見出し画像

バイプレイヤーズ1

【キノシタの場合】

鉄棒とベンチしかない台所の三角コーナーみたいな汚い公園で、少年が男に犯されていた。大の大人がケツ丸出しで、鼻の穴を広げて惨めに腰を振っていた。無造作に生えた汚いすね毛を惜しみなく出して、少年の髪を掴んでベンチに押し付けて犯していた。 少年はまだ声変わりもしていなくて、女の子と背が変わらないくらい幼い。この地域じゃ珍しく、やけに綺麗な紫色のランドセルがベンチの下に落ちていて、足に当たって邪魔だったのか、男がランドセルを蹴った。
だから殺した。
「は……は、ヒッ……ギヒッ……お前、お前が悪いんだからなおまえが、いいよなァお前もピカピカのランドセル背負ってたんだろうなァ。入学式はおめかししてもらってたんだろうなァ。中学校でもブカブカの真新しい制服着てたんだろうなァ。サイズが合わなくなった靴を買い換えてもらってクリスマスには当然のようにサンタクロースが来て家に帰ったら温かいご飯があったんだろうなァ……いいよなァアア……クソ、クソクソクソッ」
キノシタは左の手の甲に爪を立たてて引っ掻いた。手についた男の血と、引っ掻いて滲んだ自分の血が混ざりあっているような気がして吐き気がする。
「俺の人生おしまいです、はい。何かもかも終わりですね分かりますありがとうございました。うぅ、うえぇええん!!!」
頭を抱えて号泣しだしたキノシタを、少年は冷静に見下ろした。少年は引きちぎられてボタンが弾け飛んだシャツを直し、ただの肉の塊になった男の近くに落ちていた自分の下着を拾った。精液がついた白い太ももを、男の服で勝手に拭う。少年の白いシャツにはおびただしい量の血液が飛び散っていた。キノシタが男の頸動脈に木の枝を刺したせいで、噴水のように吹き出した大量の血は、少年とベンチを惨たらしく汚してしまったのだ。
少年は泣き喚くキノシタの隣に座り込み、キノシタの頭を抱えるようにして抱き締めた。「いーこ、いーこ」とゴワゴワした茅色の髪を撫でる。キノシタはしばらく少年のもちもちふわふわ太ももの上でグズった。少年の太ももからは青臭い精液の匂いがして、本当の本当に不愉快だった。
「あの人、“おきゃくさま”なんだよ。ああいうことしたらお金くれるんだぁ」
「あ、援交でしたか。そりゃ失礼なことをしまして」
キノシタは秒で理解した。キノシタは自分の名前すら漢字で書けないほど教養が無いが、この地域の仕組みは嫌という程理解していた。キノシタが住むF区は住人全員が色んな団地に住んでおり、団地の棟と号室を格差の基準とした、狭くて薄汚れた区なのだ。例えばA棟の101号室が一番偉くて、Z棟の1020号室が一番地位が低い。というように、棟のアルファベットと、号室の数字で人生は決まるらしい。元々AからGまである区の中で、F区は下から二番目なのだから、今更地位もクソもないが。きっとA区からすれば家畜と変わらないし、C区からすれば奴隷とそんなに変わらないというのに。
