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擬似夏

※一般人if


あ。
校舎の中にある下駄箱の前に葵が立っていた。今日は珍しく早く起きて、なんとなくいつもより早めに家を出た。葵は昔から早い時間に登校する。誰もいない時間、ではないけれど。四、五人くらいしかいない教室でひっそりと本を読んでいた。高校生になって初めて違うクラスになった。幼稚園から小学校、中学校、十二年間同じだったのに、違うクラスになった途端ほとんど姿を見かけないようになった。全く喋らないというわけではないが、他の友達と比べて喋る回数は圧倒的に少ない。
大抵は。友達と違うクラスになったり卒業してしまったら、その友達とは疎遠になるものだと思っている。縁が切れたという言い方は好きじゃない。私には新しい友達が出来て、友達にも新しい友達が出来て、そうやってすぐに遠い距離になってしまうけれど、ソレってべつに友達じゃなくなったわけじゃない。喋らなくなっても記憶が薄れても、何かのタイミングで彼らを思い出す瞬間があるのだろう。
しかし葵は違った。葵の場合、疎遠になるとか距離ができるとかではないのだ。葵がいなくてもいつだって自分の大半は葵で埋まっているし、どの友達と話していても葵ならどうだとか葵はあぁだとか、自分の中に葵が在って当たり前なのだ。一ヶ月ぶりに会話をしたって、私たちはいつも遠慮がないし、喧嘩腰に喋るし、ずーーーっと変わらないのだ。
葵を見つけると“葵がいる”と意識してしまう。話しかけはしないけど姿が見えなくなるまで目で追ってしまう。久しぶりに見た葵はやはり変わらず可愛らしい容姿をしていて、目は濁っていた。腰まで伸びたウェーブがかかっている髪は見ているだけで暑苦しい。
葵は開いた下駄箱の中身を見つめたまま動かない。葵が動かなければ私も中に入れないのに。いや行けばいいんだけど。ただなんとなく、私と葵は仲が悪いというのは知り合いの中で暗黙の了解のようなものになっていたから。私も葵も理由は違くとも目立つほうだから、学年全体に名前と顔が知れ渡っている。誰が知っているとか知らないとかではないけれど、同じ中学だった生徒や彼らからソレを聞いたクラスメイトは把握している程度。別に否定はしないけど。
仲が悪いとはべつに思ってない。でも良いかって言われたら良くないとも思う。良いとか悪いとかじゃないんだ。もうそんな範疇ではない。だって私と葵は友達ではないのだから、そんな分かりやすい言葉で収まるような感情では済ませられない。
私は靴箱の前から動かない葵に近付いた。
「葵」
「あ……律。おはよう」
「おはよ。何してんの。はやく教室行きなよ」
「うん」
「………中になんか入ってんの?」
「いや、べつに」
「なに」
「なんでもない」
「……」
誰もいないのを確認して、指の背で葵の丸っこい頬に触れた。葵は抵抗もしなければ瞬きもしない。
「熱ある」
「外が暑いからだよ」
「保健室行きなよ」
「今は夏だから」
「行け」
「行かない」
「行ったら帰らないといけないから?帰らなきゃいけないくらい熱あるんでしょ」
ゆらりと揺れた虚ろな目がこちらを見やる。じっとりとした暑さが続いているというのに、葵はセーラー服の下に黒のタートルネックのインナーを着ていた。元々白い肌は病的なほど青白くなっていて目の下には濃い隈がある。葵の手を掴んで無理矢理引っ張ると、やっぱり葵はされるがまま歩き出した。乱暴に保健室の扉を開けて葵を養護教諭の前に突き出す。そして私は大人が好きそうな、人懐っこくて可愛げのあるずる賢い笑顔を浮かべた。
「なんかしんどいって言ってるからちょっとだけ寝かせてあげてー」
お願い〜。いいでしょ?っ、と両手を合わせて頼めば、予想通り養護教諭は仕方ないなぁと少し呆れたように笑った。その間葵は渡された保健室利用用紙に日付けやら体温やら症状やらをテキパキと書いていた。熱は三十八度。先生が帰った方がいいと言うが、葵は首を横に振って拒否した。
「どのくらい使っていーの?」
「んー、ふつうは一時間分だけど。他に生徒が来るだろうから、それ以降はベッドを代わってもらわないといけなくなるかもねぇ」
