「ピノキオを殺したら殺人か?器物破損か?」

 SEVENTEENのYoutubeコンテンツ「GOING  SEVENTEEN EP101.13인의 성난 사람들#1」にて、「ピノキオを殺したら殺人か。それとも器物破損か。」と言う議題について12人(S.CUPSは不在)が議論した。

 すごく納得のいく意見が多かったのでこちらも是非見てほしい。(というか、リスペクトを込めてこの記事を書いているので見てください。)
 さて、ここでは私なりに考えた意見を述べていこうと思う。まず結果から言うであれば
           ピノキオを殺したら殺人である。

と私は考えている。

ピノキオとは

 ディズニー映画として知られている『ピノキオ』。
原作はカルロ・コッローディの『ピノキオの冒険』。
以下は大まかなあらすじである。

木彫り職人のジェッペットじいさんは、動いたり話したりすることができる木の人形のピノッキオをわが子のように大切にしていました。ピノッキオは、嘘をつくとぐんぐんと鼻が伸びてしまう人形です。

しかし、ピノッキオは学校へ行かずに寄り道をしたり、家にも帰らずお金を無駄にしたりと、心配してくれる周りの大人たちの言うとおりにしません。さらにはおもちゃの国でなまけたりしているうちに、ロバになってしまうことも……。しまいには、ロバとして売られそうになります。

売られまいと海へと脱出したピノッキオは、海でピノッキオを探している途中サメに飲まれてしまったジェッペットじいさんと、サメの胃の中で再会。ふたりでの脱出に成功すると、ピノッキオは心を入れ替えます。おじいさんの言うことをよく聞くようになり、思いやりを持つようになりました。そのご褒美に、ピノッキオは仙女によって、人間の子どもに変えてもらえました。

ピノキオは人間か人形か

 ここで問題になるのは、人間になる前のピノキオを人間と捉えるのか。それとも、人形と捉えるのかと言うことである。
 我々の感覚からすると、ピノキオは「心」を持った「人形」である。
 そもそも、人間とはどのように定義されるのであろうか。
 定義できないのではないだろうか。だから人文学があるのだろう。では、人間と同じくらいの知能を持っているであろうAIと人間がどのように違うのかを考えてみよう。
AI:感情を持たず、自己意識がない。
人間:感情、意識、自己認識を持つ。

が大きな違いではないだろうか。
「AIにだって感情をプログラミングすれば感情がうまれ自己意識を持つことができる。」と言われそうだが、果たして本当にそうなのだろうか。AIに幼少期の記憶を聞いて、答えてくれるのだろうか。答えはNOだろう。おそらく返ってくる答えとしては「私はAIとしてプログラミングされているから幼少期の記憶などない。」と言う旨ではないだろうか。
 以上のことから、本ページでは人間を「感情・意識・自己認識を持つ生物」と定義する。

 さて、この章の本題に戻るが、ピノキオを人間と捉えるのか。それとも、人形と捉えるのかと言うことを決定しておきたい。
 ピノキオは、作品内で「感情・意識・自己認識を持つ生物」として描かれている。だから、キャラクターたちに騙されるし、嘘をつくことだってできたと考えられる。また、「学校に行く」という現代社会では人間しかしていない行為をしているという点でも人間と捉えることができそうだ。
  しかし、ピノキオは我々と同じ成分でできているわけではない。そこを考慮すると、限りなく人間に近い何かといったところが妥協点ではないだろうか。

殺すとはどういうことか

 いずれにしても、器物損害と殺人の違いをはっきりさせておく必要がある。
本来ならば、刑法を引っ張ってきて当てはめるべきなのだろうが、そもそも、我々の世界には、人間のように意志や感情を持って行動できる人形など存在しない。つまり、2024年に施行されている日本国憲法を今回の事例に当てはめるのは随分とお門違いなのではないか、と思うが一度現代の憲法に置き換えて考えてみよう。
 器物損害についてはいうまでもなく「ものを壊すこと」だろう。例えば、ペットが何らかの意図を持って傷つけられた場合、私たちは「器物損害だ!」とは言わないだろう。そんなこと言うやつはおそらく人間じゃない。そう考えると、命があるものはそもそも器物損害には当てはまらないらしい。
かといって、殺人は人に対して使うものだろう。同じように飼っているペットが何らかの意図を持って傷つけられた場合、私たちは「殺された」と表現することはできるが、法律が殺人として裁いてくれるわけではない。
 しかし、これは先述通り2024年に施行されている日本国憲法のことである。我々が生きている世界では、自己認識ができて社会という組織を作りながら生命活動をするのは人間しかいないが、ピノキオの世界では狐もコオロギも会話ができる。狐に至っては、騙して金儲けをするほど頭が切れるためやはりこの世界の動物たちは我々と同じように自己認識ができて社会という組織を作りながら生命活動をしていると考えても良いのではないか。
 つまり、ピノキオの世界では「殺人」と捉えても何ら問題はないはずである。

まとめ

 以上のように考え、私は ピノキオを殺したら殺人である。と位置付けた。



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