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君と君による一つの消滅について

※息抜きで書いた落書きです


「歴史マジで覚えらんない」
頬杖を付きながら、律はオレンジ色のボールペンでコツコツと机を叩く。テスト週間は部活もないため、甲高い女子バレー部の掛け声や、サッカー部ほ顧問の怒号も聞こえず、夕日に染まった学校は静かだった。教室に残っているのは葵と律だけで、他の生徒はさっさと帰ってしまった。
「アンタ前の歴史何点だっけ」
「100点」
「はぁ〜?意味分かんない。マジで70点以上取れないんだけど」
「丸暗記しようとするからできないんだ」
「暗記以外どーすんのさ」
「ちゃんと一から流れを整理すれば分かるよ」
「間に合わない!あっ、葵時系列で全部まとめてるでしょ。それ貸して。それ覚えるわ」
「……」
社会科のテスト範囲はいつも広いのだから、この量を丸暗記するのは大変だ。最後まで覚えきれなくて、いつも最後のあたりの解答欄が空白だらけになってしまうのだ。よほど賢くなければただ暗記しただけのものなど、次の週には忘れてしまうだろう。それじゃあ勉強の意味がない。普段からその日の授業の復習をしており、塾にも通い、期末考査の二週間前からテスト対策を始めている葵は、とっくに後はもう覚えているか確認するだけだった。律は一週間前からテスト勉強を始めて、テストが始まるギリギリまでテキストを確認している。律は決して勉強が苦手でも、面倒くさがるが放置するわけでもなく、勉強すればいつも平均80点くらいの良い成績だ。
「数学とかさー、何やらされてんだろって感じじゃない?結局何を求めさせられてるのか全く分かんないし」
「うん」
「アンタどこ受験するんだっけ」
「月光学園」
「げっこー……あ?太陽学園じゃないの?あっちの方が偏差値高くない?」
「月光の方が近いし、特進コースなら太陽学園と同じレベルだから」
「マァ太陽の方は私立だし、月光は校則ゆるゆるだもんねー。私も月光にしよ」
「ついてくるの?」
「は?なんで私がついていく側なのよ。月光学園は学年ごとに違う制服なの。可愛いじゃん。ネイルもピアスもOKだし。絶対月光がいい」
「ピアス開けるの?」
「んー、開けるんじゃない?私が開けるとき一緒に開けてあげる」
「嫌だ」
「インダストリアルとか可愛くない?アンタも5個くらい開けたら?」
「いらないよ」
「10個くらい開けちゃう?アハハ!」
「……」


*


「……」
ぱち、と。葵はぼんやり目を開いた。冷房のせいで二の腕が冷えていることに気付いて、毛布を肩まで被って、毛布の中で二の腕を摩った。左に身体を向けると、顔のすぐ目の前に律の寝顔が映り込んで、葵はぼーっと律のまつ毛を眺めた。身体が温まるとまた瞼が重くなってきたので、ゆっくりベッドから抜ける。今日も仕事だ。まだハッキリしていない意識の中、無感情にパジャマのボタンをプチプチと外して軽装に着替える。パジャマを脱ぐと腕や横腹の包帯とガーゼが見えた。先日の任務で負傷した傷はまだ治っておらず、あと二日は包帯が外せない。律が寝ているから、なんていう思いやりは特になく、葵は冷房の温度を上げて寝室のカーテンを開いた。もぞもぞと毛布に顔を埋める律を横めに、アコーディオンカーテンを開いて寝室を出た。
洗面所の鏡の前でぼーっと自分の寝起きの顔を眺める。右耳に5個、左耳に4個あるピアスホールには、相変わらず何も付けられていない。
「……」
ヘアバンドで前髪を上げ、夏のせいで生温い水で顔を濡らす。タオルで拭いて顔を上げると、ちょうど律が寝室から出てきて洗面所に来た。
「おはよ」
「おはよう」
寝起きのせいか機嫌が悪そうに顔を顰めて出てきた律に、葵は珍しく早起きだなと思った。葵は黙って右に寄って歯を磨く。いつもと同じ朝だ。自分が先に起きて、たまに律が早く起きると洗面所に並んで立って、朝は機嫌が悪い律は挨拶か独り言か舌打ちしかしなくて、特に用がなければ葵も会話することなく黙々と準備をする。樋口が作ってくれている朝ご飯を温めて、牛乳を飲んで、そしたら職場へ向かう。毎日それの繰り返しで、寝る場所が違うか、仕事がなければ学校に行くかで、目まぐるしく過ぎていく日々をつまらなく過ごしていた。
額にニキビを見つけた律は軽く舌打ちをして、肌荒れなんて一つも経験したことがない葵の綺麗な肌を見て、あからさまにため息を吐きながら歯磨き粉を歯ブラシに乗せる。歯磨きが終わった葵は律の1本後ろに下がって髪を結ぶ。
「んぇー」
「なに」
「たふぁにあふぉにーてーぅしたら?」
「してほしいのならする」
「ひふんふぇかんがへろほ」
「あたしはどっちでもいい」
ブラシに絡まって抜けた長い髪をゴミ箱に捨てる。適当に結んでいた片方のゴムを解き、髪を一つにまとめて高い位置で結んだ。葵はこれでいいか、と言わんばかりの顔で律を見る。律は葵の肩を掴んでくるくると身体を回転させ、また向き合って葵の頬を片手で挟む。
「……アンタほんと、嫌味なくらいどんな髪型でも似合うね」
「そう」
「リボンは白にしなよ。紐じゃなくて大きいやつ」
「うん」
化粧も終えて、樋口が作ってくれた味噌汁や卵焼きを温めて、葵が誕生日席に座って、律が二人掛けのソファに座って黙々と朝食を食べる。またどこかの誰かが交通事故で死んだ話や、芸能人がわいせつ行為で訴えられた話や、名前走っているけどあまり知らない野球選手が活躍したニュースを見て、ダラダラと喋りながら咀嚼した。
「かき氷ってたまに食べたくなるけど、アレに4000円とか絶対に払えないわ。もっと大きくて2000円以内のあるのにさ、高級フルーツが乗ってるってだけで4000円になんの」
「屋台のかき氷しか食べたことがない」
「結局屋台レベルのシンプルなかき氷でいいんだよ。食べる前は楽しみだけど食べてからはどうでもいいってか、寒すぎてそれどころじゃない」
「今はインスタ映えが重視されているから、見た目を豪華にしないと客が来ないんだろう」
「やりすぎ感あるねけどねー。可愛いのはいいんだけどマジで食べにくい。パフェもこれどうやって食べんの?みたいなのよくあるし。インパクトがあってももう一回食べたいとは思わないね」
「流行りのスイーツは大抵一発屋みたいなものでしょう」
「それ。タピオカは長かったけど今はもう全然見なくなってるらしーよ。マリトッツォとか一瞬だったじゃん」
「うん」
「最近アイスも700円とか800円の売られてるじゃん。あんなん並んでまで食べたいと思うもんかね」
「アイスに800円……」
「アイスに800円」
「ハーゲンダッツ」
「250円」
「む」
「でもこういうの結局行くんだよねー。一つの娯楽みたいなもんじゃん。みんなで放課後とか休みの日に行ってかわいーっつって、インスタに載せてさぁ……」
律はそう言ってから、ゆっくり口を閉じた。そしてまた不機嫌そうに顔を顰めて「みんな楽しそーだよね」と呟いた。高くても可愛いから食べたいとか、インスタ映えとか、きっと友達とそういうものを共有し合うのってすごく楽しいのだろうな。葵は友達がいなかったのでそんな経験はないからよく分からんが。でも律はいつも皆の真ん中にいて、これ食べようあそこ行こうと言えば一緒に出掛ける友達がいて、そういう、キラキラとした学生生活が良く似合う女の子だった。今でもギャルっぽいところは変わらないが、今はもう忙しくて学校すらちゃんと通えていない。友達も最低限しか作らないようになり、いつも怒っているように顔を顰めている。
いつも怒っている。
「あ」
「あ?なに」
「久しぶりに夢を見た」
「ふぅん……どんな?」
「…………?……忘れた」
「なんだよ」