「はーいオッケーでーす」
私が適当に返事をしながら葵の背中を押すと、葵は目をしょぼしょぼさせながらおぼつかない足取りでベッドに入った。ホームルームまであと二十分もある。ホームルームまでには教室に戻るからと先生に言って、私は葵が遣うベッドの横に腰掛けた。「仲良いのね。意外」と言われるのも珍しいことではなかった。
カーテンで空間が遮断され、実際に保健室にいるのは私たちだけではないけど、二人きりになったような気分になって楽になった。葵以外と一緒にいる時の自分は自分ではないような気がするし、でもやっぱりどうしようもなくコレも自分である。素の自分とか、愛想笑いとか言ってる奴は嫌いだ。社会で上手く生きられない理由をそういう情を引くような言葉で表して、ただ自分は他とは違って色々抱えてるのだとアピールしたいだけのように思える。
頭がおかしくなってるだけなんだ。演じてるとかじゃなくて、私は葵の前だとどうも普通ではいられなくなる。ゴワゴワのタオルを適当に巻かれた硬い枕は寝心地が悪そうだった。
「教室、行かないの」
「行くよ」
「ごめん」
「なにが」
「迷惑かけて」
「そういうのいいから」
「そう」
「てか下履き替えなよ。スカートがシワになる」
「今日体育ないから」
「私の履け」
「………はぁ…………」
ため息が聞こえた気がするが無視して紺色の体操ズボンを渡した。「あっち向いて」なんて今さら気を遣う関係でもないのに。
普段は隠れている綺麗な膝小僧が見えた。私は何もしていないし、葵はもう睡魔の限界が近づいてきているのか返事もぽつぽつとしたものになってきた生ぬるい時間のはずなのに、二人きりでいるとなんだか危ない気持ちになる。膝をくすぐったらどんな反応をするんだろう。太ももを撫でたら嫌がるかな。そんなことばかり考えてしまう。私と葵はそういう関係ではないし、私が葵に対して恋愛感情のようなものを持っているわけではない。友情とか家族愛以上の何かを持っているのは自覚しているけれど、それはお互い様だろう。
「下駄箱ん中、何入ってたの」
「……手紙」
「だけ?」
「うん………」
「誰からのやつ」
「さぁ……封筒には書いてなかったから……中に書いてると思う………」
書いてあると思う、ということは葵はまだ読んでいないのだろう。私が無理矢理保健室に連れて行ったからまだ下駄箱の中に残っているはずだ。五分もすれば葵はすっかり眠っていた。薄い肩を少し揺すってみたが起きる気配はない。そう言えば二時間目に体育があったな、なんて考えながら、箱の中に置いてけぼりにされている手紙を回収するために保健室を出た。
葵があの手紙を読む必要なんかないんだ。赤の他人の好意なんて一生気付かなければいい。


*


「うちの学校って水泳の授業ないですよね?」
「うん」
「じゃあなんでプールあるんすか?」
「水泳部があるから」
「水泳部のためだけに造ったの!?へぇ金の無駄って感じ!」
「そうだね」
「ところで葵先輩はなんで一人でプール掃除してるんですか?」
葵は憂鬱そうに伊織を見上げた。プールが作られるまでの過程なんて知らない。もしかしたら昔は水泳の授業があって廃止になったのかもしれない。まだ本格的な夏は始まってないとは言え、屋根もない場所でずっと身体を動かしていればさすがに暑い。首に張り付いた髪が鬱陶しくて何度も切ってしまいたいと思ったが、律が長いままがいいと言うので結局葵の髪は腰まで伸びたままである。
「やってって言われたから」
「へぇ。じゃあ俺が抱かせてって言ったら抱かせてくれるんですよね?」
「……そういうことじゃない」
「そういうことですよ」
伊織がにっこり微笑んでそう言い切ると、葵は小さく溜息を吐いて床掃除を再開した。
葵は伊織のことが苦手だった。小学校や中学校が同じだったわけでも近所の人間でもない。彼は四月にこの高校に入学して、早々葵に絡んできただけの赤の他人である。口を開けば「抱かせて」だの「セックスしたくない?」だの。話にならない。
伊織は葵より遥かに背が高くガタイも良くて、襲われれば葵には抵抗する術がない。だから葵は彼と二人きりになるのが嫌だった。彼が言うことは冗談なんかじゃないと知っているから。
「てか絶対一人の作業量じゃないでしょ。俺も手伝いますよ〜」
