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ゲオルク・ジンメル「橋と扉」
橋についての本がないかと思って本棚を見ていたら、ゲオルク・ジンメルという人の「橋と扉」というタイトルのエッセイがありました。
超難しい!
何言ってるかわからない!
でも、必死で考えてみました。
ジンメルは、ドイツの哲学者、社会学者なんですね。
マックス・ウェーバーとかと同時代人。
色々なエッセイで、鋭い着眼点を示した人。
形式社会学というジャンルを作った人。
よくわかりませんが、そういうふうに言われているようです。
ジンメルさんは、なんだろう、「橋」という事物に、人のあり方を見ている気がしました。
外界の事物の形象はわれわれにとって両義性をもっている。すなわち、自然界においてはすべてのものは結合されているとみなすことができると同時に、すべてのものは分割されているとみなすこともできる、という両義性がそれである。
しかし、人間だけは、自然とは異なり、結んだりほどいたりする能力を与えられている。しかもそれは一方がかならず他方の前提をなすという独特なかたちにおいてである。
とにかく、人間は分離しているものを繋げ、結合しているものを分離する、ことができる存在だということのようです。
そのありようの具体的な実践が「道」であり、その最極点が「橋」だと、ジンメルさんは言っています。
橋をかける行為にいたってあの人間固有の作業はその頂点に達する。ここではたんに空間的な隔たりという消極的な抵抗ばかりでなく、さらに特殊な造形という積極的な抵抗が人間の結合への意志をはばむかにみえる。この障害を克服することによって、橋はわれわれの意志の領域が空間へと拡張されてゆく姿を象徴している。
分割されている岸と岸を結合する橋。結合されていることがかえって岸と岸の分離を強調する。結合と分割、分割と結合。この相容れない二つの状況を人間はつねに内包している。どちらかが外にあれば内はなかに生じ、その逆もしかり。
橋が絵画作品で描かれるのは、その「統一性」による。
橋はいっさいの感性を超越したある究極的な意味に、いかなる抽象的反省によっても仲介されない個体的形姿を与えるのであって、この形姿は、ちょうど芸術作品がその「対象」にたいしておこなっているように、橋の実用的な目的意義を吸収しながら、しかもそれをある直観の形式へと移し入れるのである。
ちょっとよくわからないけど、橋は人間の本質の流出した形なんじゃない?というのがジンメルさんの考え方の表明なのかもしれないですね。
もっとそれを表しているのは扉だというんだけど、ここは橋で、終了~。
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