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escape(未完)

※完結していますが修正・加筆中です。


「はァっ……はァっ………!」

相楽は無我夢中で足を動かした。端に停められている自転車が倒れるのを気にしつつ、人にぶつかれば大声で謝りながら、息が上がり苦しくなろうともひたすら走り続けた。なのに理性は妙に残っていて、先程買った食パンを潰さないように大事に抱えている。後ろからバイクのエンジン音が聞こえる。心臓は口から飛び出そうなほど激しく脈打っていた。
逃げなきゃ。逃げなきゃ!!
「ここどこだよ……ッ!」
走り回ったせいで自分がいる場所も分からない。元々自宅からかなり離れたところに用事があったからここにいるだけで、この辺りの土地勘が全くなかった。
「あっ、ぅグッ!!」
整備されていないガタガタのアスファルトに足を引っ掛けてしまい、勢いよく地面に倒れた。こんなときでもパンは大事らしい。だってただの食パンじゃない。一斤1400円の高級食パンだぞ!バイトをクビになった自分への慰めに、わざわざ電車に乗って買った食パンを台無しにしていいわけが無い。転んだ拍子に膝と手のひらを擦り剥き、頬を強く打ってしまった。慌てて立ち上がったが右足に鋭い痛みが走った。足を捻ってしまったらしい。体重をかけると酷く痛む。足を引き摺ってなんとか進もうとした時、後ろから恐ろしく殺気を含めた声が相楽の鼓膜を震わせた。
「相楽ァアッ!!!!」
その声が聞こえた瞬間、相楽は全身にじわァっと汗が滲んだ。見覚えのあるバイクだとは思っていたがどうにか人違いであってほしかった。友人の借金返済の連帯保証にされかけた時よりも、バイト先の店長の女に手を出したと疑われてクビにされた時よりも、同じ写真サークルの女子部員に好かれてしまい彼女がメンヘラ化して心中させられそうになったときも。心の中ではさっさと首を吊って死んだ方がマシかなとどこか達観していた。だが今、今この瞬間、最も恐ろしく、最も避けたいと思っていたことが起こってしまった。
まさか。
ゴテゴテにシールが貼られたイカついバイクにも、地を這うような恐ろしい怒鳴り声にも身に覚えがあった。あったなんてもんじゃない。ありすぎて細胞レベルで染み付いている。ついさっきまで相楽をバイクで追いかけ回していた人物が、相楽を轢き殺さんばかりに猛スピードで近付いてきて相楽の目の前でスライドブレーキをかけた。はー死ぬ。尻もちをついた相楽は一周回って冷静になってきた。
「やっと見つけた」
ヘルメットを外し、顎を上げてジトッとした目で相楽を見下ろす彼女は、
なつめは。
なつめは、硬いベージュのロングコートで隠れていたどイカついバイクのタンデムを叩き、親指で後ろに乗れと指示してきた。相楽は口をパクパク動かすだけで、そんな相楽になつめは強烈な舌打ちをかまし、相楽の腕を引っ張りあげて、自分のヘルメットを乱暴にさがらに被せた。抵抗すれば遠慮なく脛を蹴ってくるのでもどうしようもない。痛いのは嫌だし。
いや本当にダメなんだって。相楽がなつめの肩を掴もうとしたら、逆に相楽の腕をなつめが掴み、相楽が後ろから自分を抱きしめるように腹に腕を回させて、その手に手錠をはめた。手錠。え、なに?本当にどういうこと?自分は今朝普通に起きて、昨日ネットで見た美味しいパン屋さんに行って、家に帰って近所の喫茶店で買ったこし餡を乗せて餡トーストを食べる予定だったんだが?相楽はされるがまま後ろに座らせられた。うわ懐かし。
「帰るわよ」
帰るって、どこに。
そう言おうとした瞬間、なつめは歩行者を轢き殺す勢いで思い切りアクセルを回した。さすがはハヤブサ。時速300キロのフラッグシップモデルだ。どれだけ速いか説明すると、世界最速のジェットコースターの最高速度が240キロくらいだとするだろ。だたさえジェットコースターって速いのに、最速のジェットコースターよりもスピードを出せるってこと。今の若者の言葉で言えば超ヤバイってこと。
「ア、ばっ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬッッ!!!」
「死なんて」
なつめはアクセルを何回か煽ってからクラッチを繋げ、フロントを高々と上げたまま走って近くに停まっていた黒のボンネットの上に乗り上げた。前輪でフロントガラスを割ってなつめは笑った。え?なんで?なんの車?なんで車今壊したの?マジで意味が分からん。なつめはヤクザや暴走族よりもよっぽど恐ろしい。そう言えばなつめは絶叫系のアトラクションに乗った時も横で爆笑していた。そうだ。よく知っている。このバイクは車体に貼られた剥げたシールが、高校生時代に相楽がピアスを買った時に店からオマケでもらったものだということも、髪や肌からほのかに香る金木犀のコロンは彼女が昔から愛用しているものだということも、相楽はよく知っていた。




「なんで俺の居場所が分かったの」
「たまたま見つけただけよ」
「うっそだぁ!」
「嘘じゃないわよ!!大学行こうとしたらアンタが呑気に歩いてたんでしょうが!!!」
「お、おう……キレんなよ……。てかさっき壊した車どうするんだよ!やばくないか」
「あぁ、うちの奴のだからいいのよ。ああやってあたしを尾行して監視してるの」
「お前何やらかしたんだよ……保護観察じゃん」
「べつに。ちょっと怪我させただけよ」
「前科持ちじゃん!」
「うっさいわね!!誰のせいだと思ってんのよ!」
「俺のせいではないだろ!?」
三年ぶりの会話だと言うのに、ぎくしゃくすることもなく普通に言い合いをしている自分に相楽は思わず呆れてしまった。あぁ、なんでこんなことに!俺はなんで普通になつめと話してるんだ!はやく逃げ出したい。できれば一刻も早くなつめの前から消えたい。じゃないとなんのためにあそこから出たのか分からない。だが今抵抗したってどうしようもない。相楽は基本楽観的な思考であるため、あ、なつめ髪染めたんだなぁとかぽやぽやと考えていた。黒髪だったなつめはいつの間にかアッシュピンクのプリン頭になっていた。
「なつめは今美大生?」
「………そうよ」
「どこ?やっぱテンショウ藝大?」
「うん」
「すごいんだろ?どんな感じ?」
「べつに。ただの藝大よ。相楽はどこ行ってんの」
「え俺?俺のことはいいよ。それより今どこに向かってんのコレ」
「あたしの家」
「……え"っ」
その瞬間相楽はバイクの上で絶叫した。手錠さえなければ今すぐ飛び降りて足がぐちゃぐちゃになったって逃げているのに、なつめの体に腕を回した状態なので暴れることもできない。
「いやぁぁぁああ!!!!!嫌だ!!降ろして!!!」
「うるさい!!」
「嫌だァァア!!なつめンとこの家族怖いんだよ!!!」
「はぁ?実家じゃないわよ。あたしが一人で住んでる家に帰んの」
「一人暮らししてんの!!??」
「なんか文句あんの!!!???」
「ないよないですけどぉ……。あの俺一人で帰れるんでほんと……駅まで送っていただくことはできませんかね?」
「往生際が悪い。あたしがこのまま易々と返すと思う?こっちは急に置いていかれたのよ。結婚破棄されたようなもんだわ!」
け、結婚破棄……!!そない大層な!俺がそう叫ぶとなつめは一瞬黙って、それから般若のような顔をして振り返った。さっきまでの威勢をどっかで落としてしまった相楽はきゅっと唇を結んだ。
「お前があたしに口答えできる立場か?殺すぞタコ」
殺される!逆らったら確実に殺される。分かる。なぜか自分は相楽と付き合っていると思い込んだメンヘラ女子部員だって、ファッションで一緒に死んでくれやと言っていただけで本気で相楽を殺すつもり無かった。だがなつめは殺る。本当に殺る。なつめは昔から怒りが爆発すると本当に手が付けられないタイプだった。作品を台無しにした不良男子を木材でぶん殴って校舎から突き落とそうとしたり、クラスメイトに階段で足を引っ掛けられたときはその子に思い切り平手打ちをぶちがしまり、他校の生徒に作品を盗作されたときは縄でバイクとその生徒の足を結びつけて引きずり回したこともある。本当に容赦がなかった。さっきだって爆笑しながら車を大破させただろ。これで前科無しというのが本当に信じられない。絶対に裏で何かしらの力が働いてるとしか思えぬ。
彼女のことを色々よく知ってるなって?おう、よく知ってるよ。そりゃそうさ。彼女が動物が大の苦手ってことも小説は結末から先に読むことも、なんなら彼女の右太ももの付け根にホクロがあることだって知ってるぜ。
俺たちは本当に仲が良かったんだ。
バイクに乗って潮風に当たって、お互いがいる未来を語れるくらいに愛し合っていた時があったのだ。
「ねぇ」
「はい、なんでしょ」
「なんであたしと別れたの」
相楽は口を半開きにしたまま何も言えなかった。「ごめん、」と、なんとか絞り出した声は情けない。なんで今その話を出すんだよ。もう三年前の話だろ。もう終わったことだ。
「あたしのクソ親父のせい?」
「違うよ」
「じゃあ何よ!あたし知ってるのよ。別れる前にうちの家来たんでしょ?あの時何話したの!」
なつめの顔が見えなくてよかった、と心底思う。きっと彼女は今大きな目を潤わせて鼻を赤くしている。
そしたら俺は、俺は。
そんなのダメだ。
「ごめん」