「帰っていいよ」
「帰ってほしいんでしょ!」
「さっき君の友達が君を探してた」
「友達?友達いっぱいいるんで分かんないっすね」
「灰色の髪の子」
「あ〜澄彦……」
肩まで伸びているハーフアップの髪も葵と同様見ているだけで暑苦しい。伊織は眉を寄せて居心地が悪そうに頭を掻いた。今日はなんだかそんな気分じゃなくて部活をサボった。同じバスケ部である澄彦はきっと健気に伊織を探しているのだろうが、なんたってそんな気分ではない。伊織には義務感とか罪悪感というものがサラサラなかった。
どうして彼が自分に絡んでくるのか葵にはさっぱり分からなかった。どこかで会ったことがあるのかしらと考えたこともあったが、やはり葵と伊織は初対面だった。伊織は単純に葵に一目惚れしただけである。入学前の三月に、ぎちぎちに詰まった電車内で痴漢されている葵を見た。自分には全く関係のないことだが、しかし痴漢なんてそうお目にかかれるものではない。道徳と善意を母胎にいた頃姉に吸い取られてしまった伊織は、己の好奇心に忠実になってソレを見ることにした。スカートの上から尻を手の平で擦られていた葵は顔を真っ青にして耐えていた。ビクビク震えているのが可愛くて仕方がなかった。スカートの下に手が伸び、ついに素足に触れられた時に葵は思わず自分に背を向けて立っていた背が高い少女の服を掴んだ。少女は一瞬驚いた顔をしたがすぐに顰めっ面に戻り、葵の腕を引っ張って壁側に移動させた。その後あの痴漢がどうなったのかは知らない。顰めっ面の少女、もとい律に警備員の元へ引きずって連れていかれたのかもしれない。
伊織はそんなことには一切興味がなかった。伊織は葵のあの怯えてどうしようもなさそうな顔に惚れたのだ。目を見張るほど可愛らしい容姿で、満員電車の中で彼女は一際輝いて見えた。またあの怯えた顔が見たかった。顔を真っ赤にして震えるところが見たい。めちゃくちゃに犯してやりたいと強く思ったのだ。つまりイカれ野郎ということだ。
「葵先輩みたいな可愛い人がねぇ、体操服濡らしちゃって一人でいたら襲われちゃいますよぉ。俺に」
「……」
「先輩ってセンセーからの信頼めちゃくちゃ厚いですよね?」
「べつに……」
「そんなことありますよー。だって先輩に色んなこと任せっきりじゃないすか。鍵なんか渡しちゃって。先輩がちゃんとやりきって帰るって信用してるんだなぁ」
伊織はまたにっこりと笑った。葵はその笑い方が苦手だった。恐ろしいと思う。ブラシを落とした葵は一歩、また一歩と下がって伊織から距離をとる。そうすれば伊織は一歩、また一歩と葵に近付く。ゆっくり。
「な、に……?」
「んー?ふふ」
とん、と背中が壁に当たった。それ以上後ろには逃げられないのだと悟った葵はすぐにプールサイドに上がろうとしたが、先程まで好き勝手逃げさせていた伊織が葵の顔のすぐ横に手をついたことで動けなくなってしまった。囲われている。壁に背中をつけたまま伊織の膝の上に座らせられてしまえば、葵にはもう逃げる術がなかった。放課後になって一時間ほど過ぎた校舎には一人、二人生徒がいるだけで、しかも少し離れた場所にあるプールの中は見えない。辛うじて一部分だけ見えるが、葵と伊織は死角になる箇所にいた。教師は完全に葵に任せきりで様子を見に来る気配もない。葵のことを手伝ってくれるような友人はとっくに帰ってしまった。
「ぬ、濡れるから……どいて」
「もう濡れちゃったからいいよ」
「人が、」
「来ないよ。生徒は授業以外で立ち入り禁止なんだから来るわけないじゃん」
「ぁ、」
葵の太ももを爪でなぞると面白いくらい身体が震えた。汚いこと何にも知りませんって顔しながら、自分が今から何をされるのか理解した葵の顔が伊織は好きだった。知らないわけないよね。もう高校生だもん。そんくらい知識あるでしょ。葵は必死に伊織の肩を押して抵抗するがもはやなんの意味もない。
「や、やだっ」
「も〜暴れないでくださいよ」
「離してっ」
「いい加減にしろって。殴んぞ」
「……ぁ……………」
「あ〜、ははっ。冗談ですよォ。そんなビビんないで。こんな可愛い人殴れるわけないじゃん。俺べつに先輩に痛いことしようって思ってるんじゃないんすよ?」
ね?
