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「オタクのアニメ語り」はなぜ空洞化してしまうのか?──氷川竜介『日本アニメの革新』を読む

 2023年3月10日、アニメ評論家・氷川竜介の新著『日本アニメの革新』(角川新書)が発売された。さっそく買って読んだのだが、いろいろ言いたいことが生まれたので、以下本文を解釈しながらいろいろ書いていく。

『日本アニメの革新』(角川新書)表紙

 まずは著者について説明しよう。氷川は、アニメ評論家であり、(文章を読むタイプの)アニメ(や特撮の)ファンなら誰もが知るベテランライターの一人でもある。

 1958年生まれで、日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』をリアルタイムで観た。77年、大学在学中に雑誌『月刊OUT』の「宇宙戦艦ヤマト特集」でデビューした。この特集は子ども雑誌以外で「アニメ」をメインに扱った最初期のものだ。また、当時は『宇宙戦艦ヤマト』ファンクラブの会長を務め、日本初のアニメ評論本とされる『アニメ大好き!──ヤマトからガンダムへ』(徳間書店)にも寄稿していた。氷川は、アニメライターという職業の誕生に立ち会っていた人物なのだ。

 大学卒業後はIT系企業で働いていたが、90年代から文筆活動を再開。97年には初の著書『20年目のザンボット3』 (太田出版)を出版した。01年からは専業ライターとして活動し、エヴァ新劇場版の公式ライターにまでなった。要するに、およそ半世紀に渡って高い水準でアニメと接し続けてきた、日本アニメ界の生き字引きと呼べる存在なのである。

◆アニメ論の「空洞化」を嘆く

 では、そんな氷川は、8年振りの新著である本書で何を論じたのか? 

 冒頭でまず説かれるのはアニメ論の空洞化だ。今日、メディアやSNSでは「日本のアニメは面白い、世界で評判だ」という話が頻出する。しかし、「なぜ面白いのか」「その特長はどのようなプロセスで獲得されたのか」といった部分について専門家が語ることは、──とくに映画や小説などと比べると──少ない。

 それだけではない。アニメは、しばしば「アニメのキャラクター、物語、テーマだけを小説・漫画と横並びに論じた文章」で論じられる。だが、これも「アニメだけに生じる特別なこと」を無視する点で、同じく空洞化している。業界内部の人間もそれを説明することは難しい(氷川が言うならまあそうなんだろう)。つまり、誰も「アニメならではの特徴・魅力」について語ることができない。オタクがアニメの良さを語ろうとしても、そのための語彙が普及していないから、どうしても上滑りしたものになってしまいがちなのである。

 さらに氷川は、現代日本のこんな状況をアニメ論の空洞化と表現する。本書は、その空洞を埋めるために、「アニメの魅力の本質を可視化する」こと、また、それを理解するための歴史的知識を、わかりやすい見取り図、「歴史のラフスケッチ」として提供することを目的として書かれたという。

◆日本アニメの特徴「世界観主義」とは何か

 では、その見取り図とはどういうものか。氷川は、「アニメの魅力の本質=日本製アニメの特徴」の大きな部分を「世界観主義」に求める。これはおそらく著者の造語だ。

 本書で「主義」という言葉は、「作家サイドが自覚的に仕掛けたこと」ではなく、「連動して起きた全体傾向のこと」を指すものとして使われている。また、「世界観」は一般に「その作品がもつ雰囲気や状況設定(デジタル大辞泉)」を指す。総合すると、「世界観主義」というのは、日本アニメ界に存在する「雰囲気や状況設定」を重視する傾向──ということになる。

 「雰囲気や状況設定」を重視するとは、具体的にはどういうことか。氷川さんは、世界初のカラー長篇アニメーション映画であるディズニーの『白雪姫』にその起源を見出す。それまでのアニメーションは短編で、誇張されたキャラクターによるギャグものが中心だった。しかし長編映画となると、全編ギャグではとてももたない。観客が映画に感情移入するために、シリアスな物語世界──共感に値するリアリティをもつ「世界」が必要になってくる。そこで、アニメには「漫画的な非現実性」を抑制したシリアスな雰囲気や設定が求められるようになった。これが、世界観主義のはじまりとされる。