*



相楽となつめが通っていた中学の美術教師はかなり有名な人で、名前で検索すると一番上にウキペディアが出てくるレベルだ。そういうのは当時の相楽たちを含めるガキからすれば、画像欄を見て「なにこのポーズ笑」とかただの笑いのネタでしかなかったが、その教師はテレビに出演し、様々な場所で講演を行っていた。美術教師はなつめの親戚だった。なつめの両親も、祖父母も、叔父も、叔父の妻も、その叔父の息子も、エトセトラ……。皆、美術や芸術、舞踊、音楽、演劇など、その界隈では有名な人たちばかりだ。
なつめは昔から一際目立つ存在だった。彼女が名家の娘だということは皆知っていたし、彼女が描く絵がほかの子供とは比べ物にならないということも知っていた。けれども相楽たちはやっぱりただの子供で、先生がシックスと言ったらニヤニヤしてしまうような精神的にも幼いクソガキ。美術の良さなんて欠片も分かりゃしない。そんな馬鹿な相楽たちでもなつめとは一線を引いていたのは、なつめの絵のレベルの高さというより彼女の強烈な性格が原因だった。
「あ、あーーー!!そこの人!!ちょっとこの人止めてください!!!」
「……」
「聞こえてんでしょ!!」
「え?あ、俺?」
「自分以外の誰かがやってくれるって思うの日本人の悪いとこですよ!あーー!!なつめさん!落ち着いてくださいよマジで!!」
中学三年生のある日、相楽はやけに流暢な日本語を喋る綺麗な男に話しかけられた。彼の名前はダニエル。俺となつめの一つ年下で、父親はアメリカ人で母親は日本人。日本生まれ日本育ちの全く英語が喋れない彫刻のように美しい男である。ダニエルに頼まれてなつめの暴走を止めたのが、彼女との始まりだった。
「なによ、大袈裟ね。ちょっと分からせてやろうと思っただけでしょ」
「やり方がヤクザそのものなんですよ」
なつめは腕を組んで鼻を鳴らした。ぷんすこという効果音がピッタリだ。相楽たちの足元に転がっている男子生徒は全裸で、手足にガムテープがぐるぐると巻かれている。なぜか全身真っ黒の液体が塗られていて、しかも頭から血を流して白目を剥いていた。え、なに?犯罪?殺人?俺共犯者にされた?困る。相楽は一人おろおろしていたが、年下のダニエルはプラチナブロンドの髪を風に揺らしてなんでもないような顔をしていた。この瀕死の男子生徒は確か2組のヤマグチだ。腰パンの度が過ぎて半ケツ野郎だとかいちごパンツだとか、裏で笑われていることも知らぬ哀れなヤンキー。彼はサッカー部で、去年スパイクでチームメイトの顔を蹴り倒して流血沙汰の大問題を起こしたとかなんとか。その辺りは知らん。相楽は帰宅部であったし、いじめとか暴力沙汰とか万引きとかが日常茶飯事な地域で生まれた相楽にとっては、その程度のことはなんとも思わなかった。
「コイツあたしの絵を勝手に触ったのよ!まだ乾いてなかったのに!!おかげでぐちゃぐちゃよ!」
「触るなって紙貼らなかったんですか?」
「貼ったに決まってるでしょ。この学校馬鹿しかいないんだから張り紙しておかないと分からないのよ。でもまさか文字も読めない馬鹿がいたとは思わなかったわ。この学校終わりね。お前もう死んでいいわよ」
そう言ってなつめはヤマグチの腹を蹴った。人の作品は勝手に触ってはいけないだとか、人を差別してはいけないだとか。そんなん言わんでも分かるだろってことが分からない人間がこの世にはいる。相楽たちの中学校は確かに他校と比べれば血気盛んではあった。相楽はしてはいけないことを“してはいけない”のだと知らない子供が多く存在することを、ずっと前から知っている。マァ注意書きを読むような人間ばかりならコンビニの店員も薬局の店員も苦労しないだろうな。人類はやっぱり道徳の授業で某100円ショップの「そこになければ無いですね」精神を持つことを教えるべきだったんだ。
ヤマグチが台無しにした作品がなつめのものではなかったらこうはならなかったのだろう。きっとヤマグチは一匹狼的な存在のなつめをからかいたかっただけだ。中学生ってそんなもんだろ。本人がいるところでは何もでこないくせに、裏ではその人のモノマネをしたり勝手に私物を見て馬鹿にするのだ。だが相手が悪かった。なつめは確かに友達もいないし基本的に静かで、言い方を変えれば絵にのめり込んでる変なやつだ。絵を描いてるイコール大人しいみたいな、イオンとスタバとカラオケしか知らんような小さな世界で生きている中学生特有の偏見がある。
先程も述べた通り、彼女が皆から一線を引かれているのはこの強烈な性格のせいである。
「この人どうすんの?」
「は?アンタ誰」
「えぇ……?同じクラスなんですけど」
「すみませんこの人友達がいなくて……。なつめさん止めるの手伝ってくれた人です。この男はそりゃ帰しますよ」
「てか拘束して何しようとしてたの?頭から血出てるけど……」
「あぁ、ちょっと木材で二、三発殴っただけよ。目立ちたかったみたいだから協力してあげようと思っただけ。全裸で校舎からバンジージャンプなんて明日から皆の噂の的ね。人の役に立つってとっても気分がいいわ」
「大丈夫かこの人」
「そうなんですよね。前科がないのが不思議なくらい」
「ダニー、あの絵はもう捨てるわ」
「え!?なつめさんが泡と皺が描きたいって言うからわざわざ寒い時期にプール入ったのに!服着たままプール入ってこっちは命懸けだったんですよ!!」
「文句あるならこのタコに言え」
「おうタコこら」
あ、いい音した。ヤンキー座りをしてヤマグチの頬を平手打ちしてもダニエルは美しかった。ダニエルと言う少年はなつめが見つけたダイヤモンドである。原石ではなく、予め磨かれていてダイヤモンドとしての価値がある状態で産まれた。なつめは小学生の頃からダニエルにモデルをしてもらっていて、それは高校生になっても続いた。
なつめの殺人を未遂に済ませることができて以来、相楽となつめはただのクラスメイト以下から、顔を合わせたら喋る程度のクラスメイトの関係になった。それから相楽がなつめに惹かれていくのはそう時間はかからなかったはずだ。