「え〜可愛い〜!!」
「……」
「どうしたんですか葵先輩〜!どうして今日はポニーテールなんですか!?」
「律がたまにはしてみたらって言ったから」
「か〜わ〜い〜い〜〜〜!!」
「うるさいよ小松!」
「あ〜ん、律先輩ごめんなさーい」
挨拶や掛け声の声は小さいくせに、こういう時ばかり大はしゃぎをする小松は、顔の前で両手を組んでキラキラと目を輝かせていた。しばらくすると吉岡に頼まれて資料運びを手伝っていた柚が会議室に入り、葵を見た瞬間「ぎゃわッッッッ!!!!」叫んでひっくり返った。文字通りひっくり返って尻をつき、資料をぶちまけたのだ。葵が落ちた紙を拾い集めるために柚の前にしゃがむと、柚ついにボロボロと泣き出してしまった。
「ぎゃ"わ"い"〜〜〜〜〜……!」
「わぁ、柚くん泣いてるの?面白すぎるよ」
「なんでこんな、こんな"ぁ"〜〜!」
「親でも殺された泣き方じゃん」
「この髪型はやめた方がいいかもしれない」
「いーじゃんほっときなよ。アンタがどんな髪型してたって大抵皆こういう反応すんだから」
春村葵が可愛いというのは世界共通の認識であり、どんな反応であれ、全員可愛いとは思っているのだ。それはそれはもうひっくり返るほど可愛くて、大抵の人間は本当にひっくり返ってしまう。柚や友達の喜壱のようにひっくり返る人間もおれば、小松や仙石のようにひたすら可愛い可愛いと愛でる人間もおるし、樋口や吉岡のように改めてその可愛さに驚いて固まる人間もおる。そして律や伊織のような、そんな可愛い葵をいじめたいという危ない思考を持つ人間もいるのだ。
後から資料を抱えて入ってきた吉岡は、葵が視界に入った途端「うわかわい……」と言って、目を丸くさせた。吉岡は大人なので耐えられるのだ。
「はい皆さん座ってください。ほら柚さんも」
「はい、ずみまぜ.......」
「はーもう夏ですねぇ。そんな夏にピッタリの訓練メニュー持ってきましたよ」
「げぇっ!」
律はもうそのメニューが何か分かったのか、舌を出してあからさまに嫌そうな声を出した。葵は相変わらず無表情だが、律が同様嫌そうな雰囲気を醸し出している。
「水中訓練?」
「はい。柚さんと小松さんは3ヶ月の訓練の中で、まだ水中での訓練はしたことごありませんね。これから先、必ず水中での救助活動もありますし、水中戦も有り得ます」
「ちょっと待って。あの訓練期間の中で水中訓練なかったの?」
「?ありませんでした」
「はぁ〜?私らのときはあったけど!?」
「律さんたちの次の年から撤廃されてますよ」
「なんで?」
「あまりにも過酷すぎてちょっとねぇ」
「ちょっとってなによ」
「もっと現場に慣れてからのほうが精神的にも楽だろうと上が言いまして」
「つまり先に壊れられると困るから、丈夫になってからだと壊れにくいってことね。吉岡ってさぁ、偉いんじゃないの?何も指示出せないの?」
「えぇ?僕ですか?僕はただの助手なので上にどうこういう権利なんてありませんよ」
「でも好き勝手してるじゃん」
「先生の助手なので、他の人間に従う必要もありませんしね」
あっけらかんとした態度で吉岡は言う。
水中訓練とは非常に過酷なもので、怪我をした時のような、我慢すればどうにかなるというものではない。葵たちは一般人とは違い、人智を超えた回復能力や再生能力があるため、弾を数発打ち込まれようが、足が吹っ飛ぼうが、すぐに処置をすればいつかは再生し元気になる。だが水中訓練はそうはいかなかった。息が続かなければ死ぬ。人よりも長く呼吸を止めることができても、自分たちは水の中を動き回わって救助活動を行わなければならない。
2年前に葵たちが受けた訓練では、重りを持った状態でプールの底まで沈み、重りを抱えながら水面まで泳いだり、着衣したまま救助の訓練を行ったり、水中爆破や水中工作の訓練も行う。ただでさえ水中は視界が悪いというのに、訓練では必ず灯りを消して夜と同じ状況で行われる。とにかく苦しい。苦しみながら死ぬ訓練をしているようなものだった。葵たちの代では、3ヶ月の訓練の時点で脱落者が多く、またトラウマを抱えて精神を病んでしまう者が多かったのだ。その事実を本部がやっと問題視し、3ヶ月の間に全てを学ばせるのではなく、ある程度心身ともに丈夫になってきてからぶっ叩こうということになったらしい。全くもってクソッタレ。
「そ、そんなにヤバいんですか……?」
「死んだ方がマシだね」
「えぇ……」
「はい、僕やりたくないです」
「いやいや、柚さんと小松さんは大丈夫ですよ。なんたって葵さんと律さんの直弟子ですからね。えぇ」
「俺訓練で死ぬなんて嫌ですよ!」
「死にませんて。死ぬ前に助けますよ」
「これが訓練の怖いとこだよね。絶対に死なせてくれないよ。残念だったね」
「ヤバいところに入隊してしまった!壊される!」
「もう皆ぶっ壊れてるから。あはは」
律は死んだ目で笑う。同じく死んだ目をした葵に「頑張って」と言われた柚と小松は、もう頑張るしかないのだ。



