見出し画像

なぜ観るとムカつくのか?──映画『ドライブ・マイ・カー』

 新宿バルト9に『ドライブ・マイ・カー』を観に行った。深夜1時から朝4時まで上映するレイトショーだった。ネットニュースでロシアの劇作家・チェーホフの作品『ワーニャ伯父さん』との関係が取り沙汰されていたから、事前に青空文庫で日本語訳を読んだ。それが良くなかったのだが……。

 映画は、ベッドの上で夫婦が何かしらの物語について話しているところから始まる。夫は劇団の俳優・演出家で、妻は脚本家。広い家で、上質な家具に囲まれる豊かな暮らし。唯一の子どもが肺炎で亡くなってからは二人で暮らしている。普通でないのは、妻がセックスの後に無意識下で脚本を創作しだす不思議な性質を持っていることと、夫が軽度の緑内障にかかっていることだけだ。

 どちらも仕事は順調で、夫にはしばしば出張があった。しかしある日、出張の予定がキャンセルになって家に帰った夫は、妻が若い男とセックスしている姿を目撃してしまう。だが夫は何も言わずにやり過ごす。そして別の日、妻から意味有り気に今夜話すことがあると告げられた夫が家に帰ってみると、妻は倒れて死んでいた。その晩妻が何を言うつもりだったのかは、永久に分からなくなった。

 ここでようやく本編がはじまる。妻を失って2年後、夫だった男・家福(かふく)は、演出の仕事をするために広島を訪れる。すると運営は、安全管理のためと、専属のドライバーに車の運転を任せるよう家福に迫ってきた。妻の遺した『ワーニャ伯父さん』の録音を聴きながら車を運転することを習慣にしていた家福は、嫌々ながらその空間に、若い女性のドライバー・みさきを招き入れることになる。

 演者のオーディションが行われ、演劇の準備が進んでいく。多言語演出を行う家福の演劇では、韓国語、中国語、日本語、英語、手話までもが飛び交い、役者たちは互いに言葉が通じないまま劇を演じる。演目は『ワーニャ伯父さん』。家福はソーニャ役に言語障害を持つ女性を、ワーニャ役にかつて妻と不倫していた若手俳優・高槻(たかつき)を選ぶ。

 練習が進む中、家福はドライバーのみさきと共に様々な人と会う。家福がみさきの運転技術を認め、みさきも家福の演劇に興味を持つことで、二人はやや打ち解ける。高槻が家福の知らない妻の話をした夜、ルーフを開け、車内でタバコを吸っているシーンで、二人は互いを心をさらけ出すにふさわしい相手だと認めている。

 さらに練習が進み、演劇は完成に近づく。劇までもうすぐというところで、高槻が一般人への暴行で逮捕され、ワーニャの代役を立てなければならなくなる。運営は家福自らワーニャを演じることを提案するが、家福はチェーホフの台本に身を任せることに耐えられなくなっていた。

 悩む家福はみさきに頼みこみ、北海道にあるみさきの実家を訪れる。みさきは二重人格だった母との付き合い方がわからなかったこと、雪崩の時に母を見捨ててしまったことを家福に告白する。家福も妻の死は自分の行動次第で防げていたかもしれないことを告白し、「僕は、正しく傷つくべきだった」「本当をやり過ごしてしまった」と自分の妻への接し方を後悔する。二人は抱き合い、柔らかい表情になる。

 演劇の本番。家福演じるワーニャに向かって、ソーニャ役の女性は手話で語りかける。「わたしたちは生きていきましょう」。悲しみながらも人生を肯定するセリフの後、時が経ち、コロナ禍の韓国で幸せそうに車を運転するみさきのシーンでエンド。

■癒し系映画としての『ドライブ・マイ・カー』

 映画で表現されているものは、ワンフレーズで表せば「リベラルな癒し空間」だ。この映画では、リベラルさと癒しを担保するために沢山の細かな部分が機能している。

 村上春樹は、デビュー作『風の歌を聴け』に特徴的なように、主人公と会話のテンポや価値観が根本的に異なる人間を登場させない傾向がある、言い換えれば、主人公と同質の人間のみで構成されたストーリーを好んでいる。この性質はともすれば「自分以外の人間を描けていない」と批判されても仕方ないようなものではあるが、同時に、人間関係を摩擦や価値観の衝突ではなく、共存や癒しとして描くことができるという美点でもある。村上春樹の世界観は狭い代わりに、そこにいる人物に対してとても優しい。村上作品の定型といえる、自分の内面を直接見つめられない男性が、何かしらの出来事を経て心の傷を癒やし、人生を肯定できるようになるまでの物語は、このような世界観のもとでしか存在できない。

『ドライブ・マイ・カー』もまた、そのような村上作品の伝統を受け継いでいる。劇中には、主人公と根本的に価値観を違えるような人物は登場しない。高槻は一見そのような人物に見えるが、実際のところ彼は家福の演出家としての仕事を認めていて、家福の価値観を根本から揺るがすような行動を取ることはない。

