莢豌豆

京都から解き放たれた。どうだろう。夜行バスに半日縛り付けられた。少しだけ予想より短かった。昨晩の恥ずかしさといったら山脈が立った。あるいは漁船が一隻増えた。増殖、みたいなことが起きたとき、所有は誰に、どこに帰属するのだろう。立法における疑問でもあるが、もっと心的な働き、その漁船が誰の所有していたものに似ているだとか、かれこれの沈没船のコピーっぽいだとか、そういう類似に伴う理路のない所有感を、どう克服していくのか。こういうのは親無し子やら里親やらの問題と性を同じくする。

成人式を目前としていたので髪を切った。髪を切って良い髪になったことがなかった。寝つきがよくないと、枕と平行になったまま頭を稼働させることになるので、後頭部が畝って形がつきやすいらしい。というわけで絶壁なのだが、これは仰臥の姿勢以外には一つも役に立たないらしい。「これって後ろ刈り上げ気味にすると変ですかね」と恐ろしい顔で言ってみた。今回は怪しい勧誘がなかった。自己啓発本を除けば普通のおばさんなのに。

脚本を書き終わった。安心できる。安心させられることができるようになってきている。これから時間をかけて作品と離れて、本番の舞台で最高級に返り咲く。咲くことは遣り水を返すこと。脚本はあがいても副産物だ。作品よりも制作(時間ゲーム)を愛することはまだ難しいが、それでも秤は釣り合いの段階に入ったように思う。伝えることが大事だろうか。伝えようとするものの未明は許されないだろうか。伝わらないとは思わない。ただ、観客ではなく作品のみを熱意の対象(空洞のある舞台)として、空洞において身体の(声が好きだ)可能性を試すことに最大の価値を置いてもいいのではないか。ここでのゴールは反復による身体性の発掘にある。内容にない。伝えることに目を遣って、観客を人形のように座らせてはいけないような。

役名を待っていた日、地動説が明らかになった。


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