「相楽。モデルやって」
「え、俺?ダニエルは?」
「あの子受験生でしょ。うちの学校来るって言ってるからそれまでは勉強させないとダメ」
「おかんじゃん。いいよー。モデルってなにすんの?」
「べつに何もしなくていいわよ。写真とか動画撮るから」
「脱ごうか?」
「汚い」
「し、失礼なっ!!」
「そこら辺で麦茶飲んでスイカ齧ってたらいいわ。麦わら帽子被って虫かご持ってなさい」
「俺のこと田舎のわんぱく坊主と勘違いしてない?」
相楽たちは中学三年生の冬頃にはすっかり友達になっていて、同じ高校に進学した。相楽はてっきりなつめは美術高校に進学するものだと思っていたが、なつめ曰く「そんなの家でできる」とのことらしい。なつめの親は美術系の進路にさせたかったのではないのかと聞けば、なつめはケッと顔を顰めるだけだった。
なつめは相変わらず一人で、相楽は友達がたくさんできた。だが相楽はなつめと一緒に過ごすことが多かった。相変わらず帰宅部だったから一緒に登下校していたし、弁当は一緒に食べる。なつめは自分の家に相楽を招待することはなかった。相楽も自分の家になつめを呼ぶことはできなかった。高校生になったらまずお金を貯めるためにバイトをすると決めていた相楽は、スーパーと居酒屋を掛け持ちしながら働く日々が続き、何もない日はなつめの作業場であるコンテナハウスでダラダラしていた。たまにダニエルが息抜きがてらに遊びに来ることもあった。
高校一年生の夏の日も、二人はコンテナハウスでのんびり過ごしていた。蚊取り線香の匂いが好きで、風鈴の音を聞きながら風流ですなぁ、なんて。あの日も暑かった。外は36度で、人を殺すような夏だった。コンテナハウスのクーラーが壊れてしまっていて、二人で扇風機の取り合いをする。暴れたらまた汗をかいて、相楽は床に寝転がった。
「なぁ、なつめ」
「なによ」
「俺たちさ、付き合ってるって噂流れてるんだよ。知ってた?」
「知ってる。くだらない」
「くだらないとか言うなよ」
扇風機の前で胡座をかいていたなつめがこちらを振り返る。そして相楽の顔の横に手をついて、億劫そうに目を細めて相楽を見下ろした。暑いなら髪結べばいいのに。ぼーっとそんなことを考えていると、相楽の視界はなつめでいっぱいになった。離れた温もりは、ピリッと唇に残った。
「…………」
「…………ひと夏の過ち?」
「まさか。皆うるさいから、黙らせたいだけよ」
そう言ってなつめは左の口角を上げる。それと同時に相楽は彼女の薄い肩を床に押し付けた。

本当はあの時、そうすべきじゃなかった。
俺は身を引かなければいけなかった。なつめが悪いんじゃない。俺が悪かった。俺が自分の立場を弁えてなかったのが悪かった。
全部俺が悪かったんだ。


