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きみの中の百鬼夜行を


「あ。葵先輩!」
HERO本部の食堂にて。兄貴が車で人を轢いて田舎だから迫害されて母親が鬱になって自殺しただとか、有名な配信者のヴィクトリー兄弟が従姉妹を殺して二人で少しずつ食べていたとか、実家のほに(猫)に彼女ができたとか。相も変わらず不謹慎で呑気な話題で溢れかえる食堂で一人で食べていた葵に、最近三ヶ月に及ぶ地獄の育成訓練を終えた柚が声をかけてきた。手には坦々麺が乗った盆を持っている。
「お久しぶりです!一緒に食べていいですか?」
「うん」
秋本柚は、今年度IUに入隊した中学三年生の男子だ。同じく今年度入隊した冬野小松とバディを組んでおり、葵と律の直弟子という少し特別な存在である。現役の隊員たちの中でも位が高く優秀な隊員が、才能のある新人を選び直々に指導をするという制度は葵たちの時代にもあった。葵と律が中学生だった頃も、現在日本国内での強さランキング1位と2位である男たちに指導されていたことがあったが、葵たちは高校一年生という異常な若さと速さでTOP10に入ったため、今は指導する側の立場だ。
とは言っても。葵と律は弟子をとるつもりはなかった。HEROを専業としている他の実力者たちとは違い、葵たちはまだ高校生だ。ただでさえ合間を縫って学校に行けているレベルだと言うのに、新人の教育をしろだなんて。いつまでも弟子をとろうとしない二人に痺れを切らして、吉岡が勝手に決めたのが秋本柚と冬野小松という少年二人だった。
小松のような、手足があらぬ方向に曲がり内臓が飛び出た死体を見ても、心拍数すら乱れぬ少年は才能があるのだと思う。小松は彼の同期たちとは違った雰囲気を纏っていた。他の隊員たちもやけに肝の据わった小松を直弟子にと狙っていたようだが、吉岡が総監督の権限を使ってもぎ取ったのだとか。しかし、なぁ……。対して柚はどうかと言われると、普通だ。死体を怖がり嘔吐する。運動神経も群を抜いて良いというわけでもない。やるべきことは一生懸命するごく普通の少年に見える。
「元気?」
「はい!」
柚は素直な少年だ。声もでかい。三ヶ月の訓練期間の殺伐とギラギラした雰囲気はだいぶ抜け落ちており、柚は白い歯を見せて笑った。葵は柚と小松の師匠というか、先輩という立場にあるわけだが。それらしいことをしているのかと言われたらそうではない。何せ多忙だし。しかし役割を与えられたからにはそれなりに彼らの今後に役立つようにしなければならない。吉岡にスケジュールを調節してもらおうかしら。
「そうだ、葵先輩。一週間くらい前に俺の同期が親を殺しました。どうなりますか?」
妙に真剣な顔をした柚が唐突にそう聞いてきた。ハンバーグセットとカレーライスを食べ終わり、今度は海鮮丼を黙々と頬張っていた葵は返事をしない。何も食べていない柚は黙って葵が口の中のものを飲み込むのを待った。10秒ほどかけてしっかりと飲み込み、水も飲んで一息ついたところで葵はやっと口を開いた。
「なぜ」
「なぜ?」
「どうして親を殺したの?」
「この前の休暇に実家に帰ったらしいです。よく分からないけど、急に頭が痛くなって気持ち悪くなって、話しかけられた時に耳が潰れそうになったとか触れられた部分が腐ったとか。なんか色々言ってました」
顔を青くさせているわりには他人事風に言う柚は、葵が箸を動かそうとすると「どうなっちゃうんですかっ!」と叫んだ。米の熱で刺身たちがぬるくなってしまう前に食べてしまたいのに。
「君の同期はなんのために寮に住んでるのか理解してなかったの?」
「マザコンだったんです」
「マザコン」
「ちょうど三連休で……いつもはバディの奴が見張ってるんですけど、上手いこと抜け出したみたいなんです」
「三連休……」
多忙な葵はとっくに曜日感覚がないので、彼の同期が親を殺してしまったことよりも世間は三連休だった事実のほうが気になっていた。
HERO本部の敷地内には、隊員や職員たちのための寮と宿舎が用意されている。中でも未成年の学生は寮生活が義務付けられており、外出する際は申請の手続きをしなければならない。特に柚たちのような、まだ新人で義務教育を優先されている彼らは厳しく管理されているはずだが。HEROの人間は体の一部にリミッター装置が装着されている。葵ならば首、律なら足首など。必要のないエネルギーの行使を防ぐだのものであるが、GPSも組み込まれているため常に監視されているようなものだ。柚の同期である彼は、彼女か?知らないけれど。その人はどうにかして上手く家に帰ったのだろう。家に帰ること自体は何も難しくはない。ただ、みんな本能的に自分が生まれ育った場所へは行かないようにしている。
HEROという血液と同じように自分たちの身体に流れているエネルギーの影響で、両親や兄弟などの血縁者に対して異常な不快感を抱く。愛されていれば愛されているほどその不快感と嫌悪感は強くなり、家族が得体の知れない生き物に見えたり、触れられた部分が腐っていくような錯覚を見たり、声を聞くだけで酷い頭痛と目眩に襲われる。そういった症状のせいで肉親を殺してしまったというケースは多い。だから完全にHEROが全身に巡る前に、再三忠告されるはずだが。