「本当にここでいいんですか?家の前まで送りますよ」
シートベルトを外して車から出ようとする律に、吉岡はもう一度声をかけた。いつもならば自分で帰れと言っても、家まで遅れと我儘を貫き通す律が、自宅から離れた場所で降ろしてくれと頼んできた。先日の任務で負った傷はまだ治っておらず、痛み止めを飲まなければ激痛で眠れないほどだ。次の仕事もあるし、できれば安静に過ごして早く治してほしいのだ。
「アイス買って帰るしいーよ」
「そうですか?途中で痛くて歩けなくなられたら困りますよ」
「大丈夫大丈夫。何かあったら葵に背負ってもらうし」
「あたしも痛い」
「その時は二人で困ればいいじゃん」
「意味が分からない」
「それくらい軽口が叩けてるのならば大丈夫だと思いますが。では明日もよろしくお願いしますね。薬はちゃんと飲んでくださいね!」
「オッケー」
「分かった」
吉岡の車が遠く離れていくのを見届けたあと、葵は髪を一つにまとめてフードを被り、律は帽子を深く被ってコンビニの中に入った。夏にマスクは暑いが仕方ない。包帯やガーゼだらけの二人組が入店してきたことに、店員は思わずぎょっとしたが、春村葵と夏川律だとは気付いていないようだ。
「夜に行けばいいのに。今は人が多い」
「今買うの」
「怪我が目立つ」
「今買うって言ってんでしょ」
「……分かった」
律は「コレ新しいの?美味しそー」と言いながらアイスを選ぶ。葵も適当に数個選んでカゴの中に入れた。店員は隣のレジのアルバイトと小声で話しながらこちらを見ている。
「夜ご飯はどうすんの?樋口くん来てくれんの明日じゃん」
「冷蔵庫に作り置きあるってメール来てた」
「あっそ。お菓子も買って帰ろ。なんか枝豆とかさぁ、たまに食べたくならない?枝豆って夏だっけ」
「冷凍のを買って帰ろう」
「塩振ってんのコレ」
「うん」
カゴいっぱいに好きなものを好きなだけ入れて、葵と律はレジにカゴを置いた。店員はなんでもないような顔で会計をしていくが、もう一人の暇そうなバイトは視線を隠そうともせず二人をジロジロと見る。律が彼を睨むと、彼は肩を跳ねさせて慌てて作業に戻った。
カードで支払いを済ませて、アイスやらお菓子やらでパンパンに膨れたレジ袋を二人で片方ずつ持って店を出る。もう夕方になっていた。小学生たちはまだ公園で遊び回り、中学生や高校生は下校をする時間だ。ジリジリと肌を焼く夕日が眩しい。
「いいなー……」
唐突に律がそう言うので、葵は律の視線の先を辿ろうとしたが、律はもうすでに前を向いていてた。でも律が何をいいなと言ったのかはすぐに分かった。母親の電動自転車の後ろに乗せられて好きなだけ喋る幼稚園児。友達とサッカーをしている小学生。部活のユニフォームを着たまま下校をする中学生。カフェで可愛らしい飲み物を並べて写真を撮っている女子高生グループ。律は彼らをぼーっと眺めている。
律は元々広い交友関係を持つ性格だったが、今は片手で数えられるほどしか友人がいない。中学時代の友達なんてみんな疎遠になってしまった。LINEの友達の欄にも残っていない。一年の半分もまともに学校に行けない状況では仕方のないことなのかもしれないが、律はもう自ら交友関係を広げていくことを諦めていた。
葵も律も分かっている。今は容姿や若さや性別で色々ともてはやされているし、実際実力もあるが、自分たちの活躍は一時の煌めきであり、いつかは世界から必要とされなくなる時が必ず来ることを。時間は止まらず自分たちは老いてゆき、新しく若いIUの素質を持った人間が生まれる。そうなってしまったら、自分たちのこの日々はどういう意味となってくれるんだろう。今もこうして取りこぼして過ぎてゆく日々を、ただぼんやりと生きていくだけなのだろうか。