*


「あのさ、やっぱり帰してくんない?なつめも今から大学だったんだろ?俺も急ぎの用事があるしさぁ」
「そうやってまた逃げる気でしょ」
「う、」
いかにも高級です、みたいな立派な白いマンションの前に連れてこられた相楽はまだ渋っていた。なつめの父親のことだ。きっとなつめが一人暮らしをすることに大反対していたと思うが、なつめの頑固な性格に根負けしてセキュリティが強化されているマンションを与えたのだろう。なにごとも妥協って大事だ。
なつめは高校生の間に国際美術展やらコンクールやらに作品を出展して、そこで大賞を取って注目を集めどんどん名を広めていた。相楽と別れたあと美大に進学して、有名な教授の門下生になってほとんどプロのように活躍しているのは知っている。ギャラリーに足を運ぶことはなかったけれど、大学の掲示板に展覧会の広告が貼ってあった。相変わらず恐ろしいほど美しいダニエルを人間らしく描くのが上手だと思った。成功、しているのだろう。そりゃそうだ。なつめは新進気鋭の若き画家なのだから。そうなるべくして生まれたようなもんだ。
「……あたし、稼いでるわよ」
「え?うん。そうらしいな」
「このマンション自分で買ったのよ」
「えっ!!??そうなの!?」
「去年買ったばっかだけど。20歳になるまで家から出してもらえなかったし」
「あぁ……あの親父さんならそうだろうな。それにしてもすげぇ。窓から夜景見える感じ?ドラマみたい」
「アンタ一人くらいなら余裕で養えるのよ。一生家から出なくてもいいのよ?」
「怖いこと言うなよ……」
監禁とかやめてね。マジで。うわ目がマジだ。マジで俺を連れ帰るつもりなんだ。
マンションの入口には警備員が立っていた。手錠ははめられたままだし、なんだか妙に気まずくて会釈も出来ずに中に入った。インターホンにカードキーをかざすとエントランスのドアが開く。はぇー、高級なとこは鍵じゃなくてカードなんだなぁ。相楽のアパートなんて事故物件なうえに扉に直射日光が当たると部品が歪んで開かない。排水溝に溜まった傷んだ髪は捨てればいいし、消しても消しても現れる顔の形をした染みは気にしなければいい。たまに窓の外を見ると誰かが飛び降りる瞬間を目撃するが、それも五回を超えると慣れた。だがそもそも家に入れないなんて大問題じゃないか。
なつめの部屋に着くまで相楽たちは一言も喋らなかった。なつめ、見ないうちに結構変わったな。黒髪はアッシュピンクになっているし、ピアスは1、2……え?10個も開いてるんですけど。なに?怖い。も、もしかしてタトゥーとか入ってんの?
「な、なつめちゃん。ピアス開けすぎじゃあないでしょうか……?」
「は?なに?」
「なんでもねぇっす」
なつめは相楽をギロリと睨み、玄関の扉を乱暴に開けた。ガチャン、ガチャン。二つの鍵を閉められた上にチェーンも掛けられた。相楽が帰りたいと言うとなつめはまた強烈な舌打ちをするのでもう何も言えなかった。
「え!?何コレ!この目玉みたいなやつなに?」
「ナザールボンジュウ」
「知らねぇー!」
「トルコの魔除のお守り」
「トルコ行ったの?いいなー。そう言えばなつめトルコ食器とか好きだったよなぁ」
「いや、ダニーがトルコ雑貨で買ってきた」
「んふ。あ、笑っちゃった」
なつめの後ろに続いてリビングに入る。テレビ、ソファ、テーブル、ウォーターサーバー、キッチン。うん。生活に必要なものはある。が、それだけだった。観葉植物とか物を置くために敷く布だとか、そういうちょっとしたアイテムが一切ない。生活に必要なもの以外は何も置いていなかった。あまりにも殺風景だ。なつめはミニマリストだっただろうか?だが玄関にはナザールボンジュウが飾ってあったし、相楽の記憶ではなつめは物を集めるのが好きだったはずだ。
「あんまり物ないんだなー」
「必要ないし」
ふぅん。マァ、画材とか結構金かかるだろうし、無駄遣いはできないのかな。なつめは相楽をソファに座らせて、テキパキと足に湿布を貼って包帯を巻いた。相変わらず手際がよろしいもんで。
「お腹空いた。昨日の残りもんしかないけどそれでいいでしょ」
「え?なつめが作ったの?」
「ダニー」
「相変わらず世話焼いてもらってんのね……」
「パンは朝食べるわ」
「食べよ食べよ。それちょー高かったからな。てかこの家こし餡ある?」
「ないわよ」
なつめはインスタントやコンビニ食に対して強い嫌悪感を持っている。だが料理の腕前は破滅的で、ダニエルに「食材が可哀想なのでもう台所には立たないで!」と言われる始末。高校の時は調理室で電子レンジを爆発させたこともあった。なつめが冷蔵庫からタッパーを一つ取り出して電子レンジで料理を温めているとき、相楽はまだ手錠をはめられたままだということを思い出した。
「あのぅ、手錠外していただいてよろしいでしょうか?」
「……」
「いや逃げないって。マジで」
「……あっそ」
「ありがとね。てかなんで手錠持ってんのよ」
「この間ダニーに使った」
「ダニーまだ未成年でしょ!?ちょっとハードすぎないか」
あ、なんか“未成年”とかいう単語使うと歳とったんだなって思う。俺たちまだ20歳だけど。歳とったんだなってまるで人生三周目みたいな顔をするのは好きじゃないから、口に出しては言わない。
「ねぇ」
「はい」
「アンタは何も悪くないわ」
相楽はその言葉に返事はせず、手錠が外された手首をさすって金属が触れていた違和感を拭った。灰色のソファに座ったてなつめがせっせと昼食の準備をしているのを眺める。相変わらず可愛い顔をしているがなんだか少し疲れてる様子。目がギラついている。相楽は制作に苦労してんのかな、とか。楽観的な思考をしていた。なつめは丼に米を盛り付けて、温めた肉そぼろと炒り卵と、刻みネギを少量乗せた。料理さえまともならば、あとはなつめの優れた美的センスであっという間に美味しそうな一品ができるのだ。なつめが「ん、」と顎で指すので、相楽はテーブルの間に座ってスプーンを握った。
「わぁ、久しぶりのまともな飯だ」
「今まで何食べてたの」
「カップ麺とか」
「最悪ね」
「大学生の一人暮らしってそんなもんだろ。バイトもクビになっちゃったし」
「ふーん」
なつめは興味あるのかないのか分からない返事をした。自分の丼を持って相楽の前に座り、七味唐辛子の袋を手に取った。スプーンで掬って一杯、二杯、三、四……。は?
「待て待て待て!!どんだけ掛ける気だよ!」
「なに?」
「ちょ、手止めろ!真っ赤じゃん!!え!?普通は一杯だよ!!一杯もいらんわ!!手止めろって!この、スプーン置きなさいよ!」
「うるさい!これくらいしないと物足りないのよ!」
「死ぬって!!」
なつめは見てろと言わんばかりに、ちゃんと「いただきます」と手を合わせてからそぼろ丼を一口食べた。わわ、お口ちっちゃい……顔怖いのに食べ方めちゃくちゃ上品……。なのにジャリジャリと胡麻や山椒がすり潰される音が聞こえる。そしてお上品に飲み込んだなつめは「ほら、なんともないでしょ」って顔をした。いやなんともない方がおかしいんだって。なつめがいいなそれでいいけど……。昔はカレーの中辛でもひんひん言ってたのに。大人になると味覚も変わっていくもんなんだなぁ。
ダニエルの作ったおかずは正直めちゃくちゃ美味しかった。勉強もできて運動もできて料理もできて、あの美丈夫。腹が膨れると次に来るのは眠気だ。相楽はここ最近ろくに眠れていなかったし、とにかく疲れていた。ここを出るのは起きてからでもいいかな。あ、でも食べさせてもらったし。ちょっとはお礼しないと。
「なつめ、なんか飲む?俺作るよ」
「何もないわよこの家」
「牛乳と……あ、シロップあるじゃん。ホットミルク作ってあげる」
「……いらない」
「いいからいいから」
「いらないってば!!」
「……あ、そ、そう…………」
なつめは小さく唸ってから、落ち着くために冷蔵庫から水を取りだした。ペットボトルのキャップを開けるとプシュッと炭酸が抜ける音がする。ごく、ごく。と音を鳴らしてペットボトルをテーブルに乱暴に置いた。
「……いいから風呂入って。ダニーの服があるわ。それ置いとくから」
「あ、あぁ……。てか、ダニエルはよくここに来んの?」
「そうよ。なに?嫉妬してくれるの?」
「え?いや、ダニエルから前から聞いてたから知ってるよ」
「………は……?」
「あっ」
なつめは信じられないものを見たような顔をして、みるみる怒りを滲ませた。やばい。失言した。気が抜けてた。なつめは持っていたコップを床に叩きつけて相楽の胸ぐらを掴む。勢いよく割れたガラスの破片を踏んでいるというのに、なつめはそれにも気付かないで激怒していた。
「信じらんない!なに!?あたしとは三年間音信不通だったくせにダニーとは連絡とってたわけ!?」
「わ、わっ」
「マジでありえないんだけど!!アンタあたしと別れるときどうしたか覚えてる!?メールよメール!!あのあと受験シーズンで登校日が少なくなったから学校で話そうにも会えないし!電話したのに出ないし!家に行ってもいないって言われるし!そんで高校卒業してもう一回行ったら出ていったって言われるし!!進学先聞いても先生は教えてくれないしアンタのクラスメイトは誰も知らなかったのよ!?なんで知らないのよ!!」
「だ、誰にも教えなかったから……」
「そこまで徹底的にあたしを避けてたのね!」
「ご……ごめん…………」
「それだけでもマジでムカつくのに!!あのゲイ野郎。今度会ったらビニールに巻いてコンクリート縛り付けて海に突き落としてやる」
「ダダダダニエルは悪くないんだって!俺が口止めしてたんだよ!!俺だってダニエルとも会うつもりはなかったんだよ!でもたまたまカフェで会って……それから……」
「まさか……ッ!アンタたちちょくちょく会ってたのね!?それいつの話よ!!」
「えーと、一回生の冬くらい?」
「ずっと前じゃない!じゃあアイツ二年近くあたしのこと騙してたのね!!知ってるのに何も言わなかったんだわ!!」
「な、なつめちゃん。一回落ち着いて」
「皆してどうしてあたしの邪魔をするの!?どうしてっ!どうしてなのよぅ……!」
なつめはゴミ箱を蹴って髪を掻きむしった。尋常じゃない怒り方をしている。いや、怒っていると言うよりはパニックになっている。相楽はこれまでになつめがキレるところは何度も見てきたが、こんなキレ方をしているところは初めて見た。あまりにも暴れるので両腕を掴んで落ち着かせようとしたとき、なつめの手が相楽の頬骨に強く当たった。なつめは一瞬ハッとして止まって相楽を見たが、相楽は申し訳なさそうに眉を下げているだけだった。それを見てなつめはぺたりと座り込んで、わんわんと泣き出した。
あのプライドが高いなつめが、声を上げて子供のように泣きじゃくっている。相楽はどうすればいいのか分からなかった。こういう時なつめの扱いが上手いダニエルを呼ぼうと思ったが、生憎現代っ子なもんでダニエルの電話番号は覚えていない。スマホはうっかりあの事故物件アパートに置いてきてしまっている。どうしようもなくてなつめを抱きしめた。そしたらなつめはさらに泣き出すから、結局相楽はかける言葉も見つけられず、彼女が泣き疲れて寝てしまうまで背中を撫でていた。