 しかし、この時点では、「世界観」はまだアニメにおける主役ではない。世界観主義が日本で大きく発展したのは、『宇宙戦艦ヤマト』においてだという。それまでのテレビアニメは「テレビまんが」などと呼ばれ、かつての短編アニメーション映画と同じく誇張された荒唐無稽なキャラクターに重点を置いた、子ども向けのものである。大人向けも存在はしたがあまり支持されなかった。この傾向は氷川によって「キャラクター主義」と呼ばれる。だが『ヤマト』では、タイトルからしてキャラクターの名前ではなく「戦艦の名前」が使われている。主役はキャラクターではなく戦艦──つまり設定・世界観の側なのだ

 この主役の交代は、日本アニメに大きな変化をもたらしていく。第一に、シリアスで重厚な映像が実現したことで、中高生以上にまでアニメファンの層を押し広げた。第二に、セリフで話すキャラクターではなくビジュアルで表現される世界観を主役にしたことで、国境の壁を越える力が身についた。第三に、世界観への興味からもたらされる需要をきっかけに「アニメ情報誌」が生まれた。その「アニメ情報誌」でのインタビューや特集記事をきっかけに、それまで極度のマニア以外には知られていなかった宮崎駿や富野由悠季といった「作家」への注目が高まり、その作家性に注目する風土が生まれた。

 観客としてのオタク、国際性、作家主義……。その後の日本アニメを特徴づける要素が、『ヤマト』の世界観主義的作風をきっかけに誕生した。アニメは、ビジュアルで世界観を表現することにかけては小説や実写映画よりも優れているので、「アニメならでは」の独自性も生まれた。世界観主義はその後も『ガンダム』、ジブリ作品、『AKIRA』、押井守、『エヴァ』を経てさらに進化していく。やがて、アニメは作家の哲学的な世界観(人の世界の捉え方)までビジュアルで表現できる力を身につけ、ついには新海誠作品を生み出した──。これが、日本アニメのたどってきた歴史だという。

◆それは「アニメの特徴」なのか

 以上、文中では世界観主義の内容を具体的に説明してくれないので、かなり恣意的に補完しなければならなかったが、大きな間違いは無いはずだ。本書で語られる日本アニメ史は、大雑把にまとめればこのようなものである、のだが──こうした語りに違和感がないわけではない。

 真っ先に目につくのは、世界観主義が、ハリウッド映画である『ブレードランナー』や『スターウォーズ』にも共通するものであるとされているところだ。洋画にも共通するという「ビジュアルで世界観を表現することを重視する」世界観主義は、ディズニーやCGを使える大作邦画にも当たり前にみられるものであり、それは日本アニメの〝特徴〟とは言えないのではないか。

「キャラクター主義」が世界観主義と対置されていることも不思議だ。今の(深夜・キッズ)アニメファンの大半は、キャラ萌えや原作再現に大きな比重を置いている。大好きなアニメの監督の名前を知らない……というのも珍しいことではない。こういう状況のもと、世界観主義で日本のアニメ史をまとめるのは相当無理があるのではないか。そう感じてしまう。

◆縦の比較、横の比較

 私はここで、氷川の考えが間違っているとか、釈迦に説法みたいなことが言いたいのではない。違和感の原因は、何らかの誤りではなく、「アニメ」という言葉が指す対象と、その特徴をとり出すための方法の異質さにある。

 私にとって、また私と同世代の多くの人にとって、アニメとは、日本で作られるアニメーション全般を含む言葉である。しかし、氷川──とおそらく同世代のアニメファン──にとって、「アニメ」とは「中高生以上を主な対象とした、高いクオリティや作家性を持った日本のアニメーション作品」を意味していて、「アニメの特徴」は、そうでない日本のアニメーション作品との差異から導き出されているのではないか。