*


「んぃいぅ……!!」
「……」
「おぉお…………」
「電気付ける?」
「うわっ!急に喋んないでよ!」
「……」
暗い部屋の中、クッションを抱えながら薄目でホラー映画を観ている律と、大きな目を時々瞬きさせて平常心で眺める葵。いつものように気まぐれで律の家に泊まるように誘われた葵は、最近話題になっていると言う台湾のホラー映画を一緒に見てほしいと頼まれたのだ。こういうのは、自分より怖がる人が隣にいれば逆に冷静になるというものなのではないのか。ホラー映画もスプラッタ映画も真顔で観る自分を誘ってどうする。
「いやいやいやもーーバカじゃんなんでそっち行くかね……」
「…………」
「マジでなんですぐ一人で行動すんだよ……」
「…………」
「あ"っ、これ次来るっ」
「律、静かにして」
「ほら来たっっ!!!」
律に黙るよう出した右腕を取られて、クッションと一緒に抱きしめられたせいで、葵は律の方へ身体ごとなだれ込んでしまう。離れようとしたが、思ったより強い力で絞められている。葵は小さくため息を吐いて、律の肩に頭を預けてリラックスした体勢のまま観ることにした。アジア系のホラー映画は常にじっとりとしていて、恐怖が常にそこにあるような、緊張をとくことも出来なければ予想も難しい。せめてスピード感の強い英米のものにすればよかったのに。
律の体温と、じめじめした温度の映画に眠たくなってきた葵は、律にもたれかかったままぼんやりと画面を眺める。それに気付いた律は、若干引いたような声色で「よくこの状況で寝れるわね」と言った。
「アンタなんでそんなに耐性あんの?」
「こういう驚かせるものはお父さんで慣れてるのかも」
「あぁ……絶叫マシーンとかアスレチックとか好きだもんね。グロいもん見てグロ!きも!ってならない?」
「グロいなと思うよ」
「父親の感性が娘に一切受け継がれてないじゃん」
「お父さんは怖いもの知らずだから、ホラーが怖くないのはお父さんから譲ってるのかも」
「そーゆーことねぇえアアッッ!急に出てくんな!」
「……」
怖いなら観なければいい、ということではない。怖いもの見たさで観てるのだから。律がそこそこ大きな声で喋るせいで、さっきから映画の音声がよく聞こえない。葵はテーブルの上のリモコンを取って字幕をつけた。
「お父さん今何してんの?」
「六甲山にいる」
「えーー珍しく国内じゃん。何してんの?」
「この前お母さんが六甲山牧場で売られてる羊のぬいぐるみが欲しいって言ったら、昨日から旅行がてらに行ってる」
「通販でいいじゃん」
「通販でも買えるけど、牧場で買うと羊にリボンが着いてるんだって」
「アンタのお母さんの趣味可愛いわねー」
葵の母親は常に冷静沈着な物腰の美しい女性である。葵の母親にとって高校の同級生で、いつも大きな声で笑っている元気な律の母親とは大違いだと律のは常々思う。好き嫌いを人に教えることが苦手なのだが、葵の母親は昔から可愛いものが好きだ。カラフルなかすみ草の小さな花束をプレゼントすると顔を綻ばせるし、葵の家にはいたるところに小さなぬいぐるみが置いてある。世界中がひっくり返るほど可愛らしい容姿をした娘を着飾ることも好きで、一緒に服を買いに行くときは、大抵フリルであったり、大きなリボンが装飾されていたり、ガーリーなファッションをさせることが好きだった。
「今度うちでバーベキューするじゃん?食後のスイーツ的なの買ってきてって言っといて」
「分かった」
「ん〜楽しみ〜って、ギャッ!関節が有り得ん方向に曲がってる!」
「静かに観て」


*


「あら、寝てらっしゃる」
明日のスケジュールを確認しようと休憩室にやってやって来た吉岡は、すぴぴと健やかに眠っている二人を見下ろす。今日はそれほど消耗するような任務ではなかったはずだが、律はともかく葵がこの時間に眠っているなんて珍しい。まだ21時だ。中学生である子供らだってまだまだ元気に遊んでおるというのに。シングルベッドをわざわざくっつけて眠る二人に、吉岡は眠ってる時は可愛らしいんだから、と思う。
「葵さん、律さん、起きてください。おーい」
吉岡がそう声をかけるが、二人はすっかり夢の中なのか、身動ぎひとつしない。これで明日になってなんで昨日言わなかったのかと怒られたりでもしたら、吉岡はきっとまたヒステリックに抗議することになるだろう。どうにかして葵だけでも起こしたいものだ。これまでの疲れが溜まっていたのかしら。ちゃんとケアはしているはずだし、食欲もいつも通りすごかったはずだが。
ベッドの横で腕を組んでうーんと考えていると、ノック音と共に「こんばんは!秋本です!」と、元気な声が聞こえた。吉岡が扉を開けると、黒いTシャツとジャージズボンを履いた柚が立っていた。
「あ、こんばんは!吉岡さん!」
「はいこんばんは」
「葵先輩いらっしゃいますか?夜に稽古をつけてもらう約束してたんです」
「葵さんは熟睡してらっしゃいますよ」
「えぇっ?まだ9時過ぎですよ」
「そうなんですよねぇ。マ、よく寝ることは良いことです」
「起きないんですか?起こしていいですか?」
「やめなさいよ。どうしても稽古したいならあきらさんがまだ起きてますよ。あきらさんにお願いしたらどうです」
「えっ!?嫌です!ていうか、あの人のその時の気分に合った食べ物持っていかないとダメなんですよ!」
「なら今日は諦めなさいな」
「そんなぁ」
「小松さんと二人ですればいいじゃないですか」
「アイツがやるわけないじゃないですか……」
「あら残念」
「も〜……この前約束したのにまさか葵先輩が寝るなんて……」
「叩き起します?」
「で、できませんよそんなこと!疲れてるならゆっくり休んでほしいので!俺も今日は部屋戻ります!」
柚は「失礼します!」礼儀正しく頭を下げて休憩室を去った。若者は元気よの。そして相変わらずくっついたまま全く起きる気配のない葵と律のために、吉岡は電気を消して静かに去っていった。