 唯一主人公とディスコミュニケーションを起こしているのは妻だ。妻の不倫が家福に心の傷を産み、その真意が明かされないまま妻が死んでしまったことで心の傷は深くに潜り、修復不可能なものになってしまった。この心の傷に向き合い、癒すまでの過程が本作とも言える。だが、妻は本編がはじまる数年前の時間軸で亡くなっているし、視聴者が人物紹介として映画を見る段階でストーリーから離脱するので、一人の人間というよりは舞台設定の一部として認識されるキャラクターになっている。だから、本編部分で主人公と決定的に対峙する人間はこの映画には登場しない。

■リベラルだらけの世界

 以上のような人間関係の描き方によって、村上春樹作品の「いつもの感じ」である同質性を持った世界観が、この映画でも維持されている。

 だが『ドライブ・マイ・カー』が村上春樹の原作と決定的に異なるのは、この同質性の中身がリベラルに寄っている……寄りすぎている点だ。村上春樹作品の同質性を「ノンポリだらけ」と呼ぶことが可能なら、この映画の同質性は「リベラルだらけ」と呼ぶのがふさわしい。そのリベラルさは、登場人物の職業や雰囲気から会話のテンポ、広島というロケーションまで、映画の隅々から発せられている。

 エンタメの舞台裏を描いた映画には、利益を最優先する運営や自らの理想を諦めている俳優、枕営業を強いられる若い女性といった描写がつきもののはずだ。ところが、広島の公的予算によって運営される地方演劇という設定がそれらの全てを消し去っている。映画で演じられる『ワーニャ伯父さん』には経済上の障害も人間関係の対立も介在しない。その地方の誇りを背負ったり、資本主義と対決することもない。ノルマもない。ただ純粋に俳優たちによって演劇が行われている。これは、リベラルにとって理想的な芸術のかたちだろう。

 また本作は、劇中で登場する「ニュアンスを入れずに台本を読む」という練習法に象徴されるように、会話によって登場人物同士の価値観を衝突させて話が進んでいくという〝劇的〟な話の進行を拒否している。主人公の心の傷が癒される過程は、誰かに劇的に説得されることによってではなく、高槻やドライバーのみさき、演者との交流を通して、家福という人間が少しずつ自然に変容していくことを通して描かれる。誰かから誰かに価値観が押し付けられるということがない。この人間の在り方も非常にリベラル度が高い。

 そして何より、互いに言葉のわからない多国籍の俳優たちが演劇を通じて心を通わせていくさま(しかもわざわざ広島で)は、それだけでリベラル垂涎の一品といえる。

■なぜワーニャがいないのか?

『ドライブ・マイ・カー』では、描かれている舞台、人間の在り方、社会との関わりなど全てがリベラルに満ち溢れており、それでいてリベラルに挑戦するような価値観を持つ人間がまったく登場しないという、異常すぎる同質性を持った異常な世界観が展開されている。

 だがこの映画にはもっと異常なところがある。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』をかなり明白に題材にしているのに、ワーニャ伯父さんらしき人物が劇中にひとりたりとも出てこないのだ。

 話をわかりやすくするために、『ワーニャ伯父さん』について説明しておこう。『ワーニャ伯父さん』は19世紀後半のロシアを舞台にした作品で、田舎で暮らし、かつては持っていた人生のやりがいのようなものをすっかり失くしてしまった老いぼれたちの姿を滑稽に描くという趣旨の劇だ。

岩波書店HPより引用

 中でもワーニャ伯父さんは、自分の人生を義理の弟を支えるために使ったにも関わらず、その弟の凡人性に年老いてから気づいてしまい、すっかり生きる希望を失っている。言い寄った女からは拒否され、その女が自分の友人と不倫する。もう47歳になっているのに、女性経験も、自分で成し遂げたこともなく、人生がああだったら、こうだったらと妄想して周囲から呆れられる。挙げ句の果てには弟を逆恨みしピストルで殺そうとするが、それも失敗する。まさしく人生の敗者だ。友人のアーストロフとのある会話が、それを象徴している。

ワーニャ どうにかしてくれ! ああ、やりきれん。……僕はもう四十七だ。仮に、六十まで生きるとすると、まだあと十三年ある。長いなあ! その十三年を、僕はどう生きていけばいいんだ。……
 ねえ、君……(ぐいと相手の手を握って)わかるかい、せめてこの余生を、何か今までと違ったやり口で、送れたらなあ。きれいに晴れわたった、しんとした朝、目がさめて、さあこれから新規まき直しだ、過ぎたことはいっさい忘れた、煙みたいに消えてしまった、と思うことができたらなあ。(泣く)君、教えてくれ、一体どうしたら、新規まき直しになるんだ。……どうしたらいいんだ。……