*


エナメルのショートブーツ。黒いスキニーに黒いタートルネック。その上に赤いカーディガンを羽織っているダニエルは、頬杖をついてぼーっと窓の外を眺めていた。彼の前にはハッピーセットのおもちゃ。我らがワクドナルドのハッピーセットのおもちゃはアニメのキャラクターとコラボした商品ではなく、独自で活発された意味不明なおもちゃが売りである。今回のテーマは海の生き物らしく、ダニエルはどこからどう見てもちんこにしか見えないヒトデのぬいぐるみを握っていた。すごいな。イケメンはちんこ握っててもイケメンなんだ。
「なにそのちんこみたいなヒトデ」
「な、ちん……?カワテブクロですよ!」
「はい?革手袋?」
「そーです。カワテブクロっていうヒトデの仲間です。下品なこと言わないでください」
「いやどう見てもちんこじゃん!他の店舗それだけ売り切れてたぞ!絶対人気あるじゃん。商品説明欄に“あえてノーコメント”って書いてあったもん。絶対分かってるじゃん」
「はぁ……先輩、いつまでそんな下ネタで盛り上がってるんですか?野球のグローブに似てるからカワテブクロって言うんですよ」
「どこがだよ!それ大人の妥協だろ!俺なら見つけた瞬間ちんこって名付けるね!」
「なんなんですかさっきからちんこちんこうるさいな!ここお店ですよ!?20歳過ぎてちんこばっか連呼しないでくださいよ!!こっちは呼ばれて来たんですからはやく要件言ってください!」
アそうだった。ここは先輩として最低限ファミレスにしてやりたかったところだが、生憎相楽は今全く金がない。申し訳ないと思っていたが、顔に似合わずしっかり庶民なダニエルは特に気にしていない様子だった。いつの間にか19歳になっていたダニエルは若干幼さを残しながらも、クレオパトラも指を食んで恍惚な表情をするだろうと思えるほど綺麗だった。さすが顔面黄金比。ダニエルそのものが世界遺産だ。
なつめはあの後四時間くらい寝て夕方に起きた。目は腫れていて痛々しく、相楽は真っ直ぐ彼女を見ることが出来なかった。次の日の昼頃、ダニエルからなつめのスマホに電話がかかってきたのだ。なつめはまたダニエルに向かって怒鳴り散らしたが、すぐに落ち着いたのでそこら辺はダニエルが上手く収めたのだろう。相楽はその日のうちにダニエルに連絡をして近々会う約束を取り付けた。それが今日である。
ちなみになつめには言ってない。いや言おうと思ったよ?でも忘れちゃった。それから高級食パンはマジで美味かった。やっぱバターとシロップに限るよな。
「今先輩なつめさんの家にいるんでしょ?」
「うん」
「そのまま同棲始めたらいいのに」
「ダメに決まってるだろ!なんのために俺がなつめから離れたのか分かんないじゃん」
「なんのために離れたんですか?」
「それは……お前知ってるだろ。意地悪だな」
「えぇ知ってますとも。随分自分勝手だなって思いますけどね」
「やめろよ……」
昔から口が立つ後輩だとは思っていたが、歳をとるにつれどんどん生意気になっていく。ダニエルは一口コーラを飲んで、ポツリとこぼした。
「……なつめさん、先輩と別れてから本当に酷かったんですよ。卒業したあとなんて死んでるみたいでした」
ダニエルには苦笑いをした。ちん……カワテブクロに目がいって全然集中できないのでカバンに仕舞わせる。相楽はなつめと別れてから徹底的に彼女を避けた。メールも電話も無視して、無茶だってくらいバイトを詰め込んで。なつめは文系で相楽は理系だったため、三年生のときは別のクラスだったのもあって、冬休み明けにはほとんど顔を合わせることはなかった。休み時間はすぐに教室を出て隠れたり、見つかって追いかけられた時も必死で逃げた。そのうちなつめは執拗に追いかけてこなくなった。
なつめは今日、今度開かれる個展の下見をしてくると言って相楽に鍵を渡して出かけた。「そのまま出ていこうなんて無駄なこと考えるんじゃないわよ」と脅し文句付きだ。ちなみに相楽は鍵に付けられているキーホルダーにGPSが仕込まれていることを知らない。
「あの人、大学に入学して早々休学したんですよ。眠れないしご飯も食べれない。電話にも出なけりゃメッセージも見ない。ていうか先輩、なつめさんとは会わないくせに俺とは会うの何なんですか?」
「お前が俺を脅したんだろ!俺はお前とも会うつもりはなかったんだよ」
「ひっどいなぁ。俺みたいなのが一人いた方が心強くありません?」
「……マァ………」
「そうでしょ?で、なつめさんの話に戻りますけど。あの人何にも食べてくれないから、ご飯誘ってもいらないとか味がしないとか言って」
だから炭酸とか激辛とかばっかり。ダニエルは困ったように眉を下げた。炭酸、激辛……。ホットミルクを作ろうとした時のあの拒絶のしよう。相楽は色々理解して、理解した上で、よくないなと思った。なつめのあの状態はよろしくない。目がギラついてたのもたぶん睡眠不足のせいだ。
「てか先輩、バイトあるんじゃないんですか?」
「え?あぁ、クビになった。だからはやく探さなきゃなーって感じ」
「相変わらず楽観的だなぁ。家には帰らないんでしょ?」
「なんでそうなるんだよ。帰るに決まってるだろ」
「なんで?なつめさんとヨリ戻せばいいじゃないですか。先輩ん家事故物件だし、そのままなつめさんの家に一緒に住めばいいでしょ。家賃も払わなくてよくなりますよ」
「何言ってんだよ」
相楽はへらっと笑った。
「俺たちはもうなんでもないよ。俺ははやくバイト見つけて、またお金貯めなきゃ。迷惑だろうからなつめが落ち着いたらすぐ出ていく」
そう言ったらダニエルは怒ったような、泣きそうな顔をして相楽を睨んだ。まだそんなこと言ってるんですか。なんで迷惑とか言うんですかって。
俺だってそんなこと言いたくないよ。自分で自分の存在は迷惑だなんて、そんな惨めなこと言いたくないに決まってる。でもソレが事実なんだ。なつめの親父さんが言った通りだった。なつめは俺と別れて成功したのだ。プロの世界で生きていける優れた人間なんだ。それを俺なんかが潰す訳にはいかないだろ。ダニエル、そうだろ。この先も彼女の輝かしい人生に泥を塗ることなんて許されていいはずがないんだよ。
なつめだって、久しぶりに俺に会って感情が一時的に昂ってるだけだ。落ち着いたら、お互い自分の生活に戻らなければならない。相楽は当然のようにそう思った。
「さいてーです」
「うん」
「俺、先輩のこと好きなんで先輩の意思も尊重したいですけど、納得はしてません」
「うん」
「先輩、もうちょっとなつめさんのこと信じてあげてくださいよ」
あ、なんかそれ、昔も言われたなぁ。
いつもなら真剣に聞いてやれるようなことも右から左へと流れていき、適当に相槌を打つだけになってしまう。相楽自身あまりにも目まぐるしく日常が過ぎていき、休めていなかったせいで頭が上手く回らなかっただけかもしれない。途中で「先輩は何も悪くないですよ」とダニエルの気遣う言葉が聞こえたが、相楽は返事をしなかった。
あ、コレなつめさんに渡しといてください。そう言われてタッパーが入った紙袋を渡された。やった。今日の夜ご飯はミートスパゲティだ。


*


なつめに渡された合鍵で家に入ると、バタバタと足音を立ててなつめが玄関まで走ってきた。ぱちぱちと瞬きする大きな目はまたギラギラと強ばっていた。目の端が赤くて、相楽は、あぁまた泣いてたんだなとすぐに分かった。
「どしたのなつめちゃん」
「誰と会ってたの」
「ダニエルと会ってた」
「……次出かける時はどこで誰と会うのかあたしに言って」
「なんでだよ……」
「言って!!」
「分かったよ分かったからぁ。言おうと思ってたんだよ?」
「………」
「いやマジで。中々タイミングが見つからなくて忘れてたんだって。ごめんてなつめ。ほらお土産。最近話題の噛んだらダメなチョコ?買ってきたから。マァ買ったのはダニエルなんだけどね」
「…………」
「食べるだろ」
「……たべる」
カナダ?フランス?どっか知らないけど、どこかのトリュフが日本に上陸したとかなんとか。ダニエルは4500円くらいするものを買ってくれた。貰えるものは貰っておくスタンスである。
不服そうに顔を顰めたままなつめはトリュフを食べた。相楽も食べる。このトリュフと他の店のトリュフの違いが全く分からないが、美味しいということは分かる。今まで自分で高いチョコを買うことなんてなかったが、なつめとダニエルが毎年バレンタインに有名なブランドのチョコレートやデパ地下の高めのチョコをくれるので、相楽は食べ慣れていないというわけではなかった。でもチョコはシンプルなのに限るよな。中に生チョコとか、高いやつほど苦かったり食べにくかったりする。でもなつめが選ぶチョコはいつも食べやすかったなぁ、とか思いながら相楽なつめを見たとき。
なんと。なつめが泣いているではないか。彼女は「甘い」と言って、ポロポロと涙をこぼしながら頬を動かしている。この家で生活するようになって泣き顔は何度も見たが、どれもヒステリックで……そもそもこんなに静かに泣いているのはなつめと出会って初めて見た。いや、異常だと思えよ俺。なに関心してるんだ。あれだけ気丈ななつめが俺と会ってから何回泣いた?
「なつめ……」
「一緒に寝て」
「え?」
「今日一緒に寝て」
「え、いや、」
なつめは相楽の背中に腕を回して抱きついてきた。下からずび、と鼻をすする音が聞こえる。相楽は少しだけ考えて、それから彼女の後頭部と背中に添える程度に手を回した。
彼女は記憶の中のなつめよりもずっと小さくて、細い。