症状の重さは個人差がある。例えばHLの五十嵐あきらは叔母と一緒に暮らしているが、全く拒絶反応が出ていないと聞く。幻覚や頭痛はその場にいる限り一生続く。症状が重い者は耐えられないほどの苦痛なのだ。歩けない。それこそ自殺をしてしまったり、相手を殺してしまうほど。だから柚の同期は家族を殺してしまったのだろう。
「肉親を殺した場合は処罰よりメンタルケアが優先される」
「処罰はないんですか?」
「家族に会ってはいけないなんてルールはないから。会いたければ会えばいいけど、それで禁断症状が出ても組織は一切保証してくれない」
「つまり自己責任ってこと、ですよね」
「うん」
「メンタルケアかぁ……」
症状が無くなるのはその場から一定距離を離れた時と、対象が死んだときだ。普通の家庭に生まれて普通の精神の持ち主ならば、自らの手で愛する家族を殺してしまった事実を受け止めるのは難しい。ショックで自殺してしまうケースは少なくなく、また片方が不調だとバディにも影響が出てしまう。
ここで柚はようやく坦々麺に手をつけた。少し冷めてしまっている。葵は一通り説明し終えると、また黙々と海鮮丼を食べる。
「美味しいですね」
「……」
「正直、アイツはもうこの仕事はできないと思います。マザコンなので。暴れてずっと拘束されてるみたいなんですよ」
「……」
「俺、怖いです。俺だって家帰りたいし……でもそしたらアイツみたいなことになるのかもって。あんなの聞いたら自分は大丈夫って言いきれないじゃないですか」
「……」
「葵先輩はそういうことなかったんですか?」
「麺が伸びちゃうよ」
「あ、ほんとだ。ここの食堂、料理が豊富で嬉しいです!」
「そう」
「それで、葵先輩は今までそういった経験はありましたか?」
よく喋る子供だなぁ。なんたってこう、自分より一つか二つ年下の子供たちはこんなによく喋るのだろうか。この世界の全てが不思議で溢れているのかしら。黙らせないと一生喋ってきる気がする。勝手に喋る分には構わないが、必ずこちらを会話に参加させようとするのだから忙しなくて仕方がない。
「ない」
「帰ったことないんですか?電話とかは?」
「もう3年くらい顔も見ていないし、声も聞いてない」
「えっ!!なんでですかぁ!?テレビ通話とかならまだ気持ちが悪くなる程度で済むんですよね?」
「そうしたいと思わないから」
「寂しくないんですか?」
葵は掴んでいたホタテを米の上に落とした。大きくて丸い目を柚に向けると、柚も大きな目で真っ直ぐ葵を見ていた。
「どうかしましたか?」
「いや……なんでもない」
柚は首を傾げてから、思い出したかのようにまた質問をしてきた。
「IUが関係の無い一般人を殺した場合はどうなるんですか?」
「どうしてそんなことが気になるの」
「気になるからです」
「場合による。仕事に関係ないところで殺せばもちろん犯罪だし、それ相応の刑罰が下る。仕事中の事故だったら、組織内の調査機関が調べて正当性を確認して処分が決まる」
「じゃあ見殺しにした場合は?」
いつの間にか、柚は鼻が当たりそうになほど葵に顔を近付けていた。
「例えば自分の命を優先したり、仲間の救出を優先して、救えるはずだった一般人を見殺しにした場合はどうなるんですか」
柚は葵の右目だけをじーっと見つめていた。ビリビリとした肌を刺すような殺気がまとわりついていて、葵は口をぽかんと開けたまま黙って柚を見つめ返す。テーブルに押し付けるように箸を持っていた葵の腕を掴み、柚は静かに葵を責めるようなことを言った。
「律先輩は何かしらの処分を受けたんですか」
「葵先輩を助けて、俺の兄貴を見殺しにしたあの人は何か罰を受けたんですか?」
「人の兄の代わりに助けられたあなたは、ソレを知ってどうしたんですか?」
「葵先輩」
しばらく待っても葵が何も答えないことに苛立ったのか、柚はテーブルに拳を振り下ろした。ダンッ!!と激しく叩かれた衝撃で、テーブルの上の器や盆が数cm浮いた。周りでやいやいと賑やかに喋っていた職員や隊員たちも、さすがに葵と柚の様子がおかしいと気付き二人に視線が集まった。それでも葵は何も答えなかった。
「わ、柚くんの顔こわ〜い」
葵の後ろから気の抜けた声が聞こえたかと思えば、声の主を見た柚の顔がさらに険しくなった。
「何の話をしてたのー?」
声の主──小松はするりと葵の身体に腕を回し、後ろから抱きしめるような体勢のまま柚に顔を向けた。葵がそっと腕をどければ、小松は必要以上に絡まず葵の肩に手を置く。
「……小松に関係ないだろ」
「えぇ?あるよぉ。僕らバディじゃない?葵先輩に言えて僕に言えないことなんてないでしょ?」
「山ほどあるわ。……先輩、急にすみませんでした。お先に失礼します」
柚はそう言って盆を持ってせっせと返却口まで行ってしまった。先程柚が座っていた場所に小松が座る。「柚くんって怒った顔も可愛いですよねぇ♡」とうっとりした顔で言う小松に、葵は何も言わずに黙々と食事を再開することにした。


