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What's The Beatles


フリーという英国のバンドをご存知でしょうか? Fire and waterが最大のヒットになります、1972年か73年頃来日コンサートを行っています。
コンサート会場は共立講堂だと思いますが、実は共立講堂には思い出があります、
「バスストップ」のヒットで有名なホリーズの来日コンサートがホリーズ側の事情で中止になり替りのコンサート、サム&デイブが行われ初めてのR&Bコンサートどんなものかと出かけました。サム&デイブは知っていたので不満はなくこのものかと思ってしまいました。その後会場で見かけた有名な編曲者が雑誌にコンサートの感想を書いていました。キーが2,3個あるのかと・・・ ドラム・ベース・ギター・ブラスの単純な構成でしたが・・・
なぜフリーを取り上げたかというと 僕らローリングストーンスやビートルズにはなれない。絶対になれない・・・でもフリーにはなれるんじゃないのかな??? 重く単純なリズム ドラム ベース ギターもそれほどテクニックがあるとは思われない、案の定フリーのコピーバンドがいっぱい出来てしまった。ブルースロックというんでしょうか・・・
フリーのコンサート 共立講堂にはチケットがなく入れませんが、山下達郎氏は会場で聞いたみたい。会場の入り口付近でフリーのボーカルと日本人女性・有名な俳優夫妻の子供が付きあっているとかいないとか聞いていました。

ビートルズからポールが脱退した1970年、 ローリングストーンズの
ブライアンジョーンズが亡くなった1969年。ビートルズは解散したが、 ローリングストーンズは現在でもライヴバンドとして活躍している。この違いは何だろうか?
前マネージャー役アラン・ウィリアムス 「彼らビートルズは金に汚い」
彼の言葉はとても重い。
ジョンレノンは両親の離婚後母の姉に育てられその後母は後無くなってしまい、彼が有名になってから実の父はレストランの皿洗いをしていてことが分かってしまった。実母が亡くなった時彼女のお金を当てにしていたポールは
「どうすればいいんだ」って嘆いてしまったり。
ジョンとポ―ルの口論に嫌気になり親友のエリッククラプトンの家で朝日を出るの見てヒヤカムザサンを作ったと言われるジョージハリソン。彼も自身のレコード収録曲数の少なさでジョンとポールに不満をいだいていた。

ホワイトアルバム録音時、四人はバラバラ。リンゴ脱退のうわさ、ジョージはめったにスタジオには来なかった。その頃から解散のうわさが・・・
アビーロードのジャケット写真をじっくりご覧になってください、四人の画像の違いが分かりますか?

ポールが裸足なのが分かりますか
なぜか・・・ポールは亡くなっていまったのでは?という噂が広まってしまったのです。根も葉もない噂なんですがみんなビートルズ四人は不仲であると知っていたんですね。
当時ポールはアビーロードスタジオ近くに住んでいて草履というかスリッパをスタジオに忘れたのであんな写真撮られてしまったんです。

ローリングストーンズはブライアンジョーンズが亡くなった後、サウンドのリーダーシップはミックとキースが担当、ミックの個性最大限に活用する作戦に出た。ブライアンジョーンズがサウンドのリーダー時は良くも悪くもブルースから脱却しなかった、ブルースやR&Rが好きなミュージシャンの集まりであった。言い方を変えれば他のバンドとの違いが見いだせなく、埋もれてしまいそうであった。
ミックジャガーの個性を際立たせる演出、セクシャルなステージアクトが観客の支持を集めだしたのだった。



ビートルズ成功した訳 サウンドではスラーではないかと思う。
スラーとは 音楽記号。複数の音符の上あるいは下につける符号。音を切らずに滑らかに演奏ことを指示する とある。
スラーとリヴァプール訛りが重なりビートルズサウンドが完成してしまった。完成してしまったとは彼らは意図していなかったのであろう。
主演映画主題曲 A Hard Day's Night はスラーが多くのメロディーを構築しリヴァプール訛がちりばめられている。
ドラムがリズムを刻みギタのカッティング、スラーにより聞き手がリズムや歌詞を把握できるようになるのだろう。言葉がリズムやメロディーを待ってくれるのでのりやすい状況を作ってくれると思う。
初めて聞くポップスに若い観客は戸惑うだろうし、リズムや歌詞が先行することは彼らを置き去りにしかねない。


じゃ一体ビートルズがアメリカの謎ってなんだんろうか?
多くの英国バンドがアメリカに進出して覇を競ったがビートルズがどうして抜きんでしまったのだろうか?
英国はリヴァプールからやってきた四人組、しゃれたスーツに優しい笑顔、いかしたサウンド。
でもしゃべったり歌うとリヴァプール訛り丸出し、ロイヤルイングリッシュとはいかないけれどあんまりだと思わなかったのか?
語尾の音階が高くなる訛り、特にジョージ・ハリソンが激しい訛を喋っていた。
アメリカンサウンドを基本にビートルズの個性を引き出したサウンド、でも
リヴァプール地方の訛がサウンドの魅了を引き出した。