アーストロフ (腹だたしく)ちえっ、しようのない男だなあ。今さら新規まき直しも何もあるものか。君にしたって僕にしたって、もうこれで、おしまいだよ。

ワーニャ やっぱりそうか。

アーストロフ ああ、断じてね。
青空文庫「ワーニャ伯父さん」より一部改変・省略して引用。

 ワーニャはもはや心を入れ替えても人生のやり直しなどきかない年齢になってしまっているのである。『ドライブ・マイ・カー』でも最後に演じられる『ワーニャ伯父さん』のラストシーンでは、そんなワーニャ伯父さんを、同じく人生の敗者であっても希望を見失わずに生きる姪のソーニャが慰める。

ワーニャ ソーニャ、わたしはつらい。わたしのこのつらさがわかってくれたらなあ!

ソーニャ でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不幸せな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振り返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……私そう思うの、どうしてもそう思うの。……(ハンカチで伯父の涙を拭いてやる)お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いてらっしゃるのね。……(涙声で)あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……(伯父を抱く)ほっと息がつけるんだわ!
青空文庫「ワーニャ伯父さん」より一部改変・省略して引用。

 この嘆きがこの映画に出てきただろうか? 映画を見ている最中、そんな違和感が頭を覆っていた。もちろん本編では明白にワーニャ=家福、ソーニャ=みさきという構図が意識されている。だが家福はワーニャではない。『ドライブ・マイ・カー』に、このワーニャ伯父さんのような、とことん情けない、人生を嘆くしかないような男は、わずかたりとも出てこなかった。

 家福はワーニャと同じような年齢だが、19世紀ロシアとは寿命観が違う。健康的な身体でゆたかな生活を送っている家福は、順当に行けば70代までは健康な生活を送れるはずであり、ワーニャのように人生の終幕を身近には感じていない。また家福は、海外の演劇祭の審査員に呼ばれたり、公的予算で仕事を依頼されたりするような演出家だ。芸術的職業についていることも含めて、同世代の男性の中でもこれ以上ないほど立派な社会的地位をもった男性なのだ。

 つまり……この映画では、『ワーニャ伯父さん』に含まれる、人生の敗者の嘆きと呼べるものが意図的にオミットされている。それで何が起こっているのか? 敗者たちの慰めといえる劇が翻案され、人生の勝者の心の傷が勝者同士の交流によって癒されるという筋書きにすり替わっているのだ。

『ワーニャ伯父さん』は元々、この映画を絶賛するようなゆたかなリベラルにとって都合の良い劇ではない。もし映画の中に、自分の人生で何も成し遂げることができず、自分と世の中を憎んでいる年寄りの男性が出てきたら、そいつの価値観は間違いなくリベラルではない。世界観の同質性を脅かす存在になってしまう。

 ゆたかなリベラルの世界観と敗者の世界観が交差するさま、すなわち社会の格差と断絶を描くと、韓国映画『パラサイト』の世界観になる。それはそれで意味があるはずだが、『ドライブ・マイ・カー』はその道を意図的に選ばなかった。監督の濱口竜介は今回、原作の選定から脚本作りまで全てを主導していた。濱口は負け犬が映画に出てくることを拒否し、リベラルな同質性を守り抜いて、あくまでゆたかな人々にとっての癒しの空間を作ることを選んだ。

 結果、アジアのエキゾチックさも手伝って、『ドライブ・マイ・カー』は欧米のリベラルな人々にとって究極の癒し映画になった。例えばニューヨークタイムズでは「悲しみ、愛、仕事、そして芸術が持つ魂を支え、人生を形成する力についての物語」、ニューヨーカーでは「作家、俳優、演出家たちの内なる苦悩を壮大なスケールで描いた文芸ドラマ」と称賛された。だがこのような評価の裏にあるのは、おそらく、アメリカの映画人たちのリベラルと芸術に対する信頼が揺らいでいるところに、アジアという外部から、リベラルと芸術の素晴らしさをこれ以上ないほど肯定的に、しかも彼らにも馴染みのある題材で描いた作品が到着したというタイミングの妙だろう。

 いくら映画賞をとっても『ドライブ・マイ・カー』の本質は変わらない。それはゆたかな人々への癒しであり、芸術とリベラルの世界の全面的肯定であり……、「そんな映画見てられるか!」という気持ちを持つ人は我が同士だ。こんなの老いぼれの勝ち組金持ちにとっては良い映画でも、若者の見る映画じゃなくないか? 俺はもっと別のなにかが見たい……。資本主義に反逆し、価値観が衝突しあい、既存の世界をくつがえす! そんな映画が見たいお年頃であり、そんな若者に必要な映画は『ドライブ・マイ・カー』ではなくて直前にアマプラで観た『ファイトクラブ』だった。くだらない映画見てる暇あるなら『ファイトクラブ』を観ろ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?