葵の両腕を壁に押し付けたまま、小さな耳たぶを軽く噛むとまたビクッと身体が震えた。良い反応じゃん。そのまま口に含み、耳の側面を舐めたり穴に舌を入れると葵は小さく声を漏らし身体を跳ねさせた。それが可愛くて可愛くて、もっとぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。可愛いなぁ。抱きしめたら潰れちゃいそう。
一旦離れて葵の様子を伺えば、葵はまつ毛を震わせて耐えていた。その控えめな怯えた顔がなんともいじらしい。
この人彼氏いたことないのかな。このあまりにも自己肯定感のない性格はともかく、こんなに可愛けりゃ欲しがる人間は大勢いるだろうに。あぁ、それか、ただ酷いことをしたいと思ってるクソ野郎ばっか近寄ってくんのか。可哀想に。ねぇ、俺とソイツらを一緒にしないでね。アンタをただ傷付けるだけのヤツらと一緒にしないで。俺だっていつでもそういうことできるけど、しないようにしてるんだから。少なくとも傷付けたいわけじゃないから、同じ“最低”に分類しないでね。俺は傷付けるもりないのに先輩が傷付いてたらソレは知らんけど。セックスは気持ちいいほうがいいでしょ。だから先輩にも善くなってもらわなきゃ。
「俺、先輩のこと好きですよ」



「へぇ、そうなの」



ギクッ!冷たく圧のある声に伊織の肩が大きく跳ねる。葵の低く柔らかい声とは対照的な、淡々とした強い女の声。振り返ろうとしたが、カチ、という無機質な音がすぐ耳元で聞こえて伊織は動くのをやめた。
「何してんの、お前」
カチ、カチ。
「誰がそこまでしていいって言った?」

カチ。

耳の付け根に何かが触れる。それがカッターだと見なくても分かった。チリチリと小さく焼けるような痛みを感じる。
あ、やばい、死ぬ。死ぬわ。耳切り落とされる。
きっと、いや絶対に、他の生徒よりも身体が大きく筋肉もある伊織ならば律に負けることはない。突き飛ばせば律は簡単に尻をついて殴れば一切抵抗できないだろう。だが伊織がそうすることはなかった。出来ないのだ。本能が警告している。自分が葵を襲うことを冗談にしないように、律は伊織を殺そうと思えば本気で殺す。律はすごい人間だ。それはもはや尊敬の域でそう思う。葵に関することになると悪にもヒーローにもなれてしまうのだから。
「あー!もう何もしませんて!学校で傷害事件なんてシャレになんないっすよ!」
「強姦のほうがシャレになんないよ。てか、何したってどうせ全部アンタが悪くなる。自分の出身地忘れた?」
「ガチでヤバいだろこの女」
「なんて?」
「ぎゃーっ!!痛い!見て葵先輩!血出た!」
「出てないよ」
出身地で脅すなんて人としてどうかしてる!れっきとした差別だ。それなりに常識がある人間ならばソレをわざわざ口に出して言うわけがない。伊織が生まれた地は差別や格差、犯罪、宗教など、悪だの闇だのを全て煮詰めたような場所である。そのため伊織は出身地を隠して生きていた。簡単に言えば部落差別のようなもので、そこに生まれたというだけで迫害されるから、伊織は現在担任に分かりやすく差別されている。どれだけ頑張ってもその担任の授業だけはずっと成績が低かった。
土地の風習とか、そういうのが根深く刻まれているのは大人だ。先祖を辿れば辿るほど濃くて残酷になる。逆にそういうのを鼻をほじって興味なさげにするのが現代の子供である。
「葵、アンタこんなとこで何してんの」
「掃除」
「一人で?」
「うん。律こそなんでここにいるの?」
「電話、出ないから」
律はカッターをしまって鬱陶しそうに額の汗を拭った。葵が電話に出なかっただけで学校中を探し回るなんてどうかしている。律は「どけ」と言って伊織を蹴り飛ばし、葵の腕を掴んで立ち上がらせた。体操着の紺の生地が尻に触れる部分だけ濡れていてなんだか不格好だ。律は長くため息をついて、それから何も言わずプールサイドに上がりそのまま出ていってしまった。
「あれ?帰っちゃうの?つか俺の制服ビシャビシャなんだけど」