*


警察を題材にしたドラマは好きじゃない。だって警察内部の裏側とか、そんなの知りたくなかった。そんなのあるべきじゃない。皆正義に満ち溢れていて、強い信念で成り立っているものだと思っていた。実際はあなたが思っているようなものじゃないですよ。正直者が馬鹿を見るという言葉をご存知でしょうか?と言われているような気分になった。
例え左が正しくても、皆が右を向いているのなら右を向くのがいいらしい。そもそも正しいとか間違ってるとかいう問題じゃなくて、安全かどうかだ。みんなと一緒だったら安心するだろう。たとえ間違いだとしても、みんなで間違えたのなら怖くないんだろう。左を向く奴は異端で、空気が読めなくて、楽しい空気をぶち壊す癌でしかない。
寮の自室で柚は今日の日報を書いていた。前に注意されたところは直せていたのに、またできないことを見つけてしまった。あの若さで多大なる功績を残している葵や律とは違い、自分はまだヒヨコだ。バディである小松は普段の振る舞いはどうかしているけど、同期の中でも成績が良い。
両親を殺してしまった柚の同期は、葵の言う通りメンタルケアを優先し、心身共に回復し問題がなければ復帰することになった。HERO本部の敷地内には療の他に、隔離施設が存在する。そこは精神病棟で、柚の同期のように家族を殺めてしまったり、戦場の残酷さに心に深く傷を負った隊員や職員が隔離されているのだ。柚の同期はその隔離施設に入ることになったらしい。
「アイツ、戻ってこられるのかな……」
「さぁ?自殺しちゃうんじゃない?」
ベッドに寝転んでスマホを弄っていた小松がどうでもよさそうにそう返した。はぁ……と小さくため息を吐いた柚は、椅子ごと振り返って小松を叱る。
「おい、冗談でもそういうこと言うのやめろよ。お前ってほんとにデリカシーがないな」
「そうかなぁ?死んじゃった方がマシじゃないの?だって親殺しちゃってるんだよ?もうまともじゃいられないでしよ」
なんてことを言うんだコイツは!憤慨した柚は小松の顔にペッ!と紙を叩き付けた。
「余計なことばっか言ってないで報告書書けよ!」
「え〜?だってなんか難しいんだもん」
「難しくないだろ。べつに感想書けって言われてるわけじゃないんだから」
「文字書くのが難しいの!じゃあ僕が言うから、柚くんがその通り書いて」
「自分でやれ馬鹿たれ」
「もぉ、融通が効かないなぁ」
あからさまに渋々といった様子で小松は立ち上がり、意外と素直に日報を書き始めた。後ろから覗いてみると、小松は名前の欄に『ふゆの 小まつ』と小学校一年生のようなアンバランスな書き方をする。鉛筆も親指と人差し指と中指で握るような変な持ち方だし、字がガタガタで汚すぎる。
「名前くらい漢字で書けるようになれよ」
「んー……」
「これが『冬』でこれが『野』。そんでこれが『小松』。前も教えただろ」
「名前なんてなんでもいいじゃ〜ん」
「よくないだろ。親がつけた名前だぞ」
「親がつけたからなんだって言うの?」
「名前は親が子供に一番最初に与えるプレゼントなんだ。よく考えて、願いを込めて名前をつけるんだよ。せっかく良い名前もらったんだから大事にしろよ」
「……前から思ってたけどさぁ」
柚が報告書の端に書いた自分の名前を真似て書き直しながら、小松はぽつりと呟いた。
「柚くんってこの仕事向いてなさそぉ」
「え、なに?急に」
「柚くん真面目だからさぁ。もうちょっと楽に考えた方がいいよ〜」
「楽にってなんだよ」
「んーと。柚くんって正義感強そうだし、真面目だし良い人だからさぁ、なんかすぐ死んじゃいそうなんだよねぇ」
「すぐ死にそうって……すぐそうやって縁起でもないこと言うなよ」
「なんだろー……良い人だけど、情がない感じ〜?だって柚くん、もし僕が死にかけてても横に小さな女の子がいたら、その子を優先しそうだもん。ん?この場合は単純に僕のことが嫌いだから優先しないだけで、情がないっていうは変かぁ。むしろ情が湧きすぎて周りが見えなくなるタイプなのかな」
「そん……なこと、ないだろ」
「あるでしょ〜。だってそれが柚くんの仕事だもん」
「……小松。お前漢字の練習するのが面倒になったからって誤魔化してるだろ」
「誤魔化してるのは柚くんだよ」
小松は鉛筆を柚に向けて、にっこり笑った。だが柚には小松が何が言いたいのかさっぱり分からない。はやく報告書を提出しに行きたいからさっさと書いてほしい。「もういいからはやく、」と言いかけたところで、小松がいきなり立ち上がった。驚いた柚はバランスを崩して尻もちをついてしまった。背中がベッドにぶつかる。すぐに立ち上がろうとしたら、小松が柚の身体の横に手をついてぐっと顔を近付けてきた。
「な、なに……」
「君って、幸せな家庭に生まれたんだね。じゃなきゃ名前は親から一番最初にもらうプレゼントだなんて言えるわけないよ。僕ビックリしちゃった」
小松の下から覗き込むように見る目が苦手だ。思わず目を逸らすと、小松はとくに気にしていないようで話し続けた。
「良い名前もらったんだからってなに?何が良かったの?響きが可愛いだけじゃない?僕の親が何か考えて付けるわけないじゃん」
「そ、そんなことないだろ……。誰だって名前には何かしら意味があるだろうし」
「君の名前が意味があって願いが込められてたってだけの話でしょ?それがどうして皆そうだって思えるの?」
「じゃあどうやって名前を付けるんだよ!」
「なんとなくだよ。僕の名前は母親がその日小松菜を買ったからかもしれない」
「そんな馬鹿な話があるかっ」
「あはは、あはっ!柚くん!君って本当にお花畑で育ったの?この世界に生きてる親って存在はみんな自分の子供を愛してると思うの?君ニュースとか見たことないのかな?母親が1歳児を殺すニュースとか」
柚がいくら怒鳴っても、小松は全く動揺しないで微笑んでいる。小松のそういうところが一番苦手だった。自分の名前を漢字で書けないし、小学生レベルの算数だってできないくせに、同年代の奴らより大人びてるように見える。まるでお前はこの世界のことをこれっぽっちも知らないんだねと言われてるような気分だ。
「そう言えば僕たちの同期が家族を殺したよね。あのね、僕それ聞いてね、いいなぁって思ったよ。きっと親を殺せたら嬉しくなっちゃうだろうなぁ!だってその禁断症状のせいにすればある意味合法で殺せちゃうんだよ!」
小松が目を輝かせめハツラツと言った瞬間柚は小松を突き飛ばして、頭上の枕を掴み小松に向かって投げた。小松は避けようともせず、枕はそのまま肩に当たって床に落ちた。
「何言ってるんだよお前はッ!意味不明なことばっかり言うなよ!気持ち悪いんだよ!」
「やだなぁ。なに怒ってんの柚くん」
「俺がおかしいってのか!?おかしいのはお前の頭だろ!?お前がおかしいのになんで俺が世間知らずみたいにされなきゃならないんだ!」
小松だけじゃない。葵も、律も吉岡も。みんなおかしい。なんで自分を葵と律に近付けたんだ。なんで小松とバディなんだよ。俺の何が間違ってる?
柚は転がるように部屋から飛び出した。全ての親は子を愛していると望んで何が悪いんだ。そうあってほしい、そうあるべきたと思うことは間違いか。HEROという存在は正しくヒーローなんだと思っていた。憧れで、特別で、自分にもその素質があると知ったときは家族で抱き合って喜んだくらいだ。その身を呈して悪を制圧し、弱きを守る。
自分の兄を殺したのはその憧れのヒーローだった。瓦礫に足を潰されて動けなくなっていた兄は、炎の海の中でひたすら助けを求めていた。兄がまだ中にいる。早く助けてとしがみついて叫んでも、無理だとしか言われなかった。しかし消防士も中に入れないような火の勢いだったにも関わらず、当時高校一年生だった夏川律は周りの制止も振り切って中に飛び込んだ。あぁ、やっぱりヒーローだ。あの人は自分の命を懸けても兄を助けようとしてくれるんだと。思っていた。

