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東京オリンピック 無観客化の流れについて思うこと(改訂版)

最近の眠れない夜に、私が考えさせられたことは、人の生きる価値・意義についてだ。

オリンピック無観客の流れについて思うこと

今回の件で、私が考えさせられたことは、人の生きる価値・意義についてだ。

東京オリンピックでは、無観客開催が大部分で、残る一部分でも、自治体内部では意見集約が見られない。こういう時に非常に強いロジックは「人命を最優先にするため」である。

このロジックは強い。反論すれば、人命軽視とされ、邪悪の権化とされる。過剰なバッシングは、政治家のキャリアを断ことすら可能だ。されば、無観客開催を選択することが無難であるということになり、事実、首相を含めてそのように動いているようだ。

一方、ヨーロッパでは、感染者数が激増しようとも、ワクチンの力を持ってしてもなお死者数も増えようものなのに、UEFA EURO2020を開催したように、自らのライフスタイルを取り戻そうとしている。これは日本人からすると、ちょっと理解しがたいだろう。「死んで花実が咲くものか」が日本人の至上価値だとすれば、彼らのしていることは、無謀で愚かであるとされるのが我が国である。

しかし違うのだ、と私は思う。

誰だって死ぬのは怖い。神を天国を転生を信じていても、それは普遍的な感覚である。おそらく問題は、「生の価値」についての捉え方の違いなのだ。わかりやすくするために、極端な例を挙げてみよう。

ここにある絵描きがいる。この人に、あなたの生命と、芸術を全うすることのどちらが大切か、と問いかけたとき、「芸術は不滅だ」と答えるか「死んでは何にもならない」と答えるか。その違いだ。

たとえば仕事、恋人、家族。

人によってそれは様々なれど、生きると言うことは、ただ呼吸し続けるということではない。自分の守りたいもの、手にしたいものを手にするために、主体的に動く自由があってこそ、初めて生は価値を持つ。そのためにたとえ自分の生命を賭すことになったとしても。コロナにおびえて、ただ日々をつなぐ、それでは本当の意味で生きていることにならない。そういう考え方が欧米の根底にはあるのだと思う。

対して、生きるために生きる、生物学的な生存が何よりも優先されるべき価値観として存在するのが現代日本の主流であると、このオリンピック騒動を見ていて感じた。過激な言い方をすれば、それは死者数や平均寿命といった数字にのみ価値を見いだす。たとえベッドに縛り付けられ、チューブを差し込まれたとしても、一秒でも長く生命体としての呼吸をつなぐことが、日本ではもっとも大切なのだろうか。私は疑問に思うし、実は多くの日本人も潜在的に感じているのではないかと思う。

だからこそ、その反論として、鬼滅の刃で示された名台詞、「俺は俺の責務を全うする!」が日本人の心を捉え、呼び覚ましたのだろう。

たとえばスポーツ。

オリンピックに臨むアスリート達。彼らもまた、スポーツ競技に自らの存在価値を賭けた者たちである。たかがスポーツ、などということは彼らに対する侮辱のみならず、跳ね返って自分自身の人生の価値も無意味であるというに等しい。

幸いにして、オリンピック中止にはならないようだが、我々大衆は、観戦を通じて、または芸術家の作品から、あるいは漫画の台詞から感化されることで、鏡に映った自分の生にも価値を見いだそうとするのである。残念なことには、我が母国にはそういった価値観はない。いや、なくしてしまったのだ。

小利口にならずに分別くさくならずに、人生の価値は長さだけではなく、本当に自分が手にしたいなにかを、手にするためにある。そう考えて生きていきたい。


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