「お二人とも、最近よく一緒にいますね」
「……?」
稽古の休憩中に唐突に柚がそういうものだから、葵は首を傾げた。お二人、というのはもちろん律のことだろう。だがバディであり同じ家に住んでいるのだから、例え意図していなくとも、律と一緒に行動することは必然でもある。改めて言われるようなことでもないと葵は思った。
「あれ、気のせいか……?朝も一緒に部屋から出てきますし、お昼も一緒に食べてますよね?」
「そうだね」
「なんだろう……なんでか最近よく二人でいるのを見かけるなーって思ったんですよね」
「そう」
「昨日も俺と約束してたのに、律先輩と寝てたじゃないですか」
「ごめんね」
「え、あ、謝らないでください!忙しいのに無理言ってるのは俺なので!」
柚は真ん丸な目を大きく見開いてブンブンと首を振る。だが確かに柚がの言う通りだ。一緒に寝て、一緒に起きて、一緒にご飯を食べて、一緒に任務に行って、一緒に帰って、また一緒に寝る。葵と律、柚と小松のように一緒の部屋に住むバディならば、当然一緒にいることが多いに決まっているが。だとしても個人の体質があるし、生活リズムだって違う。律はエネルギーを使うと人より多く睡眠を取らなければならないが、葵は食べて補う体質だ。だが最近は律と同じくらい眠っている気がする。
思い返せばここ最近、自分がいつ眠ったのか分からない。気付けば朝で、身体も特に何の異変もなく、特別スッキリした気分でもなく普通に起きる。目が覚めると律も起きていて、ここ数日は毎日並んで歯を磨いていた。生活リズムが律に似てきたのかしら。そりゃあ、もう、17年だ。17年間のうちに、顔を合わせなかった日なんて圧倒的に少なくて、二人暮しになった時でさえ、生まれてからずっとそうしていたような自然さだった。夫婦は顔が似てくるとか、そういう類のものなのだろうか。自分と律は夫婦ではないが。
「君は小松と一緒に寝る?」
「はい?寝ませんけど……」
「どうして?」
「どうしてって言われても……そもそもベッド二つありますし、あんな奴と一緒に寝たくないですし、野郎と肩くっつけて寝たくないですよ」
「そう」
「そう言えば先輩たちはなんで一緒に寝てるんですか?自宅でもダブルベッドだし、休憩室のベッドもくっつけて寝てるって吉岡さんから聞きました」
「一緒じゃないと眠れないから」
「えぇ……?」
柚は理解できないというような顔をする。柚は大変素直で、世間一般的には可愛い後輩なのだろう。だが素直すぎるので、良くも悪くも分かりやすく顔に出る。
「君たちの代が甘いわけではないけど。この間吉岡が言っていたように、あたしたちの代の訓練は酷かったから」
「酷かったってどんな風にですか?」
「本部の奥にある建物が何か分かる?」
「え?あぁ、はい。精神病棟ですよね?心のケアをしてくれるっていう」
「そう。ケアはするけど、あそこに入るとほとんど出てくることはできない」
「えっ」
ここHERO本部の敷地内のずっと奥にある精神病棟では、訓練や任務で精神が壊れてしまった患者たちの治療が行われている。いくら人よりも遥かに身体が丈夫だとしても、この身体は不死身ではない。仕事はいつだって死と隣り合わせで、昨日一緒に夕飯を食べた同期だって今日死に別れてしまうかもしれない。学生のうちから入隊するのだから、あったはずの明るい未来が奪われているのも現実だ。ただでさえ世界人口に比べてHEROを持って生まれる人間は少なく、さらにIUの素質を持つ人間はほんの僅かだ。
水中訓練を3ヶ月の訓練の中から除外した上の判断は正しい。葵と律の代は、その3ヶ月の間で死すらも体験した。葵たちと彼らの訓練での違いを例えるならば、柚と小松たちの代はしっかりと武装して戦場に挑む武士で、葵と律たちは使い方も分からない武器だけ持たされ、武装もせずに戦場に引っ張られた農民のようなものだった。死なないようにしっかり念入りに仕込まれていた柚たちとは違い、葵と律とから上の世代は即興で対応し、そこでしくじれば死ぬだけであった。そのため、葵たちから上の世代のぶっ壊れ具合は凄まじい。強さという意味でも、言葉のまま精神のぶっ壊れ具合も。
律が正しくその例である。地獄の3ヶ月の訓練で精神がおかしくなってしまったが、律はなんとか精神病棟から出ることができた。壊れたまま強制的に歪に直されて、今もずっと壊れたままだ。律がいつも不機嫌で短気な性格になってしまったのも、壊れたからだ。突然ヒステリックになって暴れたり、葵に対して子供がするような試し行動をしたり、突然ネジが飛んで本人も制御できなくなってしまう。
「出られない人はどうなると思う」
「ま、まさか……殺処分ですか……!?」
「違う。被験者になる」
「被験者?」
「こちらの人間は元々人数が少ないから、上だって死なれると困る。だからHLのような、物理的に力が弱い職員たちがなるべく安全に調査できるように、被験者たちが先に現場に送り込まれて調査をする」
「そんな怖い話しないでくださいよ!」
「律も本当はそうなる予定だった」
「えーーー!?」
「律はギリギリで出ることができたけど」
「す、すごい……流石というか……」
「それから色々あって、一緒じゃないと眠れないようになった」
「……いやその色々が一番大事でしょ!なんでそこ省いちゃうんですか!」
「?君が知る必要はない」
「そんなぁ!……ていうか、それで最近同じタイミングで寝るようになってるってことですか?一緒に居すぎると同じ行動を取ってしまう的な……俺もうちょっと小松と距離取ろうかな。アイツの影響受けて変なことしたくないし」
「君と小松の距離はもう十分あるだろう」
「物理的に近いんです!ほんっともう夢の中にまであのヘラヘラした顔が出てきやがるんですよ!」
「…………夢」
「そうです!夢の中でも俺に変なことを……ハッ!い、今の忘れてください!」
変なこと、というのは、小松の性欲が強い体質を考えれば自然に想像できるが。顔を赤くしてあわあわと慌てても、葵は無表情で稽古場のどこかを眺めているだけだ。
そう言えば、最近よく夢を見る。そう言えばそうだった。やけにはっきりと覚えている。決まって夢には律がいて、体験したことがあるようなないような、自分たちの思い出を再現したかのような夢だ。夢の中の律は上機嫌で、自分も楽しんでいる。当たり前のように高校受験のことや、父や母について話していた。夢だからか。夢だから。
ぼーっと考えていると、少しずつ眠たくなってきた。と葵が思ったときには、もうすでに瞼は閉じられていた。突然自分の肩にもたれかかるように眠ってしまった葵に、柚は口から心臓が飛び出そうになるのを必死に抑える。どうして急にとか、葵の体温がとか、誰か呼んだ方がいいのかとか、寝ているだけならもう少しこのままでもとか。色々考えた結果、柚は色んな感情がごちゃ混ぜになって、泣きながら吉岡に電話するのだった。