「……」
葵は何事もなかったかのようにシャカシャカとブラシを床に擦って掃除を始めた。伊織ももう一回襲っちゃお♡なんて気分にはならず、耳の浅い切り口から出た血を指で擦った。もう帰ろうかな、と思った時だ。

「いーーーおーーーりーーーー!!!!!」

空気を震わせるほどの叫び声が聞こえたかと思うと、誰かが勢いよくプールに飛び込んできた。とんでもねぇ跳躍力だ。灰色の髪が太陽に透けてキラキラ輝いていた。澄彦は両足からプールに着地し、思い切りすっ転んで尻もちをついたままスーッと真顔で伊織たちを見上げながら目の前に滑ってきた。
「……」
「……え、なに?何その顔。どういう感情?」
「やい!お前!」
「うあぁもう急に大声出すなよ怖いんだよお前」
「また部活サボっただろ!先生めちゃくちゃ怒ってたぞ!」
「いいじゃんもぉ〜……今日は部活の気分じゃなかったの!」
「壱成くんにチクる」
「だぁ!うっざ!明日は行くから!」
「やったァ!お前いないとつまんないよ。せっかく一緒の部活入ったんだからもっと遊ぼうぜ」
澄彦は真っ白な歯を見せて笑った。伊織は思わず目を細めた。葵はそんな青春の一ページを綴る二人のことなんぞ、まるで見えていないかのよう。シャカシャカとブラシを動かして早く帰ろうと努めていた。部員数が一番多く競争率が激しいバスケ部で、部活に対し「遊ぼう」と言うセンスの化け物である澄彦も、しばらくしてやっと葵の存在に気付いた。
「んー……うーーー……?」
澄彦は葵の周りをくるくる歩いてて顎を撫でる。そしてぱっと向日葵のような笑顔を咲かせた。
「可愛い!そう言えばさっきこの人に伊織見てないかどうか聞いた!」
「なんで先輩に聞くのヨ。違う学年じゃん」
「んー……だって………んーー……?」
「おい、あんまジロジロ見んなよ。葵先輩怖がるでしょ」
「大丈夫」
「なんで!?俺のときは怖がったでしょ!」
澄彦は害はない。伊織は多少ある。多少ね。けれど葵ももう高校生だし、彼らより一年長く生きている。人より理不尽な目に遭うことが多かった葵は、誰が善で誰が悪かくらい判断ができた。そして最終確認は律がしてくれる。律が良しとすれば、ソレはもう良いのだ。伊織が本気で葵の身体にしか興味がなかったら彼女はあそこで耳を切り落としていた。
「アンタたち暇でしょ。手伝いな」
いつの間にか帰ってきていた律が伊織と澄彦に向かってブラシを投げた。律は上下体操服に着替えていた。
「わぁやるやる!」
「えぇ?澄ちゃん帰ろうよォ」
「掃除するか部活行くか選べよ」
「掃除大好き♡」
プール掃除なんて死ぬほど面倒くさいが、教師の目も気にせず部活もサボり、水遊びをしながらたった四人でプールにいること自体に特別感があった。伊織と澄彦は妙にテンションが上がってホースの水をかけあったりしている。葵と律は淡々と作業を終わらせるために掃除をしていた。
「あの子を呼んだの、律?」
「そぉ。あのロン毛のこと探し回ってたから連れてきた」
「そう」
「四人の方が早く終わるしね」
「そう。ありがとう」
「お礼とかいらないから。そもそもアンタが引き受けなきゃすぐに帰れたのに」
「うん」
「はぁ…………」
律は心底うんざりしたような顔をした。申し訳ないとは思っている。何度も「そういうのやめろ」「いい加減にしろ」と言われてきたが、葵の良くも悪くも己を犠牲にしてしまう癖はどうしても治らなかった。いつもならぐちぐちダラダラと文句を言うところだが、なんだか気だるくて、はしゃいでいる伊織と澄彦を見ていると馬鹿らしくて怒鳴る気にもなれなかった。
どうして葵は「いいよ」と言ってしまうのだろうか。律にはさっぱり分からなかった。嘘だ。分かっている。分かっているうえで、やっぱり理解できなかった。幼い頃から母親に他人第一と圧をかけられていた葵は、もはや細胞レベルで「そうしなければいけない」と思い込んでいる。そうでなければいけない。できなければいけない。それが彼女が十七年間母親に教えられてきたことである。細胞と言ったって古いものは死んでいき新しい細胞に代わっていく。なのに葵の細胞は生まれてすぐにぐちゃぐちゃに汚されてしまうらしい。律は何度も葵におかしいと言い続けてきた。そしたら葵は困ったように俯いて「うん」と言うのだ。
