『かみまち』

漫画を探しに行って、今日マチ子の『かみまち』を買う。一気に読んでしまう。

共感、というものでは埋められない、と感じる。15、6歳だった頃を思ってみても、自分なら、と置き換えずに読むのを導かれるような感覚だ。しかし、いくらか年月を経た眼で見ても、登場人物の行動を子供だとかじれったいとも思えない。
身を削りながら取材を重ねたことが痛いほど伝わる。フィクションとは何だろう、と思う。確実に、確固としたかたちでそこに存在している。

共感とは何だろうか。
思春期、打ち明け話をされた時に適切と思われることばを掛けるのが下手で、棒切れみたいにただ見ている、という状態によくなってしまっていた。わたし自身は物事を笑い飛ばせる状況というのを安心することがあったけれども、人や、場合によってはそうもいかないことも多々ある。
『かみまち』の子たちに実際に出逢ったとしたら、どうするだろう。一時的な慰めやごまかしでは駄目だ。実際に一緒に行動する人間が必要な一方で、「共感」の皮を被って搾り取ろうとする大人もいる。

作中には、ぬいぐるみと自分を一体化させる子が登場する。分身とも言えるだろうか。
本などは、持ち運び式の外部装置だと思う部分がある。16歳のわたしには、それがある作家の本だった。とにかく全部笑い飛ばせとばかりの勢いを好んでいた。「不条理」という用語を知るのは後のこと、この世の仕組みも知らないのにナンセンスさを求めていた。授業に出ず、わざわざ繁華街の喫茶店を選んで読んだ。行くあてはなかったし、ひとりでふらふらする危険も分かっていなかった。
何かから逃げ出したかったことは、『かみまち』を手に取るきっかけというか、共鳴する部分があるのかもしれない。読み終わった後も、その音は大きくなるばかりだ。

自分の経験ではない、あるテーマを扱うことはとても難しいことだと思う。それでも想像力が飛ぶことの出来る長い距離を、一筋見た気がした。

蛇子



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