も呼びかけることはなかった。伊織は特に気にせず普通に立ち上がって、少しだけ冷静になってゆっくり歩き出した。
今日は、誕生日だ。しかも雨だ。伊織はたったそれだけのことで、ニコニコとクラッカーを鳴らして夕飯に呼びに来た澄彦を突き飛ばして、屋敷を飛び出してしまった。祝われることが恐ろしくて仕方がなかった。雨が嫌いだった。もうどうにかして一人にしてほしかったのだ。けれどもプレゼントを用意して、自分を喜ばせようとしていた住人たちを思うとどうしようもなく気持ちが悪くなって、屋敷に居づらくなって出ていってしまった。
「……はぁ………はぁ………はぁっ、はぁ、」
また気持ちが悪くなってきた。こうやってまた自分は人の思いやりを踏みにじってしまうのか。きっと豪勢な夕食を用意してくれている陽彩が、めんどくさがりながらも丁寧にテーブルクロス敷く壱成が、伊織が喜ぶだろうとプレゼントを用意している和成が、風船やら花やらを飾ってリビングをデコレーションしている天音が、わざわざ葵に自分の誕生日を葵に教えた忠邦が、サプライズのために前から準備していた澄彦が。こんなどうしようもない自分のために何かをしてくれる人間がいるというのに、自分はそれを突き放して一体どういうつもりなのだろうか。
頭が痛い。路地裏に入った伊織は気分が悪くなってズルズルとしゃがみこんでしまった。寒い。頭が痛い。気持ち悪い。ぐっしょりした上着が不愉快で仕方がない。

寒い。

そう言えばあの日も寒かった。父親と言い争いをして、殴り合いまでに発展して家を飛び出したっけ。もう夜の九時を過ぎていたと思う。いつものコンビニにいくと、自分と同じく頬を腫らした、でもきっと服の中には沢山の打撲痕があって、根性焼きで肌が気持ち悪くなってるミネギシがいた。何を話していたかは覚えていない。ミネギシに父親の悪口を言ったってなんだかダサいだけだし、父親から虐待を受けているミネギシに言ったって「うちのと交換してやろうか」とガタガタの歯を見せて笑われるだけだ。
寒かったのは冬だからではない。雨が降っていたからだ。強い雨が降っている中、伊織は家を飛び出してミネギシがいるであろうコンビニに向かった。店内の冷房で身体を冷やして、でもすぐに帰るのも気が引けて、二の腕を擦りながらなんでもない顔でミネギシとだべっていた。『どこにいんの?』『もうお父さん怒ってないから帰っておいで』『いつものコンビニにいるの?』『お姉ちゃんが迎えに行くからそこにいな』『危ないから動かないでね』と、ピコンピコンと姉からのメッセージが溜まっていくのも無視していた。
家出した伊織を迎えに行くのはいつも姉だった。歳が離れた優しい姉に迎えに来てもらうのは嫌いではなくて、姉と帰れば父親はもう怒っていないから、いつも安心して我が家に戻れるのだ。周りの保護者と比べて若々しくて活発な母親によく似て、姉は明るくて面倒見が良かった。伊織が何をしても仕方ないなと笑う姉が、伊織は好きだったのだ。

遠くでサイレンが鳴り響いている。徐々に近付いてきていることに気付いた伊織とミネギシは顔を見合わせ、コンビニの屋根の下から出て正面の通りからサイレンの鳴る方向を見た。夜の暗い町と、人集りと、潰れた軽自動車を、救急車とパトカーの赤色灯で不気味に点滅していたのを、伊織はよく覚えている。
興味本位で見に行くんじゃなかった。見に行かなければよかった。
現場の近くに落ちていた血だらけの傘が自分のものだと分かって、横にいたミネギシと集まっていた住人たちが大声で笑いだしたとき、伊織は、