うん。うん、ね。それってどういう意味?分かってないなら返事すんなよ。ムカつくから。
「今日と明日うちの家だから」
「わかった」
「……。おい!真面目に掃除してよ!早く帰りたいんだから!」
「はぁい」
「おっかねぇ」


*


「葵」
「わ、」
「あ、ごめん」
まだ葵は風呂に入っていると思っていた律が脱衣所の戸を開けると、葵は慌ててタオルで身体を隠した。普段重い前髪は濡れていてめずらしく額が出ている。ゆったりとお湯に漬かっていた白い肌はほんのり赤く染まっていて、タオルで隠しきれていない太腿や横腹が目に毒だった。
グラ、と理性が揺れる感覚がした。このまま押さえつけて犯したら、噛み付いてぐちゃぐちゃにしたら、葵は泣いて嫌がるだろうか。きっと葵は嫌だ、やめて、と言いながら最後には自分を受け入れるんだろうな。どうせ葵は律を赦してしまう。
律は脱衣所から出ていかず、そのまま会話を続けた。
「あとでコンビニ行くから」
「なんで?」
「アイス。食べたいのに冷凍庫にない」
「明日食べたらいいでしょ」
「無理。今日食べたい。今食べたい」
「もうお風呂入ったよ」
「それでも行くの」
「一人で行って」
「夜に私を一人で出歩かせる気?」
「……分かったよ。分かったから、はやく出てって」
「ん」
律は満足して脱衣所を出た。乗り気はしない。そもそも夜に出歩くなんて危険だ。二人でも女の子じゃどうしようもない時がある。しかしこうなったら律は引かない。その時アイスが食べたいと思うと食べるまで気が済まない。何も予定がない限り十八時までに帰らなければいけない葵は、夜に出歩くといったことをほとんどしたことがなかった。夜に外に出るという考えになったことすらない。反対に律の家は基本自由なので、家で夜ご飯を食べる時は夕飯までに帰ればいいし、深夜にコンビニに行くことも普通にある。
葵はすぐにドライヤーをし、律が置いていった半袖のパーカーを着る。見てて暑苦しいからと葵の髪を団子二つにまとめたあと、律は「韓国ファッションも似合うね」と左の口角を上げた。律は葵をコーディネートするのが好きらしい。普段は量産型やロリータ系の服を着る葵に、いつもと違うタイプのファッションをさせては一人で頷いて満足している。惜しげも無く足を出す格好を母親から許されていない葵は、律に借りない限り履かない短パンがなんだか心許なくて、あまり外に出たくなかった。しかしそんなことは一切気にかけない律は葵を引っ張って玄関を出た。
「夜はまだ涼しいね」
「うん」
「アイス何食べんの」
「ぱぴこ」
パピコ。葵のカタカナはどうも平仮名に聞こえてしまう。
「律は旅行ついて行かなくてよかったの?」
「べつにもう親と一緒に旅行に行きたい歳でもないでしょ」
「そう」
「むしろ二人きりのほうがいちゃいちゃできる嬉しがってたし。いつまでもバカップルなんだから」
律の家族は仲が良い。両親はよく二人で旅行に行くし、律は姉と一緒にショッピングをすることが多い。休日は四人でゲームをしたりBBQをしたり、まさに和気あいあいとした家庭だった。葵の家とは大違いだ。葵は律の家に行くたび「音がある」と感じる。葵も、葵の母親もあまり喋るほうではない。話をしたとしても成績や進路のこと、塾の報告や、日程の確認くらいしか会話をしない。ニュース以外のテレビを観ることを禁止されている葵は流行りのドラマもネタ知らないし、スマホに入っているアプリは全て管理されているのでゲームだって分からない。母親がよく喋るのはいつだって自分が母親の機嫌を損ねたときだ。葵は何日か前に孫の手で散々殴られた腕をなでた。
家を出て五分ほど歩くとコンビニに着いた。人が少なすぎるせいか店内の放送がやけに耳につく。静けさと宣伝のポップな音楽が絶妙に居心地を悪くさせる。