 対照的に、「日本アニメの特徴」を考える時、私が真っ先に考えていたのは、実写作品や海外アニメーションとの違いだった。これは言い換えれば、アニメーションの特徴日本の特徴である。これは他ジャンルの歴史を語る際には一般的な姿勢で、たとえば、同じジャンル史として日本映画を扱った四方田犬彦『日本映画史110年』は、能や歌舞伎からの影響や、京都の存在をその特徴としているし、ゲーム史を扱ったさやわか『僕たちのゲーム史』はそのジャンル的特性に重点を置いている。

 いや、他ジャンルだけでなく、アニメにおいてもそうだ。アニメーション作家のデイヴィッド・オライリーは、「アニメーション基礎美学」という記事で「〔アニメーションの〕作品世界が信じうるものとなるか否か、それは、どれだけの一貫性があるかということだけにかかっている」と、実写と比較してアニメーションの特徴を分析しているし、それを翻訳したアニメーション研究者・土居伸影も、著書『21世紀のアニメーションがわかる本』では、「個人的なリアリティ」というアニメーションが持つ性質に注目している。

 ところが、氷川はそう考えない。彼は、日本アニメの特徴を、「テレビまんが」と呼ばれていた頃のキッズアニメ、ファミリーアニメとの違いで捉えている。他ジャンルや他国ではなく、過去の同ジャンルとの違いを強調し、日本アニメ内部の進化によってアニメを定義しようとする。横ではなく、縦で比較するのだ。特徴を考える際の方法が根幹から違う。もちろん、「アニメ」という言葉の使用自体が、ヤマトと共に始まったという話もあるので、氷川のそれの方が本来的な考え方ということもできる。

◆「アニオタ保守本流」の世界観

 異質にみえるこの考え方に触れて、私が連想したのは「アニオタ保守本流」という言葉だ。これは評論家の古谷経衡が昔使っていたハンドルネームで、この「保守本流」は一般に、自民党内の吉田茂の系譜を引く勢力を指す……というかそれ以外の意味で使われているのを見たことがないから、「俺こそがオタクの伝統を引き継ぐ存在である」ということを意味する名前だったと思われる。

 彼が当時この名前を使って発していたメッセージは、概ね次のようなものだ。

 時代は「萌え」から「燃え」へ。「萌え」「アキバ」ばかりがもてはやされる昨今、古き良き日本の芸術性・作家性に優れた我が国のアニメーションとそのファンは、いまや社会の片隅に追いやられています。/アニメーションは我が国が世界に誇る文化です。/それは、日本製のアニメがどんな時代のどの国の人々にも共感をもたらす、普遍的な価値観とメッセージ性を内包しているからに他なりません。/当ブログ、「アニオタ保守本流」では、悪戯に「萌え」や「アキバ」を意識した一過性の消耗品のようなアニメやそれに類する価値観を黙殺・或いは糾弾し、真に普遍的な価値観と製作者の芸術家的良心に貫かれた『良質なアニメ』を全力で応援したいと思っております。

https://aniotahosyu.hatenadiary.org/entry/20070310/1219617236

 ここで表明されているのは、「宮崎駿・富野由悠季・押井守・庵野秀明ら作家の価値観とメッセージが色濃く出た作品」こそが日本アニメの伝統であり、これを保守するのがわれわれオタクの使命である、という意志だ。萌えアニメに殺意を抱いている部分を除けば、上で紹介した氷川の考え方とかなり似ている。

 ちなみに、この思考は、当の自民党保守本流とも似ている。彼らは、(例外はあれ)憲法改正にも非武装中立にも大したやる気を持たず、冷戦下で55年体制(自民一党優位だが、野党が3分の1いるので改憲はできない)と日米安保を今のまま維持しようという、極めて現状維持的な志向を持つグループだった。そして同時にそれは、60年代の平和で安定した日本を基準値として、そこからの逸脱を考えない思想でもあった。