F区には、時々他の区から「お客様」が来る。そのお客様は大抵はA区で、A区の大人がF区の子供を中心に買っている。なぜならここ、『とある市』の市長がペドフィリアだから。F区が一番簡単に誘拐できるのだ。B区のような同じ地域に住む隣人という意識が無く、C区ほど数字やアルファベットによって決められた優劣が明確ではなく、D区のように奇習や犯罪率が多くなくて、E区よりも自分たちの立場をよく理解していて、G区よりもまだ人として生きているから。
でも、マァ、ともかく、この男はA区の人間ではない。A区の人間はここでこんなことをしない。ホコリ一つついていない高級ブランドシーツを着て、派手すぎない高級ブランドの腕時計を付けて、ワックスで綺麗に整えられた髪をしていて、誰がどう見ても紳士なのだ。きっとF区の汚い子供を綺麗なホテルへ連れて行って、ふかふかのベッドまでエスコートし、暴れて泣き叫んで抵抗する彼らに微笑みながら、ゆっくり犯したり手足を切り刻んだりするのだろうよ。
「あ〜あ……お母さんに怒られちゃうなぁ…。おにーさん、僕とヤらない?」
「ぅゆ……?」
指を吸っていたキノシタが少年を見上げると、少年は下着を半分ズラし、丸く白い自身の尻を指先でなぞった。ランドセルを背負ってるクソジャリにしては、随分と艶かしい仕草をするもんだ。キノシタは熱っぽい視線を送ってくる少年を見て、一気に鳥肌が立った。
「さっきシてたばっかだから、中、柔らかいよ」
「は……?俺のことそういう目で見てた…ってコト!?乱暴する気でしょ!エロ同人みたいに!」
「受け優位がいいってこと?もぉ〜、おにショタのショタ優位はあんまり需要ないんだよ?」
死体の横で、少年はキノシタの上にまたがった。キノシタの薄っぺらい胸に顔を擦り寄せ、上目遣いで見つめる。先程までは潤んで湿っぽかった藤色の瞳は、挑発的なものに変わっていた。演技力がすげェや。AV女優もビックリだわなこりゃ。
頬、唇のすぐ横、首筋、鎖骨。ちゅ、ちゅっと小鳥が啄むような少年のキスが降る。キノシタは恐怖のあまり、悲鳴すら出せなかった。たかが小学生相手に。そこら辺の女子と声も背丈も変わらないような小麦粉みてェなガキに。キノシタはこう見えて、甘やかされて育ってきたのだ。ディスティニープリンセスの映画しか観たことがないし、頬や額や鼻をくっつけるような可愛らしいスキンシップしかとったことがない。ベッドは可愛らしいリボンがついたクマのぬいぐるみで詰め尽くされていて、将来はクマさんになりたいのに。