思っていたのに。

火の海から出てきたのは律と、律の背中で気を失いぐったりしていた春村葵だった。兄の姿はどこにもない。中には兄以外にもまだ取り残されている人がいたはずだ。兄は、他の人は、兄は、兄は。

自分の兄を見殺しにした夏川律と、兄の命を踏み台に生き延びた春村葵は、それから輝かしい功績を収めた。もうすっかり人気者で、アイドルみたいにもてはやされている。柚は当時現場にいたHL職員に無理やり兄の死亡推定時刻聞き出した。あの二人が現場から出てきたとき、兄はまだ生きていた。意味が分からない。自分にIUのエネルギーがあると知っていたのに、訓練も受けていない自分はただの一般人と代わりなくてどうしようもなかった。訓練を受けてIUとして生きていくときは、あの二人のようにはならないと強く決意した。
しかし組織の一員になってどうだ。この世は妥協ばかりだ。毎日誰かが死んで、毎日誰かが怪我をする。今隣で笑っている友人が明日にはいないかもしれない世界だ。同期は家族を殺してしまった。自分も家族に会ったら殺してしまうかもしれない、なんて怯える日々だ。一般人を守るのが仕事。自分の命を懸けても守るべき。守るべき。そうあるべき。そう思っていたのに、そんなことを考えてるのはもしかして自分だけなのではないだろうか。命は選ぶものじゃなくて、人のために命を懸けるのは当然だって、本当に当然なんだろうか?
「うわっ!びっくりしたー……。なにそんな急いでんの?」
通路を曲がると突然律が目の前に現れたせいで止まることが出来なかったが、律が肩を掴んだおかげでぶつからずに済んだ。律は任務から帰ってきたばかりなのか隊服を着たままだ。
「なに、吉岡に報告書出しに行くの?」
「……」
「吉岡今いな……いやいるか。会議かなんかっつってた気がする」
「……」
「え、マジでなに?なんか喋ってよ」
「……律先輩は………どうしてここにいるんですか」
「任務帰りだか、」
「そうじゃなくてっ。なんで平気で俺の目の前に立ってられるんですか」
律は怪訝そうに顔を顰める。
「……?アンタになんかしたっけ。結構久しぶりに会った気がするけど?」
「吉岡さんはなんで俺を二人の直弟子に指名したんですか」
「いやそんなん知らんけど。吉岡が勝手に決めたから吉岡に聞けば?」
「ッ……!?理由も知らずに俺の面倒を見てたんですかっ!?」
「はぁ?さっきから何の話だよ…」
律は心底何を言っているのか分からないと、少しの苛立ちを見せた。


