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ヒーローを思い出した話
部屋でパソコンを眺める。
最近は暑いから、紅茶を淹れてから、氷がたくさん入ったカップに移し替えるのがルーティーン。
茹だるような暑さと、こなしてもこなしても湧き出てくる課題から逃げるようにふと幼稚園の卒園アルバムを開く。
「幸せに暮らしてる?」
「あの時はごめんね」
「優しいところが大好きだった。」
何にも興味がなかった私に音楽をくれた人。要領が悪かった私に対していつまでも優しくしてくれて、いつだって私の味方でいてくれた。
音楽だけじゃない。幼稚園で泣かされた時だって、引き算ができなかった時だって、スイミングスクールで私だけ進級できなかった時だって彼はずっと私の味方でいてくれた。
進級テストの結果発表があったスイミングスクールの帰りコンビニに寄って、貴重なお小遣いからパピコを買ってくれた。
スクールの階段に二人で腰をかけて、パピコを半分こ。ご機嫌斜めな少女に少年はこういった。
「泣くんじゃなくて笑ってよ。」
どこかの王子様のプロポーズのような言葉。もう現実を生きている私たちには歯が浮くようなセリフだけど、まだ何にだってなれた私たちには身の丈にあった言葉だったんだと思う。
そうやって、守られて生きてきたわけだけれども、守られるってことは「隣には並べない」ってことを突きつけられる。それが最後の進級テストだった。そして私が初めて体験した挫折である。
結果は私だけが不合格。
やはり彼は合格したのだ。
この級に合格するともう一緒の時間に水泳に行くことは難しくなる。その事実が私を閉じ込めた。
いつものように、スクールのそばの階段でパピコを半分。あの頃よりも随分大きくなった手のひら、骨張った輪郭。
一方で私はどうだろう。全く変わっていないじゃないか。どうして、私だけいつも置いていかれるんだろう。どうしてうまくできないんだろう。
「落ちたってどうってことないよ。僕ずっと待ってるから。
本当にすぐ泣いちゃうところとか幼稚園から変わらんね。」
”幼稚園から変わらない”
私の気持ちを崩壊させるには十分すぎる一言だった。
「いっつもそうやん。私だけ置いていくやん。私だって一生懸命やってんのに。」
「置いていってなんかないよ。ほんまに一緒にこれからも通いたいなって思ってるよ。一生懸命やってるのだってみんな分かってくれてるって。」
困ったように眉を下げながら背中をさすってくれる。
「でも、それでも私だけいっつもできひんもん。もう、私スクール辞める。」
「もう一回受けたら受かるって。なぁ、できるようになるまで僕も手伝うから。」
「いい。ひとりでやる。」
「僕だってできひん気持ちわかるもん。それにひとりは寂しいやろ?」
「わからんよ。絶対。わかったふりせんといて。もういい。」
違う。そうじゃない。こんなことを言いたいわけじゃない。本当なら、「ありがとう」っていうべきなのに。出てくる言葉はナイフになって彼を傷つけていく。
「そう、お母さんも心配するから僕もう帰るわ。」
小学5年生にしては大人過ぎた彼は、傷つけられたと泣くことも怒ることもせずにただ穏やかな声で話しながら静かに立ち上がって駐輪場に向かった。
よかった。怒ってない。帰る時に謝ろう。「ごめんなさい。一緒に練習したい」って言おう。
でも、「一緒に帰ろう」がいつまで経っても降ってこない。
「何してんの?心配したやろ。早く帰るで。」
彼とは違う高い声。迎えにきてくれたのは、白馬の王子様でも、アイドルでもなく私が待ち侘びていた彼でもなく、お母さんだった。
随分と暗くなった道をお母さんの手を握りながら帰る。
「私さ、水泳やめる。」
「そう。やめてどうするん?」
「塾に集中する。これ以上ついていけなくなるのは困るし。」
「じゃあ、来週先生に言おう。
あんた、ほんまにそれでええんやね?」
これでよかったんだ。元々水泳なんて得意じゃなかったし、来年は受験生になるんだからどうせやめないといけなくなるだろう。私の選択は何も間違っていない。
「あんた、蒼くんには言わんくていいの?幼稚園の頃から毎週二人で通ってたやん。一応、言っといた方がいいんちゃう?」
「分かってる。来週言うから。」
本当のことは言えなかった。彼を傷つけてしまって会いたくないからやめるなんて。
私がやめたら、彼は悲しむのだろうか。そんなわけない。彼は友達が多い。いつも友達が少なくて親同士も仲がいい私と一緒にいてくれただけ。私がいなくなったところで、彼の人生は変わらない。きっと私の人生だって。
あれから、彼に会うこともなくなり小学校を卒業した。その後も、日常生活を送る上で彼のことを思いだすことはなかった。
それでもふと思い出すことがある。きっと私の一番の理解者だった。ちょっと困ったように眉を下げて笑う笑い方、不安になった時にはつないでくれた大きな手、目を大きく開いて口を大きく開ける笑い方、全部全部大好きだった。
もし、あの時素直に謝れていたらずっと私のヒーローだったのだろうか。考えてもわからない。
今、もし、彼に会って言えることがあるなら「ありがとう」がいいたい。
そんなこと考えながらまだ開かれていた卒園アルバムを閉じ、手元に目を向けるとカップの下に大きな水溜まりができていた。
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