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フルートを吹くこと

レポート発表があるので、ここに考えをまとめつつざっくばらんに書いてみようと思う。

1. 私にとっての音楽

音楽遍歴

 今振り返れば、私の音楽経験は小学校の頃から始まった。私の愛すべき母校では、地域の伝統芸能をリメイクした創作表現「大地の響き」。これを、毎年6年生が演じている。一番目立つ和太鼓パート、可愛らしい女の子が集まる踊りパート…。ちょっと気が引ける。合唱パートは地味で嫌だし、どうしようか。という妥協の中選んだのが「篠笛パート」だった。
 けれども、始めてみて私は「篠笛沼」にどんどんハマっていった。小学校の体育館にズドンズドンと響き渡る和太鼓、絡み合う合唱、振動に呼応するように舞う踊り子たち。そして、空間を閃光のように貫く篠笛の高音。他パートと呼応しているようで、誰とも違う唯一の頂点にいるような、そんな感覚。気づけば、パートリーダーになり、ソロを任されるまでになっていた。

 この体験に味を占めた私は中学校に入り、当然のように吹奏楽部に入部、フルートパートを選択した。高校でも同様に吹奏楽を、そして現在大学ではオーケストラでフルートを吹いている。

私にとって音楽を「する」こと

われわれが音楽を聴く時、われわれはただ考えているのでもなければ、ただ聴いているのですらない。われわれは、自分の身体全体でそれに参加しているのであり、そうやって音楽を成立させているのだ。(中略)人びとが音楽を演奏したり、音楽を聴いたりするのは、音楽をとおして何かを知るためでもなければ、音楽があたえてくれる心の豊かさを経験するためでもなく、音楽を身体的に経験するためなのである。

山田陽一(2017)『響き合う身体 音楽・グルーヴ・憑依』春秋社, p.9

 結論から言おう。私にとって音楽を「する」ことは、「振動を介した根源的・直接的なコミュニケーション」なのだと思う。それは、単に聴覚や視覚的な五感に収まるような経験ではない。おそらくより根源的な、身体の内に直接呼びかけてくるような経験なのである。

 私がフルートを吹くとき、肺から吹き込んだ息は楽器に振動として伝わる。どうやら私は、音がどうこう、というよりむしろ、そのビリビリ具合の手応えによって今日の調子を伺っているようなのである。
 振動は私と楽器の二者のみにはとどまらない。身体と楽器の一体物から発せられた振動は、立っている地面や漂う空気を媒介に部屋全体に伝わっていく。その振動は、跳ね返り、響きとして私の元に返ってくる。いわば、私は吹いているようでその空間に吹かされているような不思議な感覚におちいるのである。

 わかりやすいエピソードをひとつ挙げておこう。私は中高時代、早朝学校の中庭で基礎練習をするのが日課であった。朝の澄んだ空気の中、人気のない中庭でフルートに息を吹き込む。行うのは低音から高音へと上がっていくロングトーン。低音は、広い中庭の地面を這うように伝導していく。音が上がっていくにつれ、振動は上に飛んでいく。やがてより細かくスピード感のある振動として空を貫く高音へと変わっていく。一連のこのロングトーンを通して私は中庭という空間全体を認識し、その振動の跳ね返りによって自己を認識するのである。

2. 時間的コミュニケーション

 だけれども、そんなある意味「衝動的」な演奏が実践の場で許されるわけではない。なぜなら、音楽をする上で、他者の存在を無視することはほぼ不可能だからである。

音楽の間テクスト性

音楽における他者とのつながりについて、まずは音楽ができるまでの「間テクスト性」をヒントに考えてみよう。
 言わずもがな、音楽には作曲者が存在する。作曲家は自分自身の経験を織り込みながら、特定の音楽様式に従って曲を作る。例えば、私が今取り組んでいるチャイコフスキーの交響曲第5番は4つの楽章から成り、1楽章と4楽章にはソナタ形式、2楽章には緩やかなメロディを、3楽章にはワルツが置かれる。この形式の中で、彼は「運命の主題」を各楽章に埋め込んでいく。それを吹く私は、ときに激情とも言えるような、作曲者自身のほとばしるエネルギーを感じるのである。
 曲は作曲者だけのものではない。その他にも過去に演奏された音源を聴いた記憶や練習のときに聴いた団員の演奏の記憶なども頭の中に残り、私の演奏行為に少なからず影響を与える。こうした他者との時間を超えたつながりにより、身体経験に任せた恣意的な演奏を超えて、私の演奏は「意味付け」されるのである。