ビートルズ ローリングストーンズがアメリカで成功した理由は一体どんな訳があったのだろうか?
ビートルズはジョンレノンがアマチュアとして最初は仲間と楽しく楽器を弾きサークル活動の様なバンド、それに引き換えローリングストーンズはブルーズの研鑽をこなし腕を磨いたミュージシャンの集合体。英国の田舎 リバプール出身ビートルズ 英国の首都ロンドンから始まったローリングストーンズ。まったく違う背景を有していた。なぜほとんど同時期アメリカで見いだされたのか?
先ずはローリングストーンズの活躍はミック・ジャガーのセックスアピ―ルの効果だろうと思う。ブライアン・ジョンズ生前中は彼のセンスで何とか乗り越えられたが、亡くなってからジャガー&リチャーズで作詞・作曲を担当すようになりジャガーの個性を強調するような曲作りに変更した。最初彼らはドラム チャーリー・ワッツ以外のメンバーただ立ったまま演奏するだけでステージやスタジオを動き回ることはなかった。ミックジャガーがマイクを持ち少し歩くような動きはあったが観客をアジるようなアクションはしていなかった。1963-64年 ローリングストーンズはブルーズ R&Rのカバーレコードを英国内発売 NO1を獲得したが彼ら本当の魅力を引き出してはいなかった。アメリカで成功するには他の魅力的なアイデアが必要であった、ミック・ジャガーがロンドン英語で歌いセクシャルな腰の動きで女性を魅力する。多くのアメリカ人にとって英国はロンドン、そのステータスは絶対だろう。そのロンドンからやってきた若者がアメリカで生まれたブルースやR&Rを腰を振って歌うその姿に我を忘れてしまった。エルビス・プレスリーがその腰の動きでテレビから腰の動きを見切られてハウンドドッグを歌ったのはセックスシンボルとして見られていたからだ、次に現れたのがドアーズのジム・モリソン。しかし余りにもエキセントリックになった為役目を終えてしまった。アメリカ人はエルビス・プレスリー、ジム・モリソンに代わるセックスタレントを探していたのだ、ミック・ジャガーがまさにその役割を担ったのだ。


ビートルズ ローリングストーンズ ドラマーと言えば それぞれリンゴ・スター チャーリー・ワッツ(正確にはチャーリー・ウォッツ)ですね。二つのバンド成り立ちを表しているので面白い。
ほんと昔ジョージ大塚バンド聞きに新宿 PIT INNへ行った時の話。
運良いというか悪いというか座らされた席はジョージ大塚の真ん前、バスドラムはおなかに響き、シンバルのカキーンは頭を直撃。彼の特技 タムタムとシンバルを左手で同時に叩く技を目の前にしてしまいました。
日本JAZZ界をリードしていた渡辺貞夫 日野皓正両氏 それぞれバンドのドラムが実弟という時代があった、仲がいいのかと思っていたが、実弟のドラマーがミスをすると両氏とも観客の前でほんとに怒鳴っていた。僕たちにはわからないミスで有っても。他のバンドメンバ―に示しがつかないとおもったんでしょう。ドキドキしたんです。


アメリカを含め世界的にヒットしたバンドと言えば ビートルズとローリングストーンズの英国2グループ。ビートルズとローリングストーンズ以後エドサリバンショーや米国公演などこなした多くのバンドが雨後の筍の様に多くあったが両バンドを抜くことは出来なかった。僕自身両バンドの世界的な成功は同じ理由で出来上がったと思っていたがビートルズとローリングストーンズの違いが分かりかけてきた。
ビートルズはジョンレノンが1957年リーダーとして立ち上げたブラック・ジャックス 後のクォーリー・メン アマチュア時代夏祭りなどで演奏するくらいでレノンはギター調律も出来なかった。演奏するクォーリー・メンにポールマッカートニーが訪れメンバーになりジョージハリソンを紹介 いろいろあってリンゴスターが正式ドラマー加入

ローリングストーン成り立ちの前に英国ブルースシーンを作り上げた二人を説明しなければいけない・・・

一人はアレクシス・コーナーズ
ブルースシンガーでありライヴカフェを経営しており多くのミュージシャンを育てた。
ドラマー/チャリーワッツ (ローリングストーンズ)
べーズ/ジャック・ブルーズ (クリーム)
ギター/ブライアン・ジョーンズ (ローリングストーンズ) 