*



相楽が生まれ育った地域は、親が子供に万引きをさせるような家ばかりで、誰かの姉はAVに出てるだとか誰かの父親は人を殺しただとか。つまり教養とかいう言葉を知らない場所であった。万引きも暴力も当たり前すぎて誰もそれが悪いことだと誰も分からない。負の連鎖という言葉があるが、自分の子を虐待する親は自分も親に虐待されてきたし、親が人殺しなら罪はなくとも子も人殺しの子だと罵倒される。相楽は比較的恵まれていたほうだった、らしい。父親がそれなりに常識的な人で、同級生からは「お前の親まともでいいなぁ」と羨ましがられたことがある。それはそれで異常であるが、相楽はうちはまともなんだなぁと軽く考えていた。
だが相楽が完全なまともになれず、中途半端なまま止まっていた理由は問題は母親にあった。母親と二人で外食に行けば母親は当たり前のように無銭飲食をする。まず相楽から席を立たせて、そのあと自分も店を出る。それから店員にお金払ってないですよとか指摘されたら「お前人を犯罪者扱いするつもり!?」とありえないくらい怒鳴り散らかす。そうすれば責任者が出てきて、向こうも面倒は避けたいからタダにしてくれるのだ。相楽の父親は母親に何度もやめるように説得したが、父親が死んでも治ることはなかった。
つまり相楽は自分の母親は犯罪者なんだとよく理解していた。相楽は昼ご飯は母親がコンビニで万引きしてきたパンを食べていたし、母親は公務執行妨害で何度も逮捕されている。そんなのありえないとか、止めるべきとか思うのは常人の思考であり、そもそもそういうことが言える人間は恵まれた環境に生まれたのだ。ダメなものはダメだと、そんな当たり前のことをちゃんと教えてくれる環境にいたのだろう。DQNだってそう。彼らもやさぐれてああなっている分まだまだ人間味が感じられる。だが相楽が生まれた地域の人間はもうそんなレベルではなかった。会話をして説得できるなら相楽の母親はとっくにまともな人間になっている。分からないのだを何が悪いのか分かっていない。だから相楽は自分の家になつめを呼んだことがなかった。呼べなかった。絶対に母親と会わせたくなかったのだ。軽蔑されたくなかった。
高校三年生の秋。ダニエルに要件も言われず呼び出された相楽は、ダニエルの引きつった顔を見てすぐに悟った。これから連れていかれる場所も。そこで何を言われるのかも。日本庭園がある大きな屋敷に招かれ、言われるがままダニエルの後ろについて長い廊下を歩いた。一つの襖の前で立ち止まると、「先輩、なつめさんを信じてください。大丈夫ですから」とすでに半泣きになっているダニエルとは反対に、相楽は自分でも驚くほど冷静だった。
和室の中にはなつめの父親がいた。彼がダニエルを使って相楽を呼び出したのだろう。そこでなつめの父親に言われたことは簡潔で簡単で、つまり別れて欲しいとのことだった。理由は相楽の母親がなつめの家まで押しかけて金をせびってくるから。なつめの親戚の中には政治家もいるため、そういう人間が身内にいるとこれからの活動に支障が起こるらしい。ごもっともだ。
別れないのならばなつめに大学は行かせられない。君も自分のせいでなつめの人生を潰したくはないだろう。いやいや親父さん。そんな脅ししなくたって大丈夫ですよ。横で抗議するダニエルを黙らせて、相楽は「わかりました」とだけ伝えた。話が終わって帰る途中、ダニエルは半泣きになりながらまだ訴えかけていた。
「別れなきゃ大学には行かせないっていつの時代だよ……!てかなんで先輩が別れなきゃいけないんですか!母親のことは母親の責任でしょ!?先輩となんの関係があるんですか!」
「あの人俺がなつめと付き合ってるの知ってるからなぁ」
「だから母親をどうにかすればいいでしょ!」
「えぇ?いや無理だって。説得するだけ無駄だから」
「ねぇ、なつめさんに言いましょ?なつめさんならどうにかしてくれますって。ねぇ」
「いいや、別れる。なつめには絶対に迷惑をかけられないんだよ。お前にも」
「だから、あぁ、クソっ!なんでそうなるんだよ……!!」
ダニエルは泣きながら怒った。本当に優しいやつだと相楽はじんわり思う。別れることに対して潔すぎるだろうか。しかし相楽にとっては中学生の頃から決めてたことだ。とっくに心の準備は出来ていて、その時が来たから実行したまでである。相楽は友達や恋人に自分の母親が迷惑をかけたら、もうその人たちとは二度と関わらないと誓っていた。母親をどうにかすればいいだろって?はは。そうかもな。できたらよかったな。
差別したいわけじゃないが、なつめは他の人とは違う。コレはダニエルフィルターと一緒で、相楽もなつめを第一に特別扱いしていた。彼女はスポットライトに当たりながら生きるんだ。ソレを誰かに邪魔されるなんて絶対にあってはいけない。家の堅苦しさは嫌いだけど、芸術や音楽、演劇に対する熱意や技術は尊敬しているとなつめはキラキラした目で言っていた。どこの大学に行きたいのかは聞いていなかったが、相楽は昔、なつめに目指してる大学に行きたい理由だけ教えて貰ったことがある。昔から憧れてる美術家が教授をしているからその大学に行きたいんだと。その人の下で学びたいんだと。じゃあ相楽にはなつめと別れるという選択肢しかなかった。彼女の輝かしい人生を自分がぐちゃぐちゃにしてしまうのだけは避けたかった。
相楽は泣くダニエルを無慈悲に突き放して家に帰った。相楽のバイトの給料を酒に溶かした母親がテレビを見て笑っている。テレビには知らない漫才師が映っていた。M1で優勝したコンビだとか。決勝戦まで見ないことが多いから、結局優勝したコンビの漫才がどんなものなのか知らないままだ。相楽は母の白髪混じりの傷んだ髪の毛を掴み、引きずり倒した。
「ぎゃっ!!」
母はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。相楽もしゃがみこんで、髪を掴んで力任せにガシガシと揺らす。
「俺、彼女と別れるんだ。だからもう向こうの家行っても他人だからお金借りられないからな。元々門前払い食らってたと思うけど」
「ぎゃっ!な、なにっ!!やめて!!」
「アンタのせいで別れるって言ってんだよ」
初めて息子に反抗されたうえに、手をあげられたことに驚いた母は目を見開いて、怯えた目で相楽を見つめた。とても気分が良くなった。
「あーあ、全部台無しだよ。マジで」
「イィイイ痛い!!痛いッッ!!!」
「黙れ。お前が俺にしてきたことだろ」
相楽が低い声でそういうと、母親は黙った。
「死ねよ。おい死ね。自殺しろよ」
「誰の金で酒飲んでんだお前。なぁ。頼むから死んでくれよ。お前みたいな人間が生きてると困るんだよ。なんで親父が死んだんだろうな」
「お前が死ねばよかったのに。早く死ねよ。分かった?」
あ、やっぱり別れるの選んで正解だったな。だって俺もこんな人間だったんだ。俺も知らなかった。母親の髪掴んで死ねって言うんだ俺。へぇ。
その日のうちに相楽はなつめに一方的に別れを告げ、残りの半年はなつめから逃げ回るような日々を過ごした。同級生が誰も選んでいない大学に決めて、進学先を誰にも告げず、三月の間に家を出た。引越し先ももちろん教えていない。あれから家には一回も帰ってないので母親がどうなったのかは知らない。どうだっていい。あの時は勢いで死ねばいいと言ったが今だってそう思っている。心からはやく死んでくれと思っている。
もしかしたら他にもいっぱい道はあったのかもしれない。なつめと相談していれば別れなくてもよかった未来があったのかもしれない。相楽だって彼女と別れたくなかった。あの澄まし顔が好きだった。集中すると話しかけても適当に返事するところが好きだった。普段鋭い目が細められて柔らかく微笑むのが好きだった。でも相楽はあの日、彼女の想いに応えるべきじゃなかったと強く後悔した。己を罵倒した。自分が必死に積み上げてきたものはあの女がいる限りずっと壊され続ける。自分をだけじゃなくて他の人にも悪い影響を与える。
相楽はもう誰も知らないところで全部やり直したいなって、心の底から思ってしまったのだ。