「あなたはッ!!!!」


「あの人を優先して、俺の兄貴を見殺しにしたじゃないか……ッ…」

絞り出すように柚がそう言った瞬間、律は目を見開いて息を飲んだ。手の平から指先に痺れるような痛みが走り、喉がぐぅっと締め付けられるように痛んだ。助けた人の顔など、覚えていない。助けられなかった人の顔なんかなおさらだ。日々は目まぐるしく過ぎてゆく。止まって、振り返ってなんかしている場合じゃない。柚の兄のことなんて知らない。自分がいつどんな風に見殺しにしたのか、律は全く覚えていなかった。だが柚から向けられる怒りと、殺意と、悲しみが律の肌にビリビリと刺さっていく。
困惑している律の顔を見て、柚は悟った。律にとって柚の兄の死など、特に何でもないのだ。記憶にも残らない。
「本当に覚えてないんですか?去年の4月12日にホテルで大火災があったでしょ!自分があの時何をしたのか覚えてませんか!?中に取り残されてる宿泊客には目もくれず葵先輩を助けたんですよ!逃げ遅れた人たちは全員死にました!俺の兄もです!!」
「…………」
「……思い出しましたか」
「……火災があったのは覚えてる」
「ッ…!ほん、とに……どうでもよかったんですね、葵先輩以外は」
呆れたようにそう言い放った柚を見て、律はスっと自分の中で何かが冷えていくのを感じた。
「じゃああの時、葵を見殺しにすればよかった?」
柚は思わず顔を上げた。律はめんどくさそうに自分の髪を撫でる。
「なんて言ってほしいの?私にどうしてほしいわけ?」
「なんてこと言うんですかっ!?俺にはなんでそんな態度でいられるのか理解できない!あなたは仕事を放棄したんだ!」
「いや仕事って言うけどさ、そうしてでも他人を助けなきゃいけない義理がどこにあんの?」
柚の怒号を遮るように、律は至極冷静に吐き捨てて柚の胸ぐらを掴んだ。表情も声も落ち着いていると言うのに、ギリギリと締め上げられる首元が苦しくて腕を掴むがビクともしなかった。いや、落ち着いてなどいない。律はまくし立てるように柚を追い込んでいく。
「ぅグッ……!」
「ねぇ教えてよ。なんで私がそんなことしなきゃいけないの?ねぇ。アンタ家族が大事なんでしょ?死んでほしくなかったんでしょ?見殺しにした私が許せないんでしょ?なんでソレに怒れるくせに私のことが理解できないの?」
「はぁ……?何を言ってるんですか……!?義理とか言う問題じゃないでしょ!?」
「じゃあどういう問題よ。言ってみてよ。アンタが自分の兄を守ってほしかったのと、私が葵を守りたかったことがどう違うっていうの?じゃあ私はあのまま黙って葵を死なせたらよかったわけ?見殺しにした?はは、そうかも。学校もろくにいけないしさ、友達も全然できないし。家族に会いたいなーって帰ったら禁断症状出て親殺しかけたんだよ?なんかさ、ムカつくんだよね。私が何かした?なんでこんな奪われなきゃいけないの。それどころか他人のために命懸けろって、なんなの?意味わかんないんだけど」

「ねぇ教えて?どうしてダメなの?どうして他人を優先しなきゃいけないの?人の命を選択したらいけないの?私たちは天秤にすらかけられないのに。こんな仕事、本当に誇りを持ってやってると思う?葵までいなくなったら私はどうすればいい?どうなるの?ねぇ教えてよ。アンタ私から葵まで奪うつもり?教えてよ柚ッ!!それならアンタ次から私らが請け負ってる任務やって!!私死にたくないからさァ!それが仕事なんでしょ!?じゃあ年齢だ実力だなんだ言ってないで私らの代わりに死んでよッッ!!!」

感情のままに柚を激しく揺さぶり絶叫する律は、到底まともだとは言い難いほど動揺していた。力を込めすぎて真っ白になっている手は震えていて、柚を見る目は僅かに動いている。柚はこれほど動揺している律を初めて見た。柚はあまりにも恐ろしく感じて、荒い呼吸を繰り返したまま歯をガチガチと鳴らした。大きな瞳からボロボロと涙が溢れ出る。ついには嗚咽を漏らしだした柚に、律はゆっくりと掴んでいた手を離した。そうすると柚はズルズルと座り込んだ。
「……私のこと、一生責めていいよ。アンタの兄貴なんて本当にどうでもよかった。アンタの兄貴だけじゃなくて、他の宿泊客もどうだっていい。それよりも葵を失うわけにはいかなかった」
「……ッ…」
「アンタ、まだヒヨコだからどこか楽観視してるんだね。夢見てるんだよ。私らの直弟子だから特別に先に教えてあげる」

「きっとこの先、人が追い詰められた時にどれだけ自分本位か知ることになるよ。今だってそうやって仕事だなんだって自分は割り切ってるような言い方してるけど、それはアンタがこの世界のことをまだ何も知らないからよ」
「葵はまだいいよ。アイツはあの通り火の中に突っ込んで死にかけるような奴だからさ。アンタが望むような仕事をやってくれる」
「でも私は違う」
「私は誰よりも葵を優先する」
「地球上に生きる人類が全員死ぬことになったって、葵を選ぶ」