「せっかくだしお菓子も買っちゃお。カゴ持って」
「うん」
「食べたいのあったら勝手に入れて」
「お金は?」
「ママにもらってるじゃん」
「それご飯代でしょう」
「じゃあ葵は自分の分は自分で出せば?私はこれで買うから」
「わかった。後で返す」
「おー」
葵はまずパピコを入れてから店内をグルグル回った。律はアイスの実をカゴに放り込んで葵の後ろをついていく。葵が買おうと思って商品に手を伸ばせば、律が横から取ってカゴに入れた。
「……なに」
「なにが?」
「なんで取るの」
「私が食べたいと思ったから。たまたま被ったんじゃん?ビックリ」
律は身を細めて左の口角をくいっと上げた。満足している時の律の癖だ。葵は小さくため息をついて、律の好きにさせた。
会計が終わってコンビニを出た時、突然律が立ち止まって葵のフードを掴んだ。
「フード被って」
「え、」
前が見えないくらい深くフードを被らされた。そして柔らかい壁に鼻が当たり、すっかり慣れたボディーソープの匂いでいっぱいになった。葵は律に抱き寄せられていることに気付くまで少し時間がかかった。なに?そう言おうとしたが、葵はすぐに口を閉じた。
「あれ、律じゃん」
「うわすごっ!こんな時間に会うとか奇跡」
よく響く高い声がした。律の友達だろう。
「何してんの?」
「アイス買いに来た。そっちこそなんでここにいんの?家こっちじゃないじゃん」
「駅から帰ってきた。今日コイツの家で泊まりだから夜更かし用にお菓子買おっかなって。スーパー閉まってるしねー」
「デブ活やります!」
「あははっ、マジでデブるぞー」
「なんだろうね、このダメだと分かりながらもポッキーとかポテチ食べちゃう衝動」
「病名デブまっしぐら」
「ひどすぎ」
「てか何その袋の量。ヤバすぎだろ。この店のお菓子全部買い取る勢いじゃん」
「それは大袈裟」
頭の上から律の楽しげな笑い声が降ってくる。葵は足元を見つめてじっとしていた。葵は律が律の友達と喋っているのがあまり好きではなかった。律は学校内では二人きりのときしか葵に話しかけない。話したとしても友達が近付いてくるとすぐに離れてしまう。今もこうやって自分と一緒にいることがバレないようにしているのが少し気に入らなくて、葵は律の踵を軽く蹴った。
蹴られた律は表情一つ変えず、腰に回していた腕を肩に移動させた。
「てか、その子は?」
友達のマツオが葵を見てそう言った。葵は突然意識を向けられたことに少し驚いて、思わず律のシャツを掴んた。フードを深く被って俯いているので顔は見えない。腰まで伸びた長い髪も今は団子にまとめられているのでフードから出ていない。律は葵の肩をぐっと抱き寄せてさらに自分に密着させた。
「いとこ。親が仕事で家空けることが多いからよく泊まりに来んの」
「へー、そぉ?」
「人見知りだから恥ずかしがってんの。もうそろそろ帰んなきゃ」
「そっかそっか。ごめんね!私たちだけで盛り上がってたら気まずいもんねー」
「私らもそろそろ行こーぜ。蒸し暑い」
「そーね。じゃあね律」
「また明日ぁ」
「はーい、ばいばーい」
律は人好きする笑顔を浮かべて手を振った。マツオとサエキの姿が見えなくなった瞬間、スっと真顔に戻った。
「……蹴んなよ」
「……」
「帰るよ。アイス溶ける」
「うん」
律の手はとっくに肩から離れていて、葵は律のシャツを掴んだままだった手を離した。
「そう言えばアンタ、ヤエオの告白断ったんだって?」
「……あぁ……。うん」
葵は一瞬何のことか分からなかったが、そう言えば先週に男子生徒に告白されたことを思い出した。
ヤエオというのは普通科でサッカー部に所属している男子である。整った顔をしており、成績も良く、所謂モテる男であった。特進クラスの葵と接点はないが、律は高校一年生のときに同じクラスだったため、ヤエオは律づてに葵を知った。春村葵は可愛い。学年一、いや学校一。それどころかヤエオが今までの人生で見てきた女の中で最も可愛らしくて、きっとこれからの人生でヤエオは葵以上に愛らしい容姿をした人を見つけることはできない。