汚される。
汚される汚される!
汚いオッサンに汚された汚いガキに!

かわいい俺が汚される!!


キノシタは少年の首を掴んだ。地面に引きずり倒し、今度はキノシタが少年に覆い被さった。細い首に両手をかけて圧迫する。
「殺す殺す殺す殺す殺してやる……」
少年のマシュマロのような白い顔が、少しずつ赤くなっていく。少年の唇や目は充血し、口をぱくぱくさせて必死に酸素を取り込もうとしていた。だが、艶かしい少年は妙に余裕があるように見える。ほとんど白に近い薄い紫色の短髪も、幸薄そうな垂れた目も、もう14歳のキノシタよりもずっと大人っぽく見える。唇は弧を描き、キノシタの制服の袖口に指を入れた。

「……やっぱり、刺青だぁ」

とっくにサイズが合わなくなった制服の袖口から、和彫りの刺青が見える。一瞬インナーと見間違えそうなほど、キノシタの肌には緻密に黒く埋められていた。少年は撫でるように袖を上げていく。今度はキノシタが金魚のように口をはくはくとさせた。彼岸花、ムカデ、九尾。関連性もなけりゃセンスもないクソみてェな刺青だ。両腕から肩、そんでもって背中一面には餓者髑髏がいやがる。
キノシタは今日、人生が終わったのだ。いや昨日か?もうなんでもいいが、昨朝、キノシタが目を覚ますとなぜか自分の身体に刺青があった。なぜかって、なぜかってなんだよ。そりゃあ名前も知らない男が部屋にいて、朝起きたら「親は自分のガキに同じ道に進ませたいモンやねんで」ってカラカラ笑ってたからだ。キノシタの刺青がスーパークロップならば、男はボディースーツだ。クマさんやもふもふなクッションに囲まれて生きてきたキノシタにとって、コーンロウ頭の全身刺青野郎は、あまりにも刺激が強すぎる。
母親はいなくなっていた。風呂に沈めたんだと。キノシタは慌てて風呂場まで走ったが、母はいなかった。男はそんなキノシタを見てゲラゲラ笑った。
「はぁっ、はぁっ...!あぁああ……か、母ちゃん……母ちゃん…!母ちゃんどこに行ったんだよ」
「健気やのォおい。お前かわええな。死にかけのドブネズミみたいで愛着が湧くな」
母ちゃん、母ちゃんと半泣きで家の中をグルグル探し回るキノシタを、男の横にいたスーツの若者が取り押さえた。髪を掴まれ、畳に顔を押し付けられる。純粋な恐怖でキノシタがガタガタ震えていると、突然若者がキノシタの服を脱がし始めた。
「なに、なにっ!?嫌だ!!」
暴れるキノシタの顔を男が蹴った。カンっと軽い何かが襖縁に当たったと思えば、口の中に鉄の味が広がった。キノシタの歯が飛んでいったのだ。痛い、痛い痛い!怖い!ズボンと下着を脱がされると、尻に何かぬるついたものが当たった。
「はァっ、はぁっはァっ、はっ、はっ…!!」
どっと大量の脂汗が滲む。畳を引っ掻いた爪が剥がれそうで痛い。どうして、どうしてどうしてどうして俺がこんな目に!!!
激痛と揺さぶられる視界と酷い耳鳴りの中で、キノシタが聞き取れたのは男の汚い笑い声だけだった。