「柚」



「一度人を殺したら、自分の中に殺すっていう選択肢ができてしまう」

「よく覚えておきな」


*


HERO本部の寮に転入してから、柚は久しぶりに家族と顔を合わせた。初めは電話。特に強い症状が出てこなければテレビ通話。それも問題がなければ、IU専用に作られた頑丈なガラス板越しに監視付きで面会。それもクリアすれば、最後は外で自由に会っていいと言われた。もちろんそれも監視付きだ。
柚はテレビ通話で特に症状が出てこなかったため、ガラス越しの面会の許可が下りた。面会室に連れていかれた柚は、なんだか自分は何か犯罪を犯して刑務所に入れられたあとに、警察官に見張られながら家族と面会するみたいで気持ち悪いなと思った。ガラス越しの対面では頭痛がした。最初はそれほど強い痛みではなかったが、恐らく面会時間が長くなればなるほど段々と酷くなっていくのだろうと察した。面会が済んだ後には気分が悪くなって、その日の夕飯は購買で買ったゼリーだけにした。
触れられたらどうなるんだろう。今まで家族に触れられて気持ち悪いなんて思ったことないのに。でも顔を見て喋っただけで、歩くのが辛くなるほどの拒絶反応が出た。時間が短ければ大して問題はなさそうだったが、きっと施設外での自由な面会の許可は当分下りないだろう。もしかすると一生許されないかもしれない。
「あ、柚さんちょうどいいところに。ちょっとこっち来んさい」
葵と律専用の休憩室からひょこっと顔を出した吉岡は、ちょうど授業を終えて戻ってきた柚を手招きした。柚は早足で吉岡の元に行く。
「吉岡さん、なんですか?」
純粋無垢な瞳が吉岡に向けられる。いいなぁ、この素直な感じ。新人というか後輩って感じで。葵にも律にも小松にもない素直さだ。吉岡は無意識に柚の頭を撫でた。
「この後何も用事はありませんね?葵さんと律さんに届け物してきてください」
「え、二人は自宅に帰ってますよ」
「分かってますよ。葵さんはまだ授業の途中でしょうから学校まで行って渡してきてください。もう外出手続きはこちらで済ましてるので」
そう言って吉岡は柚に紙袋を二つ手渡した。紙袋の中には薄葉紙で包まれた衣類らしきものが入っていた。吉岡に「ついでに学校の外観や生徒の制服でも見てきなさい」と言われ、柚は一人で外に出た。
葵と律が通っている学校と、HLの黒雪陽彩と五十嵐あきらが通っている学校は、他の高校とは違いHEROに所属する子供のために建てられたものだ。他にもHERO受け入れの高校は存在するが、中でもその二校は偏差値も高く、設備も整っていることで有名だった。柚はもう受験生だ。ずば抜けて賢いというわけではないが、勉学を優先されているのならば努力をして葵たちが通う高校に入学したいと思っている。吉岡もその方が良いと言っていた。柚の一つ上に、黒雪陽彩と繋がりのある一般生徒がいるらしく、その辺とも繋がっておくのが良いと言われた。自分たちは、選べる学校も決められているらしい。そんなことを言ったって柚は大して不便に感じていないが。だって自分は憧れていたIUだったのだから、ある程度のことは“必要なこと”として受け入れている。

電車に揺られながらぼーっと考えているとすぐに最寄り駅まで着いた。HERO受け入れ校なだけあって、本部からも通いやすい場所にあるらしい。一人私服姿で学校の前に突っ立っているのも不審に思われそうなので、柚は門のすぐ近くに生えているたくましい木に登った。葵は特進コースだから、普通科の生徒より授業が終わるのが少し遅いと吉岡が言っていた。
とりあえず出てきたら分かるだろうと思って待っていると、この学校ではなく、黒雪陽彩や五十嵐あきらが通う高校の制服を着ている男子生徒がぼーっと門の向こう側を見つめていた。背が高く、なんだか儚げで目を見張るほど整った顔をしていた。下校していく生徒たちは黄色い声を上げて男子生徒をチラチラと見ていた。
「(葵先輩とか吉岡さんがいるから最近ちょっと感覚がバグってたけど、この人もすげぇ美形だなぁ……)」
メンクイになったつもりはないが、勝手に自分の中の標準が上げられている気がする。10分くらい待っていると、少しずつ下校する生徒が増えてきた。そろそろ葵も出てくる頃だろうと校内を見渡すと、見慣れた水色のツインテールが視界に入った。柚が降りようと木の幹から手を離した瞬間、あの男子生徒が目の前を通り過ぎた。


「葵ちゃん」


葵ちゃん。
葵ちゃん?彼は今葵ちゃんと言ったか。柚は右腕を中途半端に上げたまま固まってしまった。部活動をしている生徒以外はほとんど学校を出たらしく、遠くでサッカー部の顧問の絶妙に高い声が響き渡り、陸上部が校舎の周りを走っている足音だけが聞こえる。男子生徒は足早に葵の元へ駆け寄って、ぎゅうっと抱きついた。
「ぎゃあっ!!」
柚はあまりの衝撃で叫んでしまった。
あの葵先輩が知らない男に抱きしめられてる!あの葵先輩が!
男子生徒はそれはそれはもう愛おしそうに葵に微笑みかけ、葵は嫌がる様子もなく軽く背中を叩いた。抱き締め返しているというよりは宥めているような感じだ。これは……やっぱり、彼氏なんだろうか。でもそんな話は聞いたことない。やはり同じ環境で働いているため、誰よりも葵と顔を合わす回数は多いと思うが。柚は寮生活で、葵は自宅があるためプライベートについてあまり知らなかった。ただでさえ人とあまり会話をしなさそうな葵の人間関係など知っているはずがない。いつ見ても大抵は律と一緒にいるし、なんなら律と付き合っているのではないかとさえ思う。葵に彼氏というのもなんだか不思議な気分だ。世間に知られたらきっとショックで社会現象が起こってしまうだろうな。
なんだか居た堪れなくなってきた柚は、もう葵の家に行って律に渡してこようかと少し考える。つい最近律と言い争った手前、顔を合わせるのはかなり気まずい。さてどうしよう……と思いながら葵たちに視線を戻した瞬間、
柚の身体は衝動的に動いていた。