伊織は。




「伊織」

ずっと何かが詰まっていた耳に、スっと低く透き通った声が自分の名前を呼んだ。それと同時に全身に降り続いていた雨が当たらなくなった。見上げると目の前にいたのは、自分に傘を傾けている葵だった。手にはもう一本ビニール傘を持っていた。
「こんなところで何をしてるの」
葵は真っ直ぐ伊織を見てそう問う。葵は制服でも私服でもなく、真っ黒な服装をしていた。可愛い彼女にはあまり似合わない厳つい格好だ。これが葵の仕事の正装だと言うのだから、やはり物騒だと伊織はいつも思う。
「……せ、先輩こそ……こんなところで何してるんすか」
「君を探してた」
「先輩が?なんのために?そんなことする必要ないでしょ」
「ちょうど仕事帰りだったから」
確かに、そうでなければ葵が自分をわざわざ探しに来るわけがない。伊織は頭が痛むせいで目を動かすのも辛かった。ぎゅっと目を閉じて下を向くと、葵が膝をついて伊織の二の腕に触れる。
「冷えてる。早く帰ろう」
「……」
「風邪ひいちゃうよ」
「……いいですよ、べつに」
「そう。でも帰ろう」
「……」
「伊織」
「なんすか。もういいからほっといてよ。勝手に帰るから」
「帰らないでしょう」
「帰るって」
「屋敷まで送る」
「だから………はぁ………。もう、今日はマジで誰ともいたくないの。一人でいたいんですよ。空気読んでくださいよ頼むから」
「……」
相手があの屋敷の人間ならば、また他人なら。伊織は「鬱陶しいから消えろ」くらいの暴言は簡単に吐けてしまう。屋敷の誰かなら、それくらい言ったって許されると分かっているから甘えることができるし、他人ならば他人が傷つこうがどうだってよかったから、突き放すことは簡単に出来るはずだった。
だが相手が葵だとどうもよく分からない。自分にとって葵は何なのだろうか。きっと葵の特別だと言う忠邦ならば、甘えて突き放すか渋りながらも大人しく帰るのだろうけど。伊織は自分にとっての葵も、葵にとっての自分の存在もよく分からなかった。
コレを恋と呼ぶにはあまりにも汚くて、淡白だ。伊織は葵と付き合いたいのか聞かれたら首を傾げるし、ではそうではないのかと言われたら、葵が他の誰かのものになるなんて信じられないので、やはり付き合いたいのかなと。客観的に分析してみるが、足りない頭では適切な言葉で表現することができなかった。
「屋敷に帰りたくないなら、あたしの家に来て」
「………へ?」
「お風呂入って」
葵は伊織の腕を掴んで立ち上がらせた。
な、なに。なんだ。なんか今すごいこと言われなかったか。先輩の家で風呂だって?
結局のところ、恋だのなんだのと言っても伊織は葵を好きなことに変わりはない。正直触りたいと思うことはあるし、滅多に変わらない葵の表情の変化に気づけたときに、自分の頬がじわじわと熱を持つことも知っている。葵とどうなりたいのか分からないだけであって、伊織は葵が好きだということは自分で理解していた。
葵は可愛い。 距離が近いと心臓は忙しくなるし、葵に触れられると馬鹿みたいに顔が熱くなる。葵の家に行けるなんて、しかも葵からそんな誘いをしてくるなんてことが有り得ていいのだろうか。
でも葵が家に来いと言っているのは、きっとその場にずっと居られても困るからそう言っているだけだ。ほっといてと言われて知り合いが雨の中、しかも真っ暗な夜に路地裏でしゃがみ込んでいるのに、放っておける人間の方がここでは珍しいのだろ。例え相手が伊織でなく澄彦でも誰でも、知り合いでそれなりに関わりのある人間ならば葵は同じようなことをしていただろう。
伊織は大人しく葵についていくことにした。葵がさしていた傘を伊織が持つ。寒いな、と一度思ったら身体がとてつもなく寒く感じだした。
「あ、」
伊織が立ち止まると、葵も同じように足を止めて前方を見据えた。チカチカと点滅する赤には気持ち悪いくらい見覚えがあって、手の平が痺れ始める。
「事故かな」
葵がそう言うと、伊織の心臓は突然誰かに握られたかのように大きく跳ねた。ズキズキと頭が痛みだして、手が痺れて、吐きそうになる。白い自動車が民家の塀に突っ込んでいて、周りには様子を見に来た住人たちが集まっていた。仕事柄、救助活動にも参加することがある葵は何があったのか気になるのだろう。
葵が傘から出て一歩前に足を出した時、伊織は無意識に強く葵の腕を掴んだ。その拍子に葵が手に持っていた傘が落ちてしまう。きっと自分のために持ってきていたもう一本の傘を。

傘が、

「あ、ぁ」

次の瞬間、バチバチと視界がフラッシュして、目の前が真っ白になった。


「あ、あぁ、ああ」
「伊織?」
「う、ぅ、嘘だ、うそ……」
伊織はさしていた傘を落とし、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!!嘘だ!!!!」
肩まで伸びた髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、伊織は濡れたアスファルトに額を擦り付けて絶叫する。葵には突然様子がおかしくなった理由が分からなくて、しかし冷静にどう対応すべきか考えた。大きな身体を丸めて泣き叫ぶ伊織の背中を撫でる。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「あ、あああ!あああああ!!!!俺、俺のせいで、俺の、あ、ああ」
「大丈夫だよ伊織」
「おれ、おれは、俺そんなつもりじゃ、おれ」
「大丈夫」
「あ、あ"、ぅ、あ"ーーーーーー、」
伊織が葵の服を掴み、小さな子供が泣くように葵の膝に顔を蹲めてひたすら泣き続けた。
自分が葵を想う気持ちは、もしかすると姉と葵を重ねているだけなのかもしれない。だって何を言ったって仕方ないなと許してくれるところも、ダメなことは絶対に譲らないところも、傘を持って迎えに来てくれるところもそっくりだった。でも記憶の中の姉はよく笑うのに、葵は全く笑わないからやはり彼女は姉ではない。
アスファルトにインクが零れたように広がった黒い液体が脳裏に過ぎる。担架から力なく垂れた腕から液体が伝って、指先から落ちる。サイレンの音がやけに頭に響いて、目を閉じているはずなのに点滅する赤色灯が消えなくて。