*


ぐら、

と。視界の端で影が大きく揺れた。プラスチックが床に落ちた軽い音がして、忠邦は持っていた皿を落として割れたことも気に留めず、倒れそうになった葵の肩を支える。厨房からキノシタの怒号が聞こえたが、そんなことはどうでもいい。葵は完全に脱力していて忠邦が揺らしても反応しない。
「葵ちゃん?」
返事はない。くるんと上を向いた長いまつ毛は上下で綺麗に合わさっていて、手足の力が完全に抜けてしまっていた。よくお人形のようだと言われている彼女は、目を閉じて動かなくなると本当に人形のようで、呼吸をしているのかさえ疑ってしまいそうになる。あまりにも突然で、それなのに葵は規則正しい呼吸をしていて眠っているだけのように見えた。皿が割れた音で厨房から出てきたキノシタは、忠邦にホウキとチリトリを押し付けくる。
「お客さん、自分で片付けろよ」
「あの」
「あの張り紙を見ろ。見えるか?当店は何があっても一切責任を取りませんって書いてるだろ……。俺がこの熱々のフライパンをお前の顔に押し付けても俺は一切責任を取らなくていいんだァ………はは」
「キノシタさん」
「なんですか?」
「葵ちゃんが倒れました」
「だからなんですか?綺麗な顔ですね」
「樋口さん呼んできてもらえますか」
「いいですよ」
キノシタはケロりとそう言って、厨房にいる樋口を呼んだ。すぐさま小走りでやって来た樋口は、忠邦の肩に手を置いて「大丈夫か?」と聞く。忠邦は黙って頷いた。キノシタは戻ってこなかった。樋口は忠邦の腕の中で静かに眠っている葵に外傷がないか確認していく。しかし葵の肌は相変わらず傷も痣もなく綺麗で、何かを打ち込まれた形跡もない。本当にただ眠っているだけのように見える。
「急に気絶したのか?」
「うん」
「気絶する前に何かしてたか?」
「ふつうにご飯食べてた」
「なに食ってた?」
「春雨炒め」
「春雨炒めを作ったのは俺だ。おいキノシタ!調味料に何か入れられてるかも知れねぇから料理はストップだ!」
「俺も食べたけど俺は何もなってない」
「念のためだ。てか見た限り本当に寝てるだけみたいだな……。吉岡呼ぶから、休憩室に運んでくれるか?」
「うん」
膝裏と背中に腕を回して葵を抱え上げる。人間らしい重みと温もりを感じて、ちゃんと人間であることを再確認した。吉岡が来る前にこのまま自分の部屋に連れて帰ろうかと一瞬思ったが、怒られるだけなのですぐに諦めた。葵を汚い休憩室に運び、パイプ椅子を三つ並べて寝かせた。すぐに樋口が入ってきて、何やら吉岡とはテレビ通話をしているらしく、葵にスマホカメラを向けて「どうだ?」と聞いた。忠邦も樋口の隣に寄ってスマホの画面を見たが、吉岡はビデオを付けていないらしく、画面にはカメラで映された葵しかいなかった。
『んー、寝てるだけじゃないですか?外傷もないんでしょう?』
吉岡はあっけらかんとした様子でそう言った。樋口は思わず顔を顰める。
「画面越しで分かるのか?」
『えぇ?なんとなくですよ。経験上そうだろうなーと』
「おいおい……」
『僕が何百年この仕事をしてると思っているんですか。いやー完全に寝てますねこれ。いつもと同じ寝顔です』
「任務の後遺症とかじゃないのか?」
『あのねぇ、そんなものがあったら僕が見つけてるに決まっているでしょう』
「じゃあ睡眠不足か?」
『確かに任務はありましたけど、ここ数日はしっかり眠ってらっしゃいましたよ』
「お前のしっかりは信用できねぇぞ」
『んまァ!失礼な!この僕が彼女たちに異常があるのに放置するわけないでしょうが』
「ならどうして急に倒れるんだ」
急に喋った忠邦に、吉岡は思わず「喋った……」と思ってしまった。葵も会話に入らず黙って雲を眺めていたかと思えば、突然核心をついた質問をしてくることがある。その度に吉岡は「そう言えばこの人ふつうに喋るんだったな」と思うのだ。さすがは姉弟。
「寝ているだけだとしても、理由もなく突然寝ることなんて有り得るのか」
『葵さんは持病もありませんし、そういう体質でもないですし、もちろん有り得ないですよ』
吉岡はまたケロッと軽く言った。有り得ないのならなぜ急に眠るんだ。理由があるからに決まっている。忠邦は理由について聞きたいのに、吉岡は迎えを寄越すと言ったっきり、それ以上葵について何か言うことはなかった。
「迎え?吉岡じゃねぇのか」
『僕は今から会議なので。律さんも寝ているので、迎えは二人の男性隊員に行かせます』
「律も寝てるのか?本当に大丈夫かよ」
『律さんは自分からベッドに入りましたよ。僕忙しいので、それじゃあよろしくお願いしますね!』
ピッ。
なんて適当な。しかし吉岡が適当でも大丈夫ならば、大丈夫なのだろう。何にせよ葵の身体に起こった問題を、忠邦と樋口が解決することはできない。休養だって検査だって、結局は吉岡の元でしなければ仕方がないのだから、吉岡の指示に従う他ないのだ。樋口は今日はもう閉店することにして、キノシタと共に料理に使ったもの全てを表に出すことにした。
吉岡が迎えを寄越すと言ってしばらくすると、店の扉に吊るされたウィンドチャイムが鳴った。すぐにハキハキとした元気な声が店中に響き渡る。
「こんにちは!秋本です!吉岡さんに頼まれて葵先輩を迎えに来ました!」
「冬野でーす」
確かに男性隊員が来ると言っていたが、現れた彼らは想像していたよりもずっと幼く、エネルギーに満ち溢れていた。そりゃそうだな。育ち盛りだもの。柚は「あ、」となにか思い出したように呟いて、慌ててHEROの手帳を見せた。隣にいる小松にも見せるように言うが、小松は忘れちゃったーと悪びれる様子もなくへらりと笑った。柚と小松は春から葵と律が教育係として指導しているIUの新人で、まだ中学生であるため普段は本部の敷地内にある寮で生活をしている。吉岡に雇われて葵たちのために家事をしている樋口とは多少面識はあるものの、他人と言えば他人だ。
葵の側にいる忠邦を見た柚は、すぐに忠邦と葵を引き離した。忠邦と葵が一緒にいると、柚はなぜか毎回距離を取らせようとする。全く意味が分からない。忠邦は足に力を込めてやんわりと抵抗するが、彼が自分より年下であっても彼はIUなのだ。どうしたって忠邦より力が強い。樋口とキノシタは葵のすぐ近くにいても何も言われないのに、自分だけが離れさせられるなんて!忠邦は床に落ちていた飴の包み紙をぐりぐりと踏みしめた。あからさまに拗ねている忠邦を見て、樋口は声を出して笑った。
「おい分かりやすく拗ねるなよ忠邦」
「なんで俺だけダメなの」
「すみません。先輩の身体に異変が起こるといけないので」
「意味が分からない。俺となんの関係がある」
「わぁ〜!葵先輩と話し方がそっくり〜」
空気を読まない小松は、感動したようなキラキラした目で忠邦を見た。小松はなぜかキノシタの腕に自分の腕を絡めている。キノシタは珍しくダラダラと汗をかいて、樋口にか細い声で「たすけて……」と言うが、樋口は愉快そうに笑うだけだった。
「すみません本当に。色々あるんです」
色々ってなんだ。吉岡も柚とかいうガキも、そうやって肝心なところは何も話さない。吉岡は申し訳ないとは欠片も思っていない顔で謝るが、本当に申し訳なさそうに謝る柚はまだ良心的らしい。
「どうやって連れて帰る?」
「背負って帰ります!」
「そんな雑な方法でいいのかよ」
「吉岡さんにおぶって帰って来いと言われたので……」
「アイツどんどん適当になっていくなー」
「あ、ちょっと、あの……先輩渡してください。すぐに検査しないといけないんです」
柚に困ったように言われても、忠邦は葵の前に立ってそっぽを向く。
「忠邦、無駄な抵抗はやめろ」
「おい!そんなガキに構ってないで俺を助けろ!この気持ち悪い奴をどうにかしろ!」
「あーん痛いです!でも僕乱暴な人の方が好きなんですよねぇ」
「嫌っ!助けて!」
キノシタの刺青だらけで真っ黒な腕に、小松は恍惚とした表情で擦り寄った。キノシタはべしょ……と泣き出してしまう。両腕が刺青だらけの、あきらかにまともな人間ではなさそうなキノシタが本気で泣いているのを見て、柚は少しだけ引いた。キノシタは童貞だった。小学生の頃に童貞を捨てていそうな雰囲気を出しているのに、繁華街を歩いているときにおっぱいがでかい姉ちゃんに手を握られて、道のど真ん中でべしょべしょに泣いてしまったことがある。中性的であきらかに性的な目で見てくる美しい少年に、童貞のキノシタはキャパオーバーしてしまい、完全に負けてしまったのだ。
柚は小松の頭をシバいてキノシタから遠ざけた。鼻を啜るキノシタがあまりにも不便で、「もう大丈夫ですよ。怖かったですね」と、キノシタの背中を撫でた。
「うちの店で使ったもんを一応調べてくれるか?なんか入ってるかもしれねぇし」
「あ、分かりました。小松、もう帰るぞ。この箱背負って」
「えー僕が葵先輩運びたい。柚くんズルい」
「お前が先輩運んだら他の荷物持たないだろ。俺が先輩とこの箱持つから、お前はその二つ」
「はぁい。あっ、おにーさん、連絡先だけ教えてください♡」
「俺のケツはひぐっさんのもんだ!」
「ふざけんな。んな汚ぇもんいるか」
「わぁ、ネコの方でしたか。僕タチでも大丈夫で、痛っ!」
「すいません。コイツの言うことは何一つ気にしないでください」
「いたーい!柚くんってばひどーい」
「うるさい!帰るぞ!失礼します!」
「えーん、失礼しました〜」
葵を背負って去っていった二人は、屋根や電柱を飛び越えてあっという間に姿が見えなくなってしまった。先程までべしょべしょに泣いていたキノシタは、何事も無かったかのように葵が食べ切れなかったミートスパゲッティを手で掴んで食べた。樋口はキノシタの頭をシバいて片付けに取り掛かっているというのに、忠邦だけがもう誰もいない店の入口をじっと睨んでいた。