あ、なんか嫌な夢見たな。
のそ、と身体を起こしてぼーっと壁を見つめる。広いなぁ。俺の部屋二つ分の広さだ。こんな広い家に一人で住んでいてなつめは寂しくないのだろうか。相楽は隣で眠るなつめの頬に手をのばして、止めた。三年ぶりの再会だと言うのに、彼らはあまりにも自然に順応して、あまりにも不自然に距離を開けていた。
ずっとこのままいたい。
相楽は一瞬そう考えて、ハッとしてすぐに頭から追っ払った。中途半端に伸ばされた手を引っ込めて抑えるようにもう片方の手で握り込む。何してるんだ俺。帰らなきゃ。帰って、色々片付けて、バイト探して、また引っ越そう。大学からもここからも離れた場所に行こう。通学に苦労しても仕方ない。はやく消えなきゃ。夢だ。夢だ。コレはただの夢だ。俺も、なつめも、目を覚まさなくちゃいけない。そうすると急に目の前が真っ暗になって、相楽の頭は『出ていかなきゃ』という思考でいっぱいになった。だが毎朝相楽より後に起きると死にそうな顔で部屋から出てきて、相楽の顔を見て泣きそうになるなつめが頭から離れない。

ヴーー、ヴーー

「ッ……!」
突然震えたスマホに肩が跳ねる。なつめのスマホに電話がかかってきたらしく、画面には『ダニー』と表示されていた。なつめが起きていないのを確認し、相楽は電話に出る。
「もしもし?」
『ん、あれ?先輩ですか?なつめさんいます?』
「あー、寝てるけど」
『あれ、こんな時間に寝てるなんて珍しいですね。夜から飲みに行こうって言ってたんですけど』
「お前未成年だろ」
『やだな、先月20歳になりましたよ』
「あれ!そうだっけ……今度なんか奢るわな」
『お金無いくせに!』
「うるさい!なつめしばらく起きそうにないけど」
『そんなぁ!もう店の前にいるのに!じゃあ先輩来てくださいよ』
「はぁ?今から?」
『今から』
「お金ないんだって」
『奢りますから』
「やだよ後輩に奢られ続けるなんて……」
『奢られ続けてるくせに後輩のお願いを聞いてくれないんですか?』
「んのやろ………分かったよ行くよ。どこ?」


