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『時=刻』を生きる
百姓仕事は天地自然に合わせて段取りを決めます。
そして、そこでの百姓仕事の判断というものは、現代の『時間』というものさしで判断をするのではなく『時』という感覚を持って判断をします。
例えば
田植えの時を待つ
種を蒔く前に雨が降りそうな時を待つ
稲刈りは朝露が乾く時を待つ
草刈りは夕方の涼しくなる時を待つ
というようなことです。
私は、このように時が来るのを待つということが、昔の人たちにとって当たり前の感覚であったということが農の世界に入って気づくことができました。
昔の人々は現代の『時間』という概念ではない『時』という中で生きて来たのだと
だから『刻』という字を使っていたということが物凄く理解できたのです。
時間の経過の中で生きていたのではなく、時を刻みながら生きていた。
時を刻み、自分たちの人生の物語を積み重ねて、紡いでいったのではないのだろうか
そんなことを思うと、これまで『今を生きる』という言葉を見聞きしてきたが、自分には『時=刻』を生きるというほうがしっくりくるかなと思えました。
師匠農家で稲作の修行をして、師匠と弟子という時をつくった
自ら田んぼを借りて、この田んぼの時を作った
そして、自分ものちに、この田んぼのご先祖様になるのだろう
この土地には過去に一人ひとりが刻んできた時が無限に存在している
それに手を合わせて、祈り感謝することはごく自然なことだったのではないのだろうか
それが一人ひとりの膨大な時を刻んだ物語に対する敬意だとしたら
神様がいるとかいないとかの浅い次元の話ではない
この国にも時を刻んで生きた物語が、人の数だけある
私はそれがこの国の知るべき歴史だと思う
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