ヤエオは葵の連絡先を律に聞こうとしたが、律は「葵はべつに友達じゃないから」と言って断った。他の友達にも聞いてみたが、誰も葵の連絡先を持っていない。ならば直接話しかけようと思ったが、初対面でいきなり直接呼び出すのはヤエオにとってかなりハードルが高いものだった。結果、ヤエオは古典的だが手紙を書いて呼び出すことにした。律から聞く限り、葵は自分のことを誰かに話すような性格ではないし、朝早くに登校しているため、誰かが葵の靴箱に入れた手紙を見ることはないと思ったからだ。
しかし手紙を入れた当日、葵はヤエオが指定した場所には来なかった。そもそも葵は手紙の中すら読んでいない。
それはそうだ。なぜなら律が捨てたのだから。
「結局別の日に放課後、呼ばれたんでしょ。なんて言われたの?」
「べつに、ふつうに。付き合ってほしいって」
「で、断ったんだ。ヤエオって結構良物件だと思うけど?男前だし、文武両道だし、うるさくないしさ」
「……つ、きあったほうが、よかった?」
「はぁ?」
律は冷めた目で葵を見下ろした。葵も無表情で律を見上げる。なに、なんだ?付き合った方がよかっただと?伺うようにこちらを見上げて首を傾げる姿に、またドロドロした気持ちが腹の奥底で沸騰し始める。
「どういう意味?」
「どういうって」
「アンタ、私が付き合えばいいって言ったら付き合うわけ?」
「ううん」
「じゃあなんで私の意見を聞くんだよ」
「だって、」
葵は当たり前のように言葉を紡ぐ。
「だって、律が嫌がると思ったから」
葵がそう言った時、律は自分の口角が上がりそうになるのを抑えた。
葵が誰と付き合おうが律がには関係ない。気にしない。なんて、嘘だ。全部嘘。自分でそうなるように仕向けたくせに白々しいと自嘲する。律が葵を気にしないことなんて有り得ないし、葵が律に関心を持たなくなる日なんて来ない。葵が告白されたことは大した問題じゃない。律が、葵に、あの手紙の内容を伝えなかったという過程が重要なんだ。律が手紙を葵に渡さなかったから葵はヤエオの告白を断った。
好きとか、ヤエオのことをよく知らないからとかではなくて、律が嫌がると思ったから葵はヤエオを受け入れなかったのだ。律が葵の連絡先を教えなかったのも、手紙を勝手に捨てたのも、何も言わずとも全部そういうことなのだと葵は理解していた。
馬鹿馬鹿しい。自分のことは自分で決めろと常に葵に怒っているくせに、いつだって律を絡めて生きている葵が心底愛おしくて仕方がなかった。ヤエオは可哀想な男だ。全然関係ない私に負けて可哀想!葵はお前のことなんて全く見てないよ。お前に対して好きも嫌いも、もはや興味が無いことすらないんだ。葵は私が、自分が誰かと幸せになろうとするのを嫌がるのを知っているから、ただそれだけの理由でお前は振られたんだ。
ヤエオが相談してくる時にいつも「春村さんほど可愛い人と付き合えるなら死ねる」と言っていたのを思い出した。マジでウケるね。その相談相手がお前のクソみたいな恋路の始まりすら踏み潰してるってのに。葵と付き合いたい人間は皆死んでもいい、死んだって後悔しないと口を揃えて言う。
「死にたきゃ勝手に死ねよ、クソ野郎」
葵の後頭部に手を添えて、律は葵の柔らかい唇にそっと口付けた。二秒くらい経ってから離れると葵は目を伏せて唇を舐めるから、それがなんだかいじらしくて、帰ったらぐちゃぐちゃにしてやろうと決めた。
律は何も無かったかのように袋からパピコを取り出して、割って片方を葵に渡した。頭の部分をちぎりとって道に捨てて、じんわりと熱くなった唇を冷やすように咥える。葵はちぎった先っぽに詰まった中身を齧った。
昔はたった五分の道のりでも夜に出歩くのって非常識で、好奇心をそそられるものだと思っていた。けれども案外普通だったし大して面白くもない。このパピコは今この瞬間じゃなくて、帰ってから冷えた部屋で食べても相変わらず美味しいに違いない。