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政治家田中角栄紆余曲折な不屈の政治家人生

日本では政治家はあまりいいようなイメージがなく、古臭いイメージがつきまといます。しかし、昭和の混乱期から高度経済成長期にかけて急激な成長を遂げていく時期においては、政治家の存在は非常に大きく、1人1人の政治家にしっかりとした力と日本の国益を考える余裕がありました。その中で最も政治家らしく、粗削りながらも日本を作り上げていった政治家がいます。それが田中角栄氏です。田中角栄氏がどのような政治家人生を歩んだのか、探っていきます。

今ではあり得ない最終学歴が「小卒」

田中角栄氏は1918年5月4日生まれで現在の新潟県柏崎市の出身です。8人兄弟の次男だった田中角栄氏でしたが、兄は早くに亡くなり、田中角栄氏以外には男はおらず、2人の姉と4人の妹の中でいました。両親は共働きで、父は牛馬商、祖父は宮大工と農家でありながらそれとは別の仕事をしていましたが、父親が事業に失敗し続けたことで、極貧生活を強いられることになります。

1933年、田中角栄氏は二田高等小学校を卒業します。当時は今のように小学校中学校高校ではなく、尋常小学校と高等小学校があり、高等小学校は中学2年までにあたります。現在では小学校卒業が最終学歴にはなりませんが、この当時は小学校卒業が最終学歴になるケースも見受けられました。家が貧しかったこともあり、田中角栄氏はすぐに土木の現場に出ますが、1か月で辞めてしまい、その後、1934年に東京へ上京、土木科がある学校に通いながら、建設会社で住み込みで働くようになります。

1936年に学校を卒業し、建築事務所で働くことになったものの、その事務所のトップが日本軍に徴兵にとられたことをきっかけに、自ら建築事務所を立ち上げます。人脈を生かして様々な仕事を引き受けていき、同時に勉強も一生懸命行って実務経験を重ねるものの、田中角栄氏も徴兵の年齢に。数年間日本兵として働いたものの、肺炎になったことで日本に戻され、1941年再び建築事務所を開設します。このタイミングで結婚をし、1944年には長女である田中真紀子氏が誕生します。戦争が終わり、新たな日本が始まる中で、政治家としての人生がスタートしようとしていました。

良くも悪くも波乱ばかりの政治家人生

男性も女性も誰もが投票できる最初の選挙になったのが1946年の総選挙。戦時中に議員に献金を行ったことで、その議員の依頼を受けて新潟から立候補した田中角栄氏。ところが、お金は勝手に使われ、支援してくれるはずの人が立候補するという散々な立ち上がりとなり、結果は落選。日本国憲法制定後初の総選挙になった翌年にも再び立候補すると、今度は前回の反省もあってか、定数5の選挙区で3位で当選します。その後、党の方針と異なる投票行動を行って離党し、離島仲間で組んだ院内会派が自民党の前身にあたる民主自由党となります。この時の党首は吉田茂氏で、この時、吉田茂氏と田中角栄氏は仲良くなり、事あるごとに手厚い待遇を受けることになっていくのです。

吉田茂内閣が発足し、自らは法務政務次官となったものの、このタイミングで田中角栄氏への賄賂疑惑が浮上、検察の家宅捜索を受けて逮捕されます。そして、この直後に衆議院が解散、田中角栄氏は牢獄で立候補を余儀なくされるのでした。保釈をされても金もなければ時間もない、そこで田中角栄氏は地方部を回る戦力をとり、これがハマって2位での当選を果たします。裁判は一審こそ有罪だったものの、二審で逆転無罪。田中角栄氏を襲った最初の大ピンチはこうして乗り切ることができました。

その後は主にインフラ整備で名を上げていき、公営住宅や道路の整備、ガソリン税を道路を作る特定財源とするなど今の日本を形作るものを整備していきました。他にもテレビ局と新聞社のクロスオーナーシップを推し進め、放送免許を当時の郵政省が許諾する形にしたことで、全国の郵便関係者の絶大な支持を集めます。その間も地元の陳情を受け入れ、何が何でも陳情を実現させていく中で地元の支持を拡大、1952年の総選挙では初めてのトップ当選を果たすのでした。

総理大臣からロッキード事件、無念の死

内閣や党の要職につき、様々な形で辣腕を奮ってきた田中角栄氏、1972年には佐藤栄作氏の派閥から多くの議員を引き抜き、田中派を結成、その直後には日本列島改造論を発表します。この内容が非常にインパクトがあり、人気を集め、自民党総裁選で勝利、史上初めて大正時代に生まれた政治家が総理大臣となり、その支持率は70%を超えました。中国に渡って日中国交正常化を実現、当時のソビエトに行き、日ソ共同声明を発表するなど、外交面でも存在感を発揮します。しかし、強かったはずの選挙ではなかなか結果を出せず、苦しい立ち回りを強いられます。

その最中、田中角栄氏を政治スキャンダルが襲い掛かりました。それが田中金脈問題です。地元のためなら何でもやるというやり方があまりにも乱暴で、やり方が豪快過ぎたこともあり、目をつけられた形です。しかし、スキャンダルはこれだけにはとどまりません。1976年、ロッキード事件が起こります。7月には逮捕され、自民党を離党、無所属となります。ただそこは田中角栄氏、過去にも同じ経験をしていたからこそ気持ちは強く、後に自民党の総裁選が波乱含みな状態が続いた時期に、キャスティングボードを握る存在へとなっていきます。ロッキード事件では一審有罪、直後の総選挙では圧倒的な支持を集めて再選を果たすなど、地元からの絶大な支持を集めていた田中角栄氏。そして、無所属になってからの方が政治家としての強さに磨きがかかる展開になります。

しかし、それも長くは続きません。1985年、脳梗塞で倒れ、様々な障害が残ってしまったことで政治活動はできなくなります。1986年の総選挙でも田中角栄氏は選挙活動が全くできず、支持者たちが活動していく中でなんとか当選するものの、その期間も政治家としての活動はできず、段々と力を失い、1990年には政界引退を発表します。1993年、田中角栄氏の地盤を田中真紀子氏が引継ぎ、その応援に田中角栄氏が入りますが、権勢をふるったあの当時の田中角栄氏と比べて変わり果てた姿に、驚きを隠せない人もいたほどです。それからしばらくして、田中角栄氏は75歳の生涯に幕を下ろします。

まとめ

田中角栄氏の生涯が最後まで波乱続きでしたが、人心掌握術はどの政治家よりも長けており、大蔵大臣時代には、ナメてかかってきた大蔵官僚たちを最終的には手玉にとっていきます。たとえ優秀な官僚だろうが、ノンキャリアだろうが、名前はしっかりと覚えて気配りをする姿に多くの官僚がなびいたとされています。また、秘書を含め鉄壁のガードで田中角栄氏を守っていく姿は有名で、後に政治評論家としてマスコミに登場する早坂茂三氏もその1人です。

もしも脳梗塞で倒れていなければ、どんな未来が待っていたのか、このたらればは誰しもが考える部分です。少なくともあと10年は政治家として現役を貫けていたはずです。評価は真っ二つに分かれますが、これぞ政治家と呼べる存在だったことは間違いありません。

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