まわるもの

続けて、幸田文を読む。今は『回転どあ/東京と大阪と』だ。やはり非常に細やかで、それは目の配り方にも言葉の選び方にも窺える。おおらかさとはどこか違っているが、全くだらしなくない。慣れた手が、着物の帯をきゅっと結んだ時を想像させる。

そもそも幸田文は10年前くらいに知人の強い勧めで手に取ったのだったが、先日あらためて話題をふってみると忘れていた。何冊かを読んで、それ以上読むと仕事を忘れて読書してしまう気がするからそれきりだという。「文章が凛としていて」と知人は褒め、わたしにも「あなたもぜひとも凛とするように」と勧めたけれど、わたしは「凛とする」(思い立ってするものなのだろうか?)の雰囲気と自分との距離を測ると、回転ドアのガラスのような隔たりを感じ、頭をぶつけるか、際限なく回っている気がした。

エッセイも技術だが、話も技術だと思った。
音楽を聴きに行って、そのステージもとても良かったし、途中のお話もたいへん面白かった。お酒を飲まなかったのに、酔ったようになってしまった。目の前がぐるぐるした。

回転ドアは、あたらしいものは最近もうあまり造られないのだそうだ。

蛇子

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