3. 空間的コミュニケーション

他者とのつながりは時間的な関係だけではない。そのときどきで空間を共有している者同士のコミュニケーションによっても、生み出される音楽は大いに変わりうるのである。

音楽の社会性

 例えば、普段の私の練習風景を思い出してみる。今の曲はフルート3本で演奏されるので、私以外にもう2人の先輩が一緒に演奏してくださる。フルートパートの横にはオーボエの先輩。後ろにはクラとファゴットのメンバーが並んでいる。そして目の前には弦の森が広がっている。
 指揮者の先生が指揮棒を振り下ろす。その動きに呼応して私は楽器に息を吹き込む。みんなが吹いている、その体の動きや波に馴染むように、自然と演奏が「寄っていく」。
 面白いのは、その無言のやりとりの中で動きが合ってくることがあるのだ。あるフレーズにおいて私は下から上にフルートをふりながら吹いていた。しかし、隣の先輩は上から下に動いていることに気づく。次に吹くとき、私も上から下に吹いてみると、不思議なことにピッタリ音が合うのだ。
 このような擦り合わせを重ねながら、オーケストラないし吹奏楽団は一つの曲を練り上げていくのだと思う。

染み込んだ吹奏楽様式

 けれども、その音楽の練り上げにおいてネックになるのが、様式の違いである。私は吹奏楽を長いことやってきた関係上、オーケストラに入団後しばらくこの「様式の違い」に苦しむことになる。なんなら今も苦しんでいる。
 まず、私が「マーチの呪縛」と呼んでいる様式の違いがある。吹奏楽部出身者には共感してもらえると思うが、基本的に部活動のメインイベントは夏の吹奏楽コンクール、いわゆる「夏コン」である。夏コンでは、課題曲と自由曲を演奏するのであるが、課題曲に圧倒的にマーチが多いのが特徴的なのである。夏コン以外にも入学式の入退場、運動会の行進などマーチを演奏する機会は極めて多い。その中で自然と「マーチっぽい吹き方」が染み込んでしまったみたいなのだ。具体的には、「テンポを揺らすなんてできない「ひとフレーズが短くなりがち」など。
 それから調の違いもある。吹奏楽では、B dur(シ♭から始まる音階)が扱われることが非常に多い。そのため、異常にB durだけ綺麗に吹ける。一方オーケストラではシャープ系の調が扱われることも多く、そうなったときに急に音程が不安定になってしまうのだ。

溶け込みたいという衝動↔︎疎外感と恐怖

 そんなわけで、「この空間に溶け込みたいのに、自分だけ浮いている気がする」といった疎外感を、吹いているときに感じてしまうのである。周りと音として馴染めない。このことは音を出すことへの恐怖へとつながり、私の演奏はしばしば「自信がなさそう」「音が小さくて埋もれてる」などといった辛口コメントに見舞われてしまうことになる。

「クラシカルな吹き方」を学ぶ

 「そんな状況をなんとかしたい!」という思いから、大学2年のはじめに本格的にレッスンに通い始めた。レッスンは教則本に沿って進んでいくのだが、取り扱うのはスケールや三度の跳躍といった本当に基本的なところと練習曲。けれど、そういった基本的なことを「先生が吹いたように吹いてみる」ことで、どのように音を出していくか、先生の吹き方が私に乗り移っていくような感覚を覚えるのだ。基本的な鍛錬の積み重ねで、段々と「クラシカルな吹き方」が身についてきたようで、最近はポジティブな気持ちでオーケストラの練習に臨めている。

4. 二重音楽性を持つこと

  民族音楽学のマントル・フッドは、二つ以上の音楽様式に対して音楽性を持つことを「二重音楽性」と呼んだ。いわば日本語を母語とする日本人が、英語を操る能力を習得するように、「吹奏楽畑」出身の私が、オーケストラという異なる様式を習得していく。その両者においてうまく振る舞うこと(=音楽性)で、同じフルートという楽器を演奏していながら、違った経験ができる。なんて素敵なことだろうか。オーケストラ経験の浅さに劣等感を感じるのではなく、私は二重の音楽性を身につけようとしているのだ、そう思うことで吹くことへの恐怖が和らいだ。再び私は、音楽を「する」ことの根源的な悦びへの道を見出せた。そんな気がした。

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