 氷川(と古谷)の場合、この60年代の平和が、80年前後のアニメブームで起きたアニメの大変革期と、その頃にアニメファンが抱いていた理想にあたる。この理想とはどんなものか。アニメ評論家・藤津亮太の文章を引いてみよう。

「作家の時代」。思い出せばこの本〔筆者注:『アニメ大好き!』〕が出たころのファンは障害(たとえばスポンサーの意向とか)を排し、作家性が前面に出た作品に憧れていた。『アニメ大好き!』の中ではそれを〈悲願〉とまで言っている。/『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)、『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督)、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(河森正治監督)が公開された時、そこには未来が感じられた。それぞれの作品が、それまでアニメを縛っていた何かを突破して別のステージへ出た感じがしたからだ。

出典:藤津亮太「2004年アニメ映画を振り返って」『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)

 80年前後のアニメファンにとって「アニメ」とはこのような理想と共にあるものだった。『アニメ大好き!』の執筆陣の一人である氷川にとっても、もちろんそうだろう。彼らにとって、アニメは「テレビまんが」から離陸して生まれたものだった。そこで決定的な役割を果たしたのが世界観主義と形容できる流れであり、その変化だけで日本アニメ史全体を語ろうとするのが本書である。

 だから、本書は『エヴァ』までで大半の記述が終わってしまう。まるで、保守本流的な価値観を反映した、GHQの占領が終わった瞬間に内容を喪失する高校日本史のように。氷川は、「まだまだ現在進行形」というエクスキューズこそ入れているが、「この20年余りは、アニメ文化、産業の「収穫期」に該当すると考えています。」と書き、『エヴァ』から『君の名は。』に至る20年間と、その後の数年間をすべてスキップしてしまう

◆「保守本流」はいつ滅んだか

 ここに「アニオタ保守本流」の限界がある。先ほど引かれた、68年生まれ(氷川より10歳下)の藤津の文章も、作家主義の理想を体現した監督たちの作品(押井守『イノセンス』、大友克洋『スチームボーイ』、宮崎駿『ハウルの動く城』)が並び立った2004年の状況に言及しながら、その限界について書いている。

 つまり、ボクらは今、あのころの〈未来〉に立っているというわけだ。/ここで問題になるのは、それが実現してどうかってことになる。で、正直言うと「なんとも大作アニメのこの先が見えなくて困ったな」というのが今の気持ちなのだった。/「作家性の強いアニメ」という「夢」が一九八〇年代からあったということは、逆に言うと、当時から実力ある監督が俺様映画を撮れることは、十分予想の範囲だったということでもある。それでもそれが「夢」でありえたのは、それが達成されることでアニメの何かが変わるんじゃないかという予感があったからだ。ところがそれが現実になってみると、そこには「徹底的な俺様映画」があるだけで、アニメの〈何か〉は変わらなかったというのが、今回の「困ったな」という感想の正体なのだ。

出典:藤津亮太「2004年アニメ映画を振り返って」『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)

 あの頃──80年前後──の夢である「作家主義」のアニメ映画が当たり前のように存在するようになった2004年、藤津はその現状に飽きたらなくなっていた。おそらく、同時代の多くのアニメファンもそうだったはすだ。今から振り返ると、氷川の熱く語る世界観主義のアニメが量産されていた当時、オタクたちの重心はアニメよりもエロゲやラノベに移っていたように見える。藤津はさらに続ける。

 さらにいうと現在は一九八〇年代以上にこうした大作と定番作品(アニメにおけるいわゆるプログラムピクチャー)の棲み分けは進行していて、大作が俺様映画であればあるほど、全体状況の固定化を印象づけることになる。たとえば『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』と『同 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』が、なぜあれほどにインパクトがあったかといえば、この棲み分けの構図を揺るがしたからだ。

