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節穴

あなたに比べたら、私の目なんて節穴だよ。

20年以上私の隣で連れ添った母がそう言うなら、私はあまり、人を幸せにできる人間ではないのかもしれない。


あなたに比べたら、私の目なんて節穴だよ。
ある日の昼下がり、母がふと言ったこの言葉は、ずっととれない窓ガラスのくもりみたいに、なんとなく私の頭の片隅に残っている。

私の言うことが、あまり周りの人に理解されていないのかもしれないとはじめて気づいたのは、忘れもしない7歳のときだった。

私がしたのは、大したことない、エレベーターに1人で乗るのが怖いとか、そんな話だった。だけど、その時一緒に帰っていた友達は、なんかよくわからないという反応だった。
私にとっては当たり前の感覚で、当たり前に他人にも伝わると思っていたことが、伝わらなかった。
そのショックを、今でも憶えている。

中学生・高校生のころ、どうしても「普通」になりたかった時が私にもあった。
その頃は、こんな人に伝わらないような話は一切言わないようにした。

でも、それでは、人生が楽しくなくて。
自分の思っていることが人に伝わって共感してもらえるとか、何かしらの影響を人に与えることの喜びを私はあきらめられなかった。
高校を卒業したとき、もう伝わらなくても、変な人だと思われても嫌われても何でもいいから、思っていることは、自分の中で殺さずに言おうと決めた。

それからはしばらく葛藤の日々だった。
長い間自分で抑圧していた分、自分の言葉をストレートに出し、表現することができなくなっていた。

それでも、私はそうやって生きるともう決めたから。
試行錯誤し語りつづけるうちに、私は徐々に自分のことばを取り戻した。
そして、そういうちょっと人と違う表現をする私が好きだと言ってくれる人が出てくるようになった。

そういう人たちは、出会ったとき、私みたいな人に今まで会ったことがない、と言って、私に興味を持って、話を聞いてくれる。
そしていろいろな話をして、一緒に時間を過ごして、何年か経ったとき。
それでも、やはり私の話は難しい、分からないと思う。
分かりたい、分かろうとする、けど、分からない。
私たちの間には、越えられない壁がある、と感じる。

私と一緒にいるとき、私というレンズを通して、新しい景色を見る。
今までと同じ世界に、全く違うものが見える。
と同時に、この人に見えているものが、自分は見えない、と気づかされる。

私というレンズを通して見る新しい景色はとても色鮮やかで魅惑的で。
でもその代わり、見ないほうが幸せだったものもたくさん見てしまう。
光が鮮やかなら、その分影も鮮やかに見える。
蓋をしたかった自分の弱さ、甘さ、そういうものを引き出されて葛藤する人たちを私は見てきた。

自分の目が節穴だ、なんて、夢にも思わないほうが、幸せな人生だったのかもしれない。

私はこれからも、表現することをやめない。
それが、自分との約束で、自分の生きる道だから。
でも、それを続ける限り、私は愛する人を幸せにすることはできないのかもしれない。

(2024年1月)

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