*


一生分泣いた気がする。そう言えばいつかの時代に涙を貯める壺みたいなのがなかったかしら。あたしの涙は貴重だからきっと高値で売れるわね。ふふ。死にてぇ。なつめは起きてすぐ、大して期待していなかった温もりを求めて左に手を伸ばしたが、やはり触れたのは冷えたシーツだけだった。期待していなかったのは嘘だ。起きた時に横にいてくれたらと毎日毎日何度も願っていた。だがいつだって相楽はいない。なんだかムカつくなぁ。ムカつく。なつめは視界に入ったエアコンのリモコンを掴んで力任せに壁に投げた。蓋が外れて単四電池が飛び出す。
急に激しく動いたせいで大袈裟に脈打つ鼓動に合わせてズキズキと頭がいたんだ。なつめは痛む頭を抑えながら寝室を出ようとすると、扉に紙がはられていることに気づいた。『ダニエルに誘われたから飲んでくる』。なるほど。なつめはスマホの着信履歴を確認して、自分が行く予定だったが代わりに相楽が行ったのだとすぐに理解した。
「…………あ、」
シーツの上にピアスが落ちていた。銀色のボールに赤色の石がはめられたネジ式のピアスだ。寝ている間に緩んで外れてしまったのだろう。両耳に十個も開いたピアスのうち、ファーストピアスの二つだけ鮮やかな赤色で、やけに目立つ。本当はこんなに開けるつもりなんてなかったけれど、どうしたってこの赤いピアスが目に入ってしまって嫌だったから、紛らわすようにバチバチと穴を開けてしまった。ダニエルに「それ一種の自傷行為ですよ」と泣かれてようやくやめたのだ。
さっさとピアスを付け直して玄関に行くと、合鍵は置かれたままだった。ベランダに干していた相楽の衣類がない。元々相楽の荷物はほとんどなかったが、彼のために新しく買ったスウェットも下着も全部なくなっていた。あぁ、あぁ。あの男。あの男はまた自分の前からいなくなるつもりだ。きっとダニエルと飲んだあとダニエルに上手いこと言って一人で帰るつもりだ。だってダニエルは断れない。彼はそんなことができる立場ではない。
やっと見つけたのに、また相楽がいなくなったら自分はどうなってしまうのだろうか。次こそ死ぬか。死んでもいい。とか思いながらやはり生きるのだろう。次の日もダニエルが作ったご飯を食べて、相楽が眠っていたベッドのシーツを手繰り寄せて一人で泣くのだ。いなくなるのならばまた何か置いていってくれないかしら。服は嫌だ。いつかは自分の匂いになってしまう。
自分の幸せは相楽と共にあって成り立つのだと信じて疑わなかったが、相楽はどうだろうか。相楽がそうしたいと強く願うのならもうなつめには止められない。止め方が分からない。
本人から直接聞いてはいないしダニエルも口を割らなかったが、相楽が自分から離れた理由はなんとなく分かっていた。自分の父親が彼を追い詰めたのも知っている。なつめは怒り狂い家のものを手当り次第投げて壊した。盆栽?陶器?どうだっていい。あたしの大切な人を傷付けたのだから、お前らの大事なものがどうなろうとどうでもいいだろ。なつめは自分の父親の頭を壺で殴った。悲鳴をあげる母親を蹴飛ばし、止めようとする叔父の股間を蹴り上げ、騒ぎを聞いて駆けつけた使用人を池に突き落とした。悲しくて、悔しくて、選択肢さえ与えられなかったことが酷く腹立たしかった。
返して、返してよ。アンタが責任取ってどうにかしなさいよ。なつめはぐちゃぐちゃになった部屋の真ん中で声を上げて泣いたが、誰も抱きしめてはくれなかった。なつめは学校以外の外出を禁止され、敷地内の移動も制限をかけられた。三ヶ月ほど徹底的に管理された生活を送らされたがあの日からなつめは父親のことを「クソジジイ」としか呼ばないし、高校卒業と同時にピアスを開けて髪も染め、クソジジイを卒倒させたのだ。
「…………」
リビングで何をするでもなくぼーっと立ち尽くしていると、手に持っていたスマホが震えた。
「なに」
『あ、起きてましたか』
「なに!」
『何怒ってるんですかもう……。先輩が潰れちゃって。思ったよりお酒弱かったみたいです。迎えに来てくださいよう』
「アンタが責任もってここまで連れて帰ってきなさい」
『いや俺も結構飲んじゃって。お願いします!』
「そんな気分じゃない」
『ついでに薬局寄ってもらっていいですか?洗顔もう少しで切れそうなの忘れてました』
「タクシー呼びなさい」
『いつも誰がご飯作ってあげてると思ってるんですか!ほんとお願いしますね!』
ブツ。
切れた。ダニエルはたまにこうやって無理矢理自分の要望を押し通してくるところがある。心身共にダニエルに助けられているのは事実だ。そこに自分の拒否権はない。手ぐしで髪を整え、簡単にメイクを直して家を出た。そう言えば、相楽と再開してから自分が迎えに行ってばかりな気がする。べつに頼まれたわけじゃないし監視するためなんだけど。今までは自分が好き勝手動き回って相楽かダニエルが回収してくれていたから、かなり疲れる。疲れちゃうわ。相楽といると疲れる。はやく終わりにしてしまいたい。逃げ回る相楽をこれ以上追いかけていたら本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。はやく終わりたい。でも自分から終わらせることはできなかった
あまり使わないから相楽には教えていなかったが、なつめは車の免許も持っている。バイクと同じくどイカついハマーH2だ。なつめは車もバイクもイカつい見た目で決めているので、機能が詳しいわけでもドライブが好きなわけでもない。そのイカつい物を自由自在に扱う自分が好きなのだ。
エンジンを掛けて発進する。派手な音楽を聴きたい気分でもなかったのでテレビを付けた。無音は嫌いだ。もうネタがなくなってきたのか使い回された動画流すミステリー番組では、キャストが「え〜!」とか言って初めて見るかのように驚いたアクションをとっていた。さすが芸能人だ。UFOの動画って海外で撮影されたものだとCGだなと思うのに、どうして日本で撮影されたものは信憑性が高いのだろうか。愛国心か画質の問題かしら。
車を走らせて十五分程度で今日ダニエルと飲む予定だった居酒屋についた。泣きすぎてしょぼしょぼしている目に居酒屋から漏れる光は痛い。カラカラ引き戸を開けると嗅ぎ慣れた油っぽいのとタバコの匂いがした。すっかり顔なじみになった店主に軽く会釈をして、いつも自分が座っている座敷席に向かうとすぐにダニエルと目が合った。コイツ全然酔ってないわね。
「あーなつめさん!こっちです」
大きく手を振るダニエルの向かい側で相楽はテーブルに伏せていた。背中が規則正しく上下に動いていて、どうやら眠っているらしい。
「先輩〜、なつめさんお迎えに来てくれましたよー」
「ぐぅ…………」
「ぐぅだって。あ、これ先輩のリュックです」
ダニエルに渡された相楽の黒いリュックはそんなに重くなくて、でもそこそこ膨れていた。この中に財布やらスマホやらが入っているのなら、帰りに川に捨ててやったら眠りこけているこの男はまたしばらく自分の家には帰れなくなるんじゃないか、とか。そこまで考えてやめた。「ほら先輩、帰りますよ」と言ってダニエルは相楽の腕を自分の肩に回させた。相楽は起きたがほとんど眠っている状態で、目を閉じたままよたよたとダニエルに引きずられるように歩いた。
「んぅー………」
「ちゃんと歩いてくださいよ。重い」
「全部脱がして荷物も川に捨てて置いてってやればいいんだわ」
「ほらなつめさん怒ってますよ先輩」
昔はなつめが怒ればダニエルはギャーギャー騒いで必死になつめを落ち着かせていたのに、今では幼子の癇癪を軽く流して適当に宥めるようになってしまった。めんどくさいんだろうな。そりゃそうだ。なつめは元々短気であるのに、この三年ですっかり頭がおかしくなってしまったせいで自分の感情の制御ができなくなっていた。人混みの中で大声を上げて泣いてしまうし、高級レストランでは皿を全てひっくり返して怒ってしまう。それをいつもどうにかしていたのがダニエルだったのだから、二十歳を超えた女の世話なんてただ疲れるだけだろう。でもどうしようもなかった。本当に自分じゃどうすることもできなくて、病院にも行って、でももう治らなくていいとさえ思ったのだ。
顔を真っ赤にしてむにゃむにゃと口を動かしている相楽はいつの間にか大人の顔立ちになっていた。相楽の記憶の中でのなつめが清楚な容姿だったように、なつめの記憶の中の相楽も少し幼くて少し前まで制服を着ていたのに。でもバカでアホで、楽観的なところは何も変わっていなかった。楽観的なのに大きな決断をする勇気は持っていて、恐ろしいほど諦めるのがはやい。波のような男だ。大嫌い。
「なつめさん、どうするんですか。連れ帰るんですか?先輩の家に帰すんですか?」
「川に行く」
「はい?」
どういうことですか?本気で言ってるんですか?と慌てるダニエルを無視して相楽の荷物を後部座席に置いた。ダニエルもとりあえず相楽を後ろに押し込んで甲斐甲斐しくシートベルトを付けてやっていた。相楽は相変わらずむにゃむにゃと言葉になっていない意味不明なことを言っている。本当にムカつく。車に縛り付けて引きずり回してやりたい。
助手席にダニエルが座ったのを確認して、先程言った通り川に向かって車を走らせる。後ろで頭を揺らしているこの男の荷物を全て捨ててやるのだ。そのあとこの男が住む部屋を燃やしに行こう。もうそれしかない。それかさっさとコイツの子供を孕んでやるか。なつめはまともな思考ができなくなっていた。とにかく相楽を逃がしたくなくて、もう全てぐちゃぐちゃになってしまえばいいと思ったのだ。
十分ほどで着いた川を見てダニエルは死んだ目で「マジか……」と言った。あたしはいつだってマジだ。嘘はつかない。夜の川は黒くて恐ろしい。もういっそのこと入水自殺でもしてやろうかしら。車を停めて後部座席から相楽のリュックを持ち出し河原を降りようとしたら、ダニエルに腕を掴まれた。
どうしてこの綺麗な男はいつも泣きそうな顔をしているのだろうか。
「なつめさん」
「べつに死にやしないわよ」
「本当ですか?本当にやめてくださいよ」
ダニエルは恐る恐る手を離した。寒い。川に捨てるより燃やしたほうが温かいし確実だな。でも今は思い切りぶん投げてやりたいから、なつめはハンマー投げのように遠心力を利用してリュックを川に放り投げた。あ、思ったより遠くに飛ばなかったな。
「うわ、マジでやったよこの人……」
「今からアパート燃やしに行くわよ」
「なつめさんが言うと冗談に聞こえないんですって」
「燃やすわよ」
「この人どうして今まで前科がつかなかったんだろう」
浅い所に落ちたリュックをしばらくぼーっと眺めて、寒さで身体が震えたので車に戻った。ぐっすり眠っている相楽に無性に腹が立って、わざと音が大きくなるように強く扉を閉めると相楽がゆっくり目を開いた。
「……ん………ぅ…?……なつめ……?」
「………」
「どこ……?」
「アンタ、もう家に帰れないわよ」
「んんー………なぁに……」
「アンタの荷物捨てたし、今からアンタん家燃やしに行くから」
「んー………」
ねぇ起きて。寝ないで。あたしを見て。
あたしを見ろ。
「相楽」
なつめが身体を揺らすと、今にもまた夢の中に戻ってしまいそうな相楽は薄ら目を開いた。そしてなつめの耳に触れる。誰かのせいで十個も穴が空いた気持ち悪い耳だ。
「……ピアス……おれの…………」
なつめのファーストピアスの位置に、三年前に相楽がなつめのコンテナに忘れていったピアスが付けられている。馬鹿みたいにこれに固執して、一度だって外そうとか他のものを付けようと思わなかった。
「アンタが取りに来るのが遅いから、あたしがもらったのよ」
「アンタが置いていったのよ。このピアスみたいに。あたしのことも簡単に捨てたんだわ」
相楽がいなくなってどうすればいいのか分からなかった。自分が何かしてしまったのだろうと毎日毎日考えた。ご飯の味もよく分からなくなって、ハヤブサで300キロ飛ばしても全然ドキドキしなくて、どれだけ賞をもらっても有名な作家に認められても全然嬉しくなくて、全部どうでもよかった。生きてるのにずっと死んでるみたいで、どうしようもなくて。
なのに相楽を見つけたあの日、馬鹿みたいに心臓が激しく動いた。相楽が作ってくれたホットミルクもダニエルがくれたチョコも甘くて、相楽が横にいるとよく眠れた。
「偉そうにしないでよ。自分の存在があたしの人生に悪影響ですって?よく分かってるじゃない」
「その通りよ。アンタがいなくなっただけであたしボロボロよ。ろくな生活ができなかったわ。誰のせいで通院してると思ってんのよ」
「人の幸せをアンタが決めるなんて、三年間で随分偉くなったわね」
「ねぇ、ちゃんと考えてよ」
あたしのこと好きならあたしのことちゃんと考えて。将来とかそんな遠い話じゃなくて、今を考えてよ。あたしの気持ちを考えて。
「どこにも行かないで」
「逃げないで」
「帰ってきてよ。あたしのところに帰ってきて」
「あたし、相楽にそんなに大切にしてもらわないと壊れちゃうほど弱くないのよ」
相楽はうとうとしながらゆっくり頷いた。ほとんど閉じかけている目尻には涙が滲んでいた。
「家に帰ろう、相楽」
今にも眠りそうな相楽の手を握ると、相楽は確かに握り返した。
相楽が眠ったのを確認したなつめは、車の外でしゃがみこんで泣いていたダニエルを呼んだ。なつめは泣かなかった。もう泣く必要はない。十個も開いたピアスももう必要ない。物で残らなくても、相楽が手を握り返した意味だけ覚えていればいい。

こうして相楽の長すぎる逃避行は終わりを告げた。