出典:藤津亮太「2004年アニメ映画を振り返って」『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)

 これと同じようなことを、90年代に『エヴァ』を大絶賛していた頃の思想家・東浩紀も書いている。

 八〇年代の半ば以降、日本のアニメ作品と「オタク的なもの」は、一方で子供向けの低品質なテレビアニメへ、他方で高品質ではあるものの一部マニア向けにすぎないOVA(オリジナル・ヴィデオ・アニメーション)へと強力に二極化し続けてきた。/オタク的要素の導入は、もはや作品の受け手を限定する結果しか生まない。逆に、メジャーの流通回路はもはやその種の要素を受けつけない。/もはや、オタク的な志向(それはメタフィクション的実験性でもよいし、アングラ的想像力でもよいのだが)を抱えたアニメ作品が、開かれた回路で流通することはない。

出典:東浩紀「庵野秀明は、いかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」『郵便的不安たち』(朝日新聞社)

 こちらの文章は、その棲み分けを打ち破った『エヴァ』は素晴らしい……と続いていく。片方はプログラムピクチャー/俺様映画の棲み分けについて、片方はテレビアニメ/OVAの棲み分けについて語っているが、いずれにせよ、世界観主義を体現した巨匠たちの作品では満足できなかったことには変わりない。二人とも、90年代から00年代にかけてのアニメは停滞していて、それを打ち破るためには「棲み分け」からの脱出が必要だ、という見方で共通していたのである。

 そして結局、アニメ論の空洞化とは、このような問題意識が受け継がれないことにあると言える。氷川の説く「世界観主義」は、80年前後の大変化と、その頃のアニメファンたちが持っていた見取り図を説明することができる。しかし、それは早くも90年前後には陳腐化して役に立たなくなっていた。つまり「アニオタ保守本流」的な見方は……半世紀前に生まれ、四半世紀前にすでに滅んだ──歴史を説明できなくなった──歴史観だと言えるのだ。

◆のっぺりとした歴史はいらない

 私にとっては、まだ藤津や東の歴史観の方がしっくりくる。歴史はやはり、停滞とそこからの脱出として描かれるべきだ。世界観主義に則って、単線的に発展してきたという見方は、いくらビギナー向けの新書だとしても単純すぎ、一面的すぎる。この「アニオタ保守本流」的思考のもっとも良くない面を反映しているのが、2019年にNHK「歴史秘話ヒストリア」で使われた図だ。

 一目でわかる「空洞化」具合である。第一次アニメブームの頃に「アニメ」という言葉は無かったのだから、当然、これは後で作られた歴史だ。第三次アニメブームの存在も、ウソ同然だろう。90年代後半、たしかに『エヴァ』を中心とする盛り上がりはあったかもしれない。しかしその熱が『進撃の巨人』まで繋がっていた、と考える人が何人いるだろうか。「保守本流」的な価値観しか持っていない人間には、歴史がこう見えてしまうのだ。

 この年表のくだらなさは、自然災害とオリンピック・万博だけで構成された無難な戦後日本史年表のくだらなさと似ている。それぞれの時代で、人は多様な価値観を持って過ごしてきた。歴史を継承するとは、その問題意識と美意識、世界観を継承することである。こんな良いものもありました、こんな良いものもありました、とヒット作を羅列する年表は、無いよりはあった方がいいが、決して褒められたものではない。

 祭りと復興だけが強調され、公害や疑獄の無い日本史がありえないように、『ヤマト』や『ガンダム』だけが強調され、停滞や失望の無い日本アニメ史もありえないし、つまらないし、意味がない。氷川の世界観を継承することは大切だが、それだけでは足りない。なので、本当にアニメについて知りたい人間は、本書を買って読んだ後、『メディア芸術・研究マッピング アニメーション研究の手引き』も読んでください。お願いします。

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