「先輩、」

柚は葵の細い腕を掴んだ。そうすると男子生徒は瞬時に柚の腕を掴み、離せと言わんばかりに折る勢いで握ってくる。しかし一般人とIUである柚とでは、いくら彼の方が背の高さや筋肉の付き方が上でも、根本的に力の差があるのだ。葵と男子生徒はほぼ同時に、ゆったりとした動作で柚を見た。
「柚?どうしたの。どうしてここにいるの」
「誰?」
「仕事の後輩」
「そうか」
「柚、一人で来たの?」
柚は黙ったままそっと葵を後ろに引っ張ると、葵は素直に一歩だけ後ろに下がる。すると男子生徒が一歩足を前に踏み出したので、柚は思わず叫んだ。
「近付かないでッ!!」
威嚇するように叫ぶと、男子生徒は少し困った様子で葵を伺った。
「柚、」
「先輩、帰りましょう。吉岡さんが呼んでます。早急に戻りましょう」
「……」
「はやく!怒られちゃいますからっ!」
もちろんそんなことは言われていない。柚はただ以前の任務で汚れた衣類の洗濯が済んだので、届けるように頼まれただけだ。吉岡からの連絡をわざわざ柚を通さずとも、吉岡が葵に直接連絡する方が速いことなんて考えなくてもわかる。無理矢理葵を連れていこうとする柚に、男子生徒はあからさまに不機嫌になり、ゆっくり首を傾けて柚を睨み下ろした。
なんか、なんだ。何か既視感がある。その独特な怒り方に見覚えがあるぞ。
「柚」
「い、行きましょう先輩。この人には申し訳ないんですけど、」
「柚、落ち着いて。聞いて。大丈夫だから」
「でも、でも……っ」
「大丈夫。忠邦も、柚は心配してくれてるだけだから怒らないで」
「……うん」
葵は相変わらずニコリとも笑わず、淡々と柚と、忠邦という少年を落ち着かせる。葵の高くもなく低すぎない声はなぜだか昂った気持ちを抑えることができる。葵が忠邦を見上げると、忠邦は小さく微笑み返した。さっきまで殺意に満ち溢れていたのに、なんだか独特な雰囲気の人だ。マイペースというか、雰囲気が葵に似ているような気がしなくもない。
「葵先輩……この人は……」
「この子は忠邦。HLの陽彩さんの屋敷に住んでる子。柚の一つ年上」
「あぁ……!そうだったんですね。……あの、先輩とはどういう関係で……?」
「特別」
ずい、と柚との距離を縮めてきた忠邦は、葵と同じように無表情でそう言い切った。いや、特別と言われましても。葵さんも必要なことしか喋らないけど、この男も大概言葉が少ない。
「忠邦、伊織と澄彦を待ってるんだよね」
「うん。今日二人とも部活ないから」
「そう。じゃああたしはそろそろ帰るね」
「……」
「また今度、約束した日に会おう」
「……分かった……」
忠邦は名残惜しいそうに葵の手を握って、それから柔らかく抱きしめた。柚は慌てて引き離そうとしたが、葵が手で簡単に制したせいで動けなかった。葵は忠邦が満足するまで好きにさせて、しばらくして柚と一緒に歩き出す。葵は一度も振り返らなかった。柚がたまに門の方を振り返ると、忠邦はずっとこちらを見ていた。
制服姿の葵は少し新鮮だった。葵が通う高校は校則がかなり緩いようで、学年ごとに制服が違ったり、指定の制服さえ着ていればカスタマイズはある程度自由らしい。二年生の葵はセーラー服を着ていた。こうして見ると、普通の学生だ。いつもは黒い隊服姿か、入院服か、訓練用のラフな格好しか見ないから。セーラー服を着て、ローファーを履いて、スクールバッグを持っているともこにでもいる一人の高校生だ。
柚は夕日でオレンジ色に染まった電車の中で、葵と一緒に揺られる。一言も喋らない静かな空気に耐えかねて柚は口を開いた。
「あ、あの、すいません。俺、葵先輩が心配で。あの、しんどそうだったから……」
「うん」
「すいません。すみません……」
「君が謝ることじゃないよ」
「さっきの人、葵先輩と血が繋がってるんですよね」
「うん」
「なんであの人と会うんですか?先輩、本当はダメなんですよね?症状出てますよね?」
初めに忠邦に抱きしめられたとき、葵の呼吸に少し変化が現れたのを柚は見逃さなかった。弟か、親戚か。そう思うとそうかもしれない。雰囲気とか、話し方が似ていた。目の色も。男が怒った時のあの首を傾けて睨む仕草、アレの既視感は葵だ。葵もイラつくと首を傾けて相手をじっと見つめる癖がある、と律から聞いた。柚も一度見たことがある。
葵は優秀な隊員だし、忠邦にああやって触れられるのも恐らく初めてではないはずだ。葵の様子を見ている限り症状はそれほど重くなく、我慢できるものなんだろうが、それでもあのどうしようもない気持ち悪さを耐え続けるのは相当辛い。ずっと前からああやって触れさせて、葵はそれを一切悟られないように平静を装っていたのだ。
「特別だから」
葵は抑揚のない声で淡々と言う。柚は思わず葵を見たが、葵は目を閉じて壁にもたれていた。顔色が悪い。葵が我慢できる重さ、というものがどのくらいなのか柚にはさっぱり分からくて、底が知れなくて、それがなんだか酷く恐ろしく思えてきた。
「律はね、」
目を閉じたまま葵はぽつりと話しだす。
「本当に家族と仲が良かったんだ。皆が理想とする家族像みたいで。あたしも律の家族には良くしてもらってた」
「……」
「だから律も本当に家族のことが好きで。中学三年生の訓練が終わったばかりの頃、無断で寮を抜け出して家族に会いに行ったの」
「はい……」
柚はこの間の出来事を、律から伝えられたのだと悟った。
葵はすぐに律がいなくなったことに気付いた。当時葵と律の監査官として配属されたばかりの吉岡に連絡して、葵は律を追いかけた。幸い気付くのがはやかったおかげで、葵はすぐに律の家に着くことができたが、そこには頭を抱えて泣き叫んでる律と、ぐったりと倒れている律の母親と、律の母親を守るように抱き抱える父親と、怯えた顔で律を見ていた姉がいた。母親は思い切り顔を殴られた衝撃で気を失っていたようだな、後に検査して命に関わるものではなかったらしい。しかし殴られて倒れた拍子にアスファルトに頭を強く打ったらしく、ぱっくりと割れたときの傷跡は今でも額に残っている。
「触るな」
「喋るな」
「気持ち悪い」
「痛い」
「頭が痛い!」
「死んじゃう!」
「うるさい!!」
「殺しちゃう」
「どっか行って」
と、狂ったように絶叫する律を無理矢理引きずって家族から離した。しばらくして落ち着いた律は、自分がしたことと自分の症状の重さを知って、また壊れたように泣き出して、その日から数ヶ月は廃人のようになっていた。
「律はその日からテレビ通話すらしてないよ。メールのやり取りもちょっとだけ。アレだけ友達が多くて人に囲まれて生きてきたような子が、なるべく人と関わらないようになる」
「誰よりマシとか、そういうことではないんだろう」
「誰が悪いとか、誰が間違ってるとか、そういうことじゃないよ」
いつもはあまり喋らない葵が、ぽつりぽつりと諭すように言葉を落としていく。何一つ聞き逃してはいけない気がして、柚は黙って聞く。
「皆冷たく見えるでしょう。君のように優しい人がこの世には必要だけど、正義感が強くて優しい子が損をする世界なんだ。君のように、皆を助けたくて命の選択ができない人が、必ず誰かを選ばなければいけなくなったときに選べなくて全員死んでしまう」
「選べたとしても、立ち直れないほどの深い傷を心に負ってしまう」
「あたしたちはそういう人をたくさん見てきた」
「律もその一人だったことを、覚えておいて」
そうしてようやく葵は柚と目を合わせた。その表情が酷く穏やかで、残酷で。涙が出てきそうなくらい可愛くて。心臓をぎゅっと掴まれた気がして、吐き気さえ込み上げてくるような感覚だった。


