見出し画像

早いもの、遅れるもの

 季節をはみ出たものを通り過ぎる人がいる。わたしもまたそのひとり、一時期見ると見慣れたもので、冬の紅葉や冬銀杏など。盛りを過ぎても色は美しいのだが、ありがたく写真など撮っていた秋口を脱ぎ捨てるかのようにすらすら歩いていくのがおかしい。
 師走も半ばの上野公園の紅葉群は背景を青くしながらよく映えていた。青々とした常緑樹のなかで鳥たちの鳴き交わす声が、ふとすると歩行中もやってくるぼんやりの眠気を醒ましていく。目当ての美術館の手前には不忍池よりも大分ささやかな池があって、周囲をとりどりのチューリップが飾っていた。
 先取りして出回るものは珍しがられ、好まれるが、見慣れたものを通り過ぎるわたしも狂い咲きの梅の一枝や、春先にも提供される生姜の飲みものに出会うと心が綻ぶ。季節が終われば仕舞ってしまうのは粋ではあるが、きちんとしすぎていて、どこかさびしい。
 早チューリップはそのような品種だろうか、温室で育てたのを移したのだろうか、後者であれば寒そうだ。
 美術館では洛中洛外図が展示され、その俯瞰の様子、細部のどこまでも広がり広がりするのを見て、時のつながりもまた無限に外へと向かうものだと重ね合わせたりもした。春夏秋冬の木々と鳥を組み合わせた絵もあって、やはり先ほどの鳥の声を確かめに足を止めておけばよかったと悔やんだ。
 売店では芙蓉の絵の付いた風鈴が売られており、迷ったが、購わなかった。時期に抗う粋をするにはわたしは浅く、ここでも季節を楽しみ尽くすまでには至らなかった。想像のなかで冬に下げる風鈴の音を鳴らして、それはやはり想像の、まだ降り立ったことのない一面の雪景色のなかに吸い込まれていった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?