そんでもって今日、中学校を退学になった。つまり小卒になったってことだ。スーパークロップ刺青のせいで人生がめちゃくちゃになった。母に買ってもらったクマのぬいぐるみは全て燃やされて、家も追い出された。え、ほんとになに?なに?もう笑えてくるよな。一昨日まで母ちゃんと一緒にお風呂入ってたし、一緒に手繋いで寝てたし、トイレまでついてきてもらってたんですケド。
え?天涯孤独?
「あ、あ、あっ」
「あらら」
「ア、アギッ、ギッググ、ぎっ」
「ネジが飛んじゃったかな」
「ぎ、ギヒッ、ヒッ………」
「死んじゃった」
キノシタは白目を剥いて倒れてしまった。もう今日から誰も一緒に寝てくれない。甘口のカレーを作ってくれる人もいないし、ほっぺにちゅーしてくれる人もいない。貧乏ながらも、パートで働く母親とキノシタは仲良く生きてきたのだ。たくさん甘やかされて生きてきた。俺の髪はふわふわで、クマさんみたいにかわいいねと母親が言ってくれた。キノシタは、もう二度と母親は帰ってこないと悟っていた。帰ってきたとしても、キノシタが知る母親ではなくなってしまっているだろう。
キノシタはまたべしょおっと泣いた。だってまだ14歳なんだもん。14歳ってアレだぞ、アレ、そろそろ病が発症するお年頃だぞ。クラスのオタク女子が、自分の母方の死んだ祖父はヤクザだったとか、その日のヘアピンの色によって人格が違うとか、お気に入りの男子たちを『推し』とか言い始める頃だ。俺も混ざろうかな。俺両腕と背中にタトゥーあって、親父はヤクザで、人殺したことあるんスよーって。もうめちゃくちゃだよ。
「おにーさん、あの死体はどうするのさ」
「あ……?知るかよ……売れば?」
「見つかったら警察に捕まっちゃうよ?処理してもらおうよ」
「お髭しょりしょり〜……」
「馬鹿になっちゃった。もぉ、仕方ないな〜」
少年はもう完全に萎えちまったので、下着を上げて短パンを履き直した。そして完全に目の生気が失われてしまったキノシタの手に、十円玉を3枚置いた。
「え、なに…?買われた?このあとイケメン社長にグズグズに抱かれる?」
「あはは、お兄さんってなんか不潔だもーん。抱かれないよ〜」
「ワァ、ァ……!」
「あはっ、あはは!冗談だよ〜うそうそ。人の数だけ感性があるって誰か言ってたもの。そんなことより、ほら。G棟の駐車場の角に公衆電話があるでしょう?そこで30円使ってみて。お兄さん家もお金もないんでしょ〜?この区じゃ高校を卒業したってだけでも崇められるんだから、小卒じゃ人権ないよ。どこも雇ってくれないし、誰も助けてくれない。でもぉ……僕もG棟のおじさんに聞いただけなんだけどね、その公衆電話に電話をかけたら、バイト紹介してくれるんだってー」
「……え、売春?」
「え〜知らなぁ〜い。売春じゃないって言ってたけど、何にしろ生きていくにはお金は必要だからねー。野垂れ死ぬよりはいいんじゃないかなぁ。僕だってほら、こういうことしなきゃ明日のご飯があるかどうかも分からないからね。お兄さんのせいで、今日お家に帰っても家にすら入れてもらえないかもね」
「メスガキもどきが!正当な金の稼ぎ方を知ってから人に責任押し付けろ!」
「口悪いなぁ。ふつうはこんなことしないけど、お兄さんなんか可哀想だから今回だけだよ。じゃあね」
少年は砂埃がついたランドセルを右肩にかけて、ひらひらと左手を振った。…あのガキは左利きなのか。俺は小学校の頃、左手でハサミを使っていたら教師に指先を切られたことがあった。「左利きは発達障害だから、言葉で説明しても分からない」って言われた。それを聞いた母ちゃんが激昂して、帰り道にその教師の親指を魚締め鋏でちょんぎったんだっけ。それがすごく嬉しかった。
あんなガキに30円を与えられてしまった。施しを受けた!同情された!クソクソクソ!!
でもこのたった30円でどうにかしなければ、俺は眠る場所もないし飯もない。俺を助けてくれる制度はここにはない。孤児に人権はない。左利きは障害者。子供は大人の消耗品。F区は掃き溜め。あのガキもF区の人間のはずなのに、どうして与える側なんだ。アイツは“外”に出たら成功する側の人間なのか?そんで俺は堕ちる人間なのか。『とある市』の人間が市から出たら、成功するか、堕ちるかの二択しかない。そういうものだからだ。ジンクスだ。運命なんかない努力ではどうにもならないそう決まっている。だからここから出ていく人間はほとんどいないんだ。誰も失敗したくないから。これ以上堕ちたくないから。これ以上堕ちるくらいなら、最初から夢も希望も幸せも知らないまま、一生底辺でいたほうが楽だろ。
「……黙れよ……」
どうせ俺ァこっから堕ちンだよ。外に出てもここにいても堕ちてくんだ。ここにいりゃあ孤児の人殺し。外に出りゃあ差別対象だ。どこに行っても見下されて嘲られるだろうよ。
キノシタは手の平の硬貨をぐっと握った。今からの自分はたった30円で決まる。キノシタの未来には30円しか価値がない。一発ヤるだけで数千円も数万円も発生する、この三角コーナーみてェな寂れた公園の方がよっぽど価値がある。
「G棟………バイト……G棟……」