*


「ここのアイスずっと食べたかったんだよねー」
授業を終えて、直接ショッピングモールにやって来た葵と律は、最近オープンしたばかりのアイス店に並ぶ。平日だと言うのに行列ができていて、自分たちと同じ制服の女子生徒だったり、他校のカップルが多く並んでいた。トッピングが可愛いとテレビでも取り上げられているアイスで、店舗によっては種類も豊富なのだと。
「700円……」
「初回限定のクーポンあるから500円だよ」
「並んでまで食べたいかって話をしてたでしょう」
「そんな話した?」
「した」
「マジ?覚えてないわ。いつ?」
いつ?と聞かれて、葵は答えられなかった。
10分ほど並んで、律はストロベリー味を買い、葵はチョコバナナ味を買った。カップの底にコーンが敷かれており、その上にアイス、その上にクリームやクッキー、チョコなど、様々なトッピングがされているらしい。そこそこの量があり、マァこれくらい凝っているのならば700円も妥当か……と葵は一人で納得した。
空いた席に座り、律は葵が食べる前にアイスを奪って自分のアイスの横に並べた。葵は食べようとスプーンを持った右手を上げたまま、律が写真を撮り終えるのをじっと待つ。10秒くらいでパッパと写真を撮った律は、葵にアイスを返して、次は自分のものだけじっくり時間をかけて撮った。葵は律を眺めながら、アイスに刺さっていたポッキーを抜いてサクサクと食す。
「どぉ?美味しー?」
「美味しい」
「ポッキーしか食べてねーだろ。葵の写真撮っていい?」
「うん」
「じゃ可愛くして」
「可愛く………」
「何もしなくてもかわいーよ」
「そう」
律がそう言うので、葵は構わず食べ続けた。
「これインスタに載せんね」
「うん」
「家族LINEにも送っちゃおー」
「はやく食べないと溶けるよ」
葵がそう言うと、律は大人しくスマホを置いて食べ始めた。葵に美味しいかと聞いてきたくせに、自分は「マァ分かってた味」と笑いながら言うのだ。そりゃそうだな。ただのコーンに、ただのストロベリー味のアイスに、ただのクリームに、可愛いクマの形をしたただのクッキーとただのカラースプレーを振りかけているだけなのだから、味は想像できる。喧嘩しない美味しいものと美味しいものを合わせれば、当然美味しいものが出来上がるに決まっている。
この間の体育がどうだったとか、SNSで見つけた動画がこうだったとか、他愛もない話をした。友達が少ない葵にとっては、いつも何かしら楽しい予定がある律の話を聞くのは苦ではなかった。その中に当然のように自分との予定が入っているのも嬉しかった。来週の土曜日はクリームソーダ専門店に行こうとか、今度はいつ泊まりに行くとか、そんなことを律と話しているとき、葵はふと思った。
「土曜日は仕事があるよ」
「仕事?アンタなんかバイトやってたっけ」
「バイト?何を言ってるの律」
「え?何が?アンタのママの小説の資料集めに、また家族で旅行すんの?」
律の言っていることが全く分からなかったが、それ以上に自分が何を言っているのか分からなかった。自分の口が仕事があると言ったのに、葵は一体どんな仕事があるのか思い出せなかった。バイトなんてしていない。でも土曜日は仕事がある。仕事ってなんだ。母親が小説を書くために、様々な場所に足を運んで取材をしに行くことはよくあった。だが葵はそれについて行ったことがない。律の言い方じゃ、定期的に家族で旅行していることになる。家族ってなんだ。確かに自分には父と母がいたが、父はとっくの昔に家を出ていった。
「あれ……」
自分たちはどうして今、制服を着ているのだろうか。手首に巻かれていた包帯がない。顔も隠していないのに誰からも注目されていない。律の家に泊まりに行くなんて、有り得ない。だって自分たちは現在進行形で二人暮しをしてるじゃないか。
「葵、大丈夫?」
流行りに乗った一発屋のアイスは高い。
「ねぇ、葵ってば」
耳鳴りがする。葵は首に装着されているはずのリミッターに手を触れた。思わずハッと顔を上げて律を見ると、律は顔を歪めて笑っていた。





