五年経った今
6月27日。
この日は母の命日なので前回の記事は母が一番好きだったひまわりで作品を投稿させて頂きました。
あれからもう早いもので五年か〜。
予備校に通いたて矢先の出来事でしたし、葬式を終えてから12月くらいまでほとんど記憶がないんですよね😅
全て無いわけではないのですが、その中で一番はっきり覚えているのは…
高校一年から仲が良くて予備校まで同じ親友に、初めて母と死別した事を話した時に、
普段から冷静沈着な彼が今まで絶対に見せなかった涙を流しながら「俺は自分の夢のために努力するからな」と言い、勉強している背中を見せ続けてくれたことくらいです。
彼の背中がなかったら自分が琉球大に受かることはまずなかったでしょう。
告別式には高校の親友たちや、高校三年の時の担任の先生まで来てくださいました。
なんだかんだでここまで周りの方々の支えあって生きて来れたわけです。
「死別」というのは個々にとって、互いに干渉できない、それぞれ独立したものだと思います。
例えば、同じ「母親」の死でも、僕の母と友人のお母さんでは全く異なるものだということです。
毎日毎秒、どこかで命が生まれ消えゆく中、母はその内の一つであった・・・これは曲げようの無い事実であります。
ですが「喪った」が故の「会う事はできない」というのも事実。
四人兄弟の中でも特に母っ子だった次男の自分は長い事これに随分と苦しめられました。
それは影のようなもので、明るければ明るいほど濃く大きく、必ず自分の足の裏について回り、
暗がりに行くと自分の周りが包まれてしまってました。
以前はその「影」がくっきり出て目で見えてしまう明るみに出るのが怖くて。
逃げようと暗がりに行くと今度は絶望に打ちひしがれてしまい、ずっとその明暗を右往左往していました。
数年たった今。
何が自分をそうさせたのかははっきりと思い出せませんが、
その影は自分と同じ形であり、悪魔のように見えていたそれは自分が作り出していた虚像だとわかってからは恐怖する事は無くなりました。
それまでは「悲しい」「寂しい」一色だった時間も徐々に、
「母だったらこうしてるな〜」とか「母ならこれ好きだわ〜」になっていき、
今では「なんだかんだ沖縄行って人にも生き物にも恵まれて、死なずに済んでいるのは母がいてくれるからやな〜」と思うようになりました。笑
無論、立ち直れたのは支えてくれた方々のおかげである事は言うまでもありませんが、
「母が生前、一緒に過ごしてくれた時間」と、その19年間で「教えてきてくれた事」の割合もかなり大きいと感じます。
生みの親との死別は「自分の人生」の中の一つの括りであって、少なくとも「別れ」ではない。
なんたって遺伝子の半分は母なんですからね〜。
うわ〜〜〜〜〜皆んな若いな・・・(笑)
姉と母と、船橋かどこかのイタリアン食べに行った時だね〜。
皆んなで沖縄のかりゆしウェア着て出かけたんだっけ。
長くなってしまいましたのでこの辺で。
皆様もお体ご自愛くださいね〜〜。
では、ごきげんよう。
お楽しみいただけましたら幸いです^^