G棟
ゴミ溜めのG区の入口
公衆電話
詳細不明のバイト

クソッタレがよ。


*


「んで、その公衆電話に行ったんです。でも壁中に色んな電話番号が書いてて、3回とも外れだったンすよ。爆笑」
「……」
「結局そこら辺のオッサン捕まえてボコって財布盗んで、1300円くらい使ってやっと今のバイト先に繋がったンすよねー…。あ、バイトつっつても裏バイトのほうですケド」
「……」
「ちな今使ってんのがその時の財布ッス」
葵は三週間ぶりの四連休を取得することができたので、樋口が働く飲食店で食事をしていた。家から徒歩5分の場所にあったファミレスは、去年死亡した店長が薬物を売っていたとか売っていなかったとかで、マァ何にしろセクハラパワハラもあったようなので従業員が全員辞めて潰れてしまった。そのファミレスで働いていたのが、この目の前で友達のように自然に相席をして話しかけてくるキノシタだが、彼はバイト先が潰れた後、樋口がいるこの飲食店に移ったらしい。葵はすぐに退散しようと思ったが、ここの料理は一等上手いのだ。キノシタか料理かと聞かれたら、そりゃあ料理を選ぶさ。
葵はキノシタが苦手だった。嫌い寄りの苦手。キノシタは当然のように葵が注文した料理をつまみ食いするのだ。意味がわからなさすぎて、葵はできるだけキノシタと会話をしたくなかった。しかし今回は完全にスルーさせていただくとしよう。なぜなら、葵の横にはキノシタより神経の図太い後輩がいるからだ。
「え〜〜僕もその噂聞いたことあります〜。結構前のことなんであんまり覚えてないけど、アレって大量の鍵の中から正解を探せ的なやつだったんですねぇ」
「は?お前と喋ってねェから」
「でもわざわざ僕の前に来たってことは、僕とお喋りしたかったんでしょ?」
「 お前より春村さんとの距離の方が近いし。春村さんは俺と喋りたいし。俺と春村さんはBFFだし」
「いいえ」
「ほら見ろボケナスメスガキ未満が」
「あはは、ほんっとに頭がおかしいんだね〜」
白目を剥いて中指を立てるキノシタに、小松は頬杖をついてニッコリと微笑みかけた。キノシタは「ひいっ」と悲鳴をあげて、葵に腕の鳥肌を見せてみた。
賢い葵ちゃんは最近気付いたのである。キノシタは、この冬野小松が大の苦手であるということを。どういうわけか分からないが、キノシタはやたらと低俗なものを嫌う。どう見てもセフレが7人くらいいそうでヒモみたいな見た目をしている男だが、実際のところはそこら辺の女の子よりも、猥談に対して嫌悪感や恥じらいを持っているし、学生への憧れや嫌悪が強い。理想が強くて、理想から程遠い人間に対して殺意さえ覚える。キノシタにとって、小松は【下品】に分類される人間だった。汚らわしい。いやらしい。卑猥。品の欠片もない。男のちんこを頬張った口で俺の料理を食うクソビッチ。
「そんなに嫌わなくたっていいのに。ねぇ先輩♡あ、そのアイス一口ください」
「嫌だ」
「自分で注文しろボケ。国家の犬が」
「キノシタさんも自分で注文してください」
「ほょ…?」
葵は餃子を摘んでいるキノシタの手を叩いた。右手から落ちた餃子を空中で素早く箸で掴み、キノシタの口に突っ込む。
「間接キッスしちゃった…。俺のことが好きなんですか?」
「違います」
「およよ……」
机に額をぐりぐりと押し付けるキノシタを、葵は冷ややかな目で見下ろし、小松はじいっと切れ毛だらけの茅色のつむじを見つめた。
「ん〜……やっぱり僕…キノシタさんのこと、どこかで見たことある気がするんですよねぇ…」
「妄想乙」
「僕ら会ったことありません?」
「ごめんけど彼氏いる(笑)」
「んぅ〜なんだろ〜。ねぇ先輩、なんだと思います?この惨めなドブネズミに愛着が湧く感じ、見に覚えがあるんですよね。僕綺麗なものが好きなのになぁ」
小松がそう言った瞬間、小松の目の前にフォークの先が飛び出てきた。「危ないってば」とクスクス笑いながら軽くかわす。どこに隠し持っていたのか、今度は菜切り包丁を取り出して、テーブルに左足を置いて小松の脳天めがけて振り下ろした。小松は「こわぁ〜い♡」とわざとらしく甘えた声を出して、葵にぎゅっと抱き着いて避けた。
騒ぎを聞きつけた樋口が厨房から出てきて、テーブルに足を乗せているキノシタを見てにっこりと笑った。彫刻のように美しい笑顔だが、額には立派な青筋を立ている。
「おうおうキノシタァ……えらい立派なことしてんなァ」
「俺が法律!」
「違うわアホ。休憩は終わりだ。葵の料理を食べた分は給料から引くからな」
樋口はキノシタに拳骨を食らわせて首根っこを掴み、厨房に引きずっていった。遠くで「トホホ…」としょんぼりしているキノシタの声が聞こえる。
やっと静かになった店で、知らないジャズと食器が当たる音だけが聞こえる。少食の小松は、力士三人よりよく食べる葵が積み上げた皿を見て、少し嘔吐きそうになった。ネギ一切れ、ソース一滴も残さないくらい綺麗に食べる。葵が左手を上げて次の注文をしようとしたとき、小松はそっと葵の手を握って「やめましょ」と言った。