柚の兄は葵が救助に行ったときにはすでに瀕死の状態だった。誰が柚の兄なのか、どんな顔だったかなんて葵も覚えちゃいないが。葵が一人で火の海に入った時には、あの場にいた全員がもう身体を動かすことさえできなくて、指先を震わせるだけだった。その時は逃げ遅れた宿泊客の正確な人数も伝えられていなくて、葵はひたすら瀕死状態の客たちを背負って順番に外へ連れていこうとしたが、火の勢いは思ったよりも強く、どこを見ても燃えている廊下は歩くのもままならない。葵はせめてまだ火が移っていないところへ運ぼうとした。
葵は不死身ではない。煙を吸ったって一般人よりは長く耐えられるが、それでも限度がある。火傷だってするし、長時間中にいれば死ぬ。意識が朦朧としだして、ふらふらになりながらもあと少しで全員運び終わるというところで、葵はついに倒れてしまった。息が苦しい。火が、火が、人が。人がまだいる。
葵がいないことに気付いて、隊員や消防士たちの制止も聞かずに飛び込み、宿泊客を守るように覆いかぶさって倒れていた葵を見つけたのは、別の場所で避難誘導をしていた律だった。まだほんの僅かにだが息が残っている客たちを置いて、律は葵を背負ってその場から逃げ出した。律が離れた瞬間さっきまでいたところに焼け落ちた木造が落ちて、もう彼らの姿さえ見えなくなってしまった。階段を降り続けると、煙は流れてきているがまだ火は移っていない場所に死体が並べられていた。葵が運んだ人たちだ。もう死んでしまっている。顔は煤だらけで所々火傷もあったが、比較的綺麗に残っている。律はホテルから出て、他の隊員たちに彼らを運ぶように頼んだ。

生きている人間を置いていくということが、選ぶ人間の心をどれほど傷付けることなのか分からないか。特に律のような愛し愛され生きてきたような、まだ16歳だった子供が、命の選択をすることがどれだけ残酷なことか。
もうあと数秒もすれば死んでしまう状態だった高校生くらいの男の、あの縋るような指先が恐ろしくて、恐ろしくて。はぁっ、はぁっ、と。律は葵を背負って、荒い呼吸を繰り返して泣きながら走り続けた。夜なのに激しい炎のせいでやけに明るくて、熱くて、この世の全てが自分を責めてくるような気分になった。
絶望したような顔でこちらを見つめる少年に、律は激しい恐怖を覚えたはずだ。

「柚」

「お兄さんを助けられなくて、ごめんね」


葵の顔は夕日のせいで、火の前に立っているように赤く、熱く照らされていた。