伊織の意識はそこで途絶えた。


*


忠邦は無表情でスカーっと爆睡する伊織を見下ろしていた。右手には包丁。左手にはロープ。滅多刺しにしてやろうか、首を絞めてジワジワ死んでもらおうか悩んでいた。
昨日顔を真っ青にして屋敷を飛び出すまでは想定済みだった。忠邦は伊織の出生を知っていたし、彼の地元では誰かの誕生は惨憺たるものとして嘆き悲しむ風習があるのも理解していたからだ。だがあえてそれを屋敷の人間に伝えることはしなかった。だってここは地元ではないし。人が生まれて号泣することも、人が死んで大声で笑うこともしなくてもいいのだ。忠邦はそれを理解してほしかった。
伊織に突き飛ばされて口をぽかんと開けて呆然としていた澄彦が、次第に目を潤わせパニックになるのも想定内だった。前から準備をしていた和成と天音は理解できないと言うような顔をしていたが、やはり年上なだけあって酷く混乱している様子はない。和成が少し悲しそうに笑っていたのを忠邦はしっかりと見ていた。赤の他人同士でシェアハウスをする以上、共有しておかなければならない情報も、踏み込んではいけない事情もある。伊織の場合『伊織は誕生日を祝う習慣がない』ことと『雨の日の情緒に注意』ということだけ共有しておけばよくて、わざわざどうしてなのかは知る必要はない。知れたらいいのだろうが、知らなくてもいい。

雨の中屋敷を飛び出した伊織が、髪も服も乾いた綺麗な状態で帰ってきた。正確には吉岡が屋敷まで連れてきたのだ。『なんで僕がわざわざこんな……クッソ重いんですけど』とぶつぶつ言いながら、黒い移動車から伊織を引きずり下ろしてわざわざ部屋までおぶって運んだ。本当は屋敷の前に捨てて帰ろうと思っていたのだが、葵がちゃんと部屋まで運んでと言ったらしい。吉岡曰く、葵は仕事帰りに雨の中を走る伊織を見つけて、わざわざ家まで傘を取りに帰り、もう一度伊織を探しに行ったのだと言う。もう家に着いているはずの葵がおらず、帰ってきたかと思えばずぶ濡れで、しかも気絶した伊織を背負っているものだからひっくり返たとかなんとか。
結局吉岡は『そっちの人間の面倒はそっちで見てくださいよ!』とぷりぷり怒って帰っていった。忠邦は葵に伊織が屋敷を出ていったと連絡した覚えはない。もちろん自分以外の誰かが連絡したのかもしれないが、陽彩に聞いても自分は連絡していないと言う。ならば同級生である和成か天音だが、落ち込んでいた二人にそんな余裕があったとは思えない。
「ん"ーー………」
昨日のいつに気絶したのかは知らないが、少なくとも十時間以上は寝ている伊織が唸りながら寝返りを打った。もうすぐ覚醒するのだろう。忠邦は両手に持っている凶器をしっかりと握り直した。伊織の目が薄らと開く。
「……う…………」
「……」
浮腫んだ頬をもごもごとさせて、ほとんど目が開いていない伊織はまずスマホを手に取った。さすが現代っ子だ。忠邦が一歩近づくと、伊織はようやく忠邦がいることに気付いてビクッと肩を震わせた。
「お………ぁに……、ただくに……?」
「おはよう」
「んー………なんだよ……」
「お前、昨日のこと覚えてるか」
「きの〜…………?」
伊織は上体を起こしてぼーっと布団を見つめた。少しだけ首を動かして、忠邦の右手に握られている包丁に気付くと「はっ、マジでなに……」と目を擦りながら半笑いで言う。伊織は死体を見たってさほど驚かないのだ。
「覚えてないか」
「昨日………昨日ってなんかあったか」
「お前の誕生日」
「……あー…………あー……?俺ずっと部屋にいただろ……あれ、いたっけ。いた気がするけど」
「そうか」
「なんだよ」
「なんでもない」
怪訝そうな顔をする伊織を置いて、忠邦は伊織の部屋を出た。伊織はああやって発狂して気絶すると、いつも何も覚えていない。けれども誰も真実を伝えようとは思わないし、伊織は一生ああやって苦しむのだろう。
そんなことはどうだっていい。忠邦はただ、自分が姉だと慕う葵が。誰から頼まれたわけでもなく、赤の他人である伊織を探して迎えに行った事実が気に食わなかった。放っておけと言っているわけじゃない。忠邦は自分が葵の特別である自覚があったから、自分もきっと同じように、もしかしたらもっと丁寧に扱ってもらえる自信がある。
でも伊織はなんだ?伊織は葵にとっての何なんだ。伊織が葵のことを想っているのは知っているが、その好意を受け流すわけでも受け止めるわけでもなく、ただじっくり観察している葵は一体何を考えているのだろうか。昨日の葵の伊織に対しての行為は“特別”以外の何者でもない。唯一無二である律とも、義弟である忠邦とも違ったその“特別”に、忠邦は酷く腹が立って複雑な気持ちになるのだ。

「有り得ない」

忠邦は、二度寝をする伊織が見る夢が悪夢であるように強く祈った。