許容には重みが欲しい

 自分が口にしたことのある思想以外は、「あぁ解ったわ」なんて思わない方がいいよね。


 今日もTwitterが殺伐としているのはみなさんご存知の通りだ。ああいうのを見て「心が狭いんだな」とか思う人もそれなりにいることと思う。

 許容には重みが欲しい。

「心の狭さを思って,でも思うに止めるよ」 くらいの許容では,些か重みが足りないんじゃないですか?なんて言ってみる。

 模範解答なんて態度のでかいことを言うつもりはないけど、僕が一番好きな反応は「こんなものも用意されているのか」なのかな。
ただ見つめるだけであるような態度が、重みを産むんじゃない?

 視野を広げよう なんて良く言うけど,別に視野の広さと許容の重みは大して関係ない。(だから残酷なのかもしれないね)
多くを知っていることは、許容を軽くする事すらある。ある。

 記憶のシルエットというヤツが勝鬨のマンションの麓の公園にあった。現代アート?
たしかに,記憶を思い返すとき,シルエットが用意されていると嬉しいかもしれない。
このnoteだって,記憶のシルエットとして機能してくれることだろう。

そういえば,“記憶のシルエット”自体はすこし分かりづらい構造をしていた。
あの日,あの場所を思い出すのに,そのシルエットがうまく浮かばないというのは,いや,良いのか。

 




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