次の瞬間、葵は目を開けて飛び退いた。





「…………律」
葵は先程まで自分が寝ていた位置に刺さったナイフと、髪を垂らして俯いている律を見た。最悪のお目覚めだ。ヒリヒリと痛む背中はきっと避けきれなくて皮膚が切れてしまったのだろう。律はベッドの上で座ったまま額をシーツに擦り付けて、う"ぅーーー……と呻きながら頭を抑えた。見慣れた白い部屋は本部の休憩室で、さっきまで忠邦と食事をしていたはずなのにと少しだけ驚く。またいつの間にか眠ってしまっていて、誰かに本部まで運んでもらったのだろう。シーツを破いてしまったからきっとまた吉岡に怒られる。そんなことを呑気に考えながら、様子のおかしい律を静かに宥める。
「……律。律、落ち着いて」
「ぅ"ーーーーあ"ーーー……うううるさい……うるさい…………」
「律」
とにかくナイフを回収しようと葵は一歩近付く。ナイフは護身用にそれぞれ一つずつ、ベッドの頭の部分にある収納スペースに入れているものだ。葵は小さく舌打ちをした。まだ傷も治っていないのに面倒なタイミングで“こう”なられると困る。
律は髪をぐしゃぐしゃに掻き乱したかと思えばいきなり膝立ちになり、ナイフを自分の胸に向かって誘うとした。葵は近くにあった律のスマホをナイフに向かって投げる。スマホはナイフを弾き飛ばし、勢い良く壁にぶつかってしまった。もしかしたら画面が割れてしまったかも。宙に浮いたナイフを律は素早く回収したのと同時に、葵も自分の引き出しからナイフを取り出した。律は乱れた髪が口の中に入っているのも気に留めず、ナイフを持った葵を見て小さく笑った。
本当は。こういった小さな武器を扱うのが上手いのは律の方だ。葵は非常に賢く手先も器用だが、愛用している鉄パイプや鈍器のように力任せに扱えるもののほうが性に合っている。律が葵に向かってナイフを向けた瞬間、葵は中心をずらしてナイフを持っている手の甲を左肘で受けた。律の右腕の下から左腕を巻き付けるように回して、てこのように腕を捻り上げてナイフを落とす。ナイフを手から離させるのは簡単だ。しかし律も素人じゃない。プロであって、その上普通の人間よりも優れた反射神経を持っている。
律は落ちたナイフを足で蹴り上げて、左手で下から切り付けてくる。葵は太ももの肉を切り裂かれた痛みに思わず顔を顰めるが、律は待たない。葵の首を掻っ切ろうと頸動脈目掛けて腕を振った。ギリギリのところで避けた葵は律の横腹を蹴り、律の身体は壁まで吹っ飛んだ。凄まじい音がし、律がテレビに激突したせいで液晶が割れてしまった。すぐさま律は手元にあったリモコンを投げて、次はナイフを葵に向かって投げた。葵はベッドの脇に置いてあるミニテーブルを片手でひっくり返し盾にして、律に向かって叫ぶ。
「律!部屋が壊れる!」
「そんなことどうだっていい!!」
律はアンクレット型のリミッターを外した。HEROのエネルギーを使ってライトマシンガンを生成して、葵に銃口を向ける。葵は首のリミッターに手をかけるが、まだ外そうとはしなかった。

「やっぱり」

「アレは律の夢だったんだ」

律の指がピクっと震えた。
当然のように父親がいて、当然のように母との関係も良好で、今でも律の家を行き来していて、放課後は対して興味もない流行りに敢えて乗っかって。もしかしたら有り得た未来だった。だが葵の夢ではない。アレらは葵の願うものではなかった。全部全部、律の願望だった。
「良い夢だったでしょ」
律がそう言う。
「それともアンタにとっては悪夢だったわけ?」
初めは。律も気付いていなかった。また都合の良い夢を見ているだけだと思っていたが、日に日にリアルになっていく夢を見て、自分が眠ると葵も一緒に眠るようになっていることに気づいた。
でも夢は夢だ。夢の中には自分と葵しかいなくて、その他の人間は顔の形も分からないままぼんやりとしていた。自分の家族も葵の親も、話題には出てきたけれど姿を見ることはできなかった。だって律の記憶の中の葵の父親は、ずっと小さい頃にどこかへ行ってしまったから、もう顔なんてほとんど覚えていない。葵の母親が葵を連れて旅行に行くなんて想像もできない。ずっと連絡を取っていない両親や姉と、笑いあっている今が想像できなかった。全部未完成な妄想のままだった。有り得たかもしれない未来なんて全部全部、全部、もう有り得ないのだ。
未完成でも幸せな夢の中にいたかった。自分が幸せだと思っている夢を、葵にも幸せだと思ってほしかった。
でも律は知っている。
「ごめん」
自分と、葵の夢は違うことを。
律が望んでいること全てが、葵にとっての幸せではないことを。
律は小さな声で謝った。自分たちがまだ未熟だったせいで家族を亡くしてしまった柚ですら、もう前を向いて歩いているのに。自分だけがずっと現実を受け入れられず、自分だけがずっと子供のように嫌がっている。
その場に座りんで膝を抱える律を、葵は黙って見下ろした。太ももから溢れ出す血が真っ白な足を伝って、床を汚していく。
「楽しかったね」
葵がそう言って、律の隣に座って肩をくっつけた。目の奥が暑くなった。喉が痛くなって、目から溢れそうになるものを必死に堪えるために、律は手の甲に爪を食い込ませる。
「楽しかったよ、律」
手を引っ掻く左手を、葵は優しく握った。
窓の外はもう明るかった。