もう一人はジョン・メイオール
ブルースブレイカーズのリーダーでありエリックプラクトンも在籍していて、ほんとに多くのミュージシャンが育っていった。

アレクシス・コーナーズのバンドというか集合体ブルース・インコーポレイテッドに参加していたブライアン・ジョーンズのスライドギター演奏にキース・リチャーズとミック・ジャガーは衝撃を受けたと言われる。
その後ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ライアン・ジョーンズが中心となりバンドThe Rollin' Stones 結成 その後改名
ビル・ワイマンが1962年12月、チャーリー・ワッツが1963年1月加入
ブルースを演奏するミュージシャンにロックンロールを演奏しろ 多くのミュージシャンは拒否したようだ。
1962-63年頃英国内ツアーをしていたのでビートルズとほとんど同時代を駆けたのだった。





キャンディーズ わな は興味深い曲ですね、作曲 穂口雄右氏
キャンディーズ 微笑がえし 年下の男の子
RCサクセション ぼくの好きな先生(編曲) 
郷ひろみ               林檎殺人事件(作曲/編曲)など多く作曲・編曲をされている方です。わな は歌謡曲で使われる音階でなくブルースで作曲されています。いわゆる四七(ファ音 シ音)抜きではなく歌謡曲では普段使われない音階で作曲されています、ほんとキャンディーズがスリー・ディグリーズになってます。穂口雄右氏はスリー・ディグリーズを当然ご存知と思いますがこんな曲を誰かに作ってあげたいと思っていたのでしょうか?

1963年に少し話を戻そう。ビートルズがBBCなどTVやラジオに出演しだした年ですね、ラジオではやらないと思いますがいわゆるクチパク、もしかしたらビートルズは最初期のクチパク世代かもしれない。you tube探せば音声と口元が少しズレる映像を見つけることができるかも。クチパクといえばもし貴方がレコード出して売れ、、年末の紅白歌合戦に出場と仮定。一番最初にNHKからなんて言われると思いますか??
それは マイクのスイッチ入れます??それとも切りますか??
最近の出場者はダンスの存在が重要になっているけど歌合戦なのでしょう。



1964年はビートルズに新しい局面が始まった年になった。
3月20日 シングル Can't Buy Me Love リリース 
アメリカでは3月16日リリース 1週間で200万枚の売り上げ発売当日ゴールドディスク獲得 英国では予約だけで100万枚
3月2日から4月24日  映画 A Hard Day's Night 撮影
6月19日  EP     LONG TALL  SALLY リリース
7月10日  シングル A Hard Day's Night     リリース
                     LP              A Hard Day's Night     リリース
8月23日 ハリウッドボウルコンサート ライヴレコーディング
11月27日    シングル I Feel Fane                    リリース
12月4日  LP             BEALES FOR SALE          リリース
デビュー21月で4枚のLPリリース   
精力的なスタジオ録音をこなしていたがコンサートとスタジオワークの両立に何となく疲れてきているかな?     BEALES FOR SALE    の出来に不満があったか??     


1964年2月カーネギーホール公演 エドサリバンショー出演を終え大歓声の中英国ロンドン空港に帰国、3月2日から4月22日まで映画 A Hard Day's Night撮影 映画会社から主題歌録音の催促を受ける。
リンゴの発した It been A hard day   そしてnight から発想を得て翌日マッチ箱に書いた歌詞を膨らませ曲を完成させた、オープニングの和音は未解読のままで。


1964年から本格的に全米、世界に活動を広げたビートルズ。こんな状況を英国のファンはどう見ていたのだろうか?英国のビートルズファンは二種類に分けるのが良いと思います。Love Me Do以後のファン 特に若い女性たち  それからマージ―ビートの人々、薄暗く風通しの悪いキャヴァーン時代のピート・ベストからリンゴ・スターに代わったことを憤慨するコアなファン。メジャーリーグ大谷選手を応援する日本人の様だったのだろうか?

エプスタインがBLなのは本当の事らしく軍隊を除隊させられてしまった。エプスタインはジョンが好みらしくふたりの噂はあった、ジョージ・ベストは何か関係していたのだろうか?ビートルズファンとしては耳を塞ぎたくなってしまう話題。もしエプスタインがBLでなかったらビートルズは世界的な業績は残せたのだろうか??? キャヴァーンで汗をかきながら演奏するビートルズをエプスタインが見なかったら、彼ら4人の未来は一体・・・ 

ビートルズの正式マネージャーと言ったらエプスタインですよね、でも実際は正式マネージャーではない。両者のマネジメント契約書にエプスタインのサインは無い、それは前マネージャー役 アラン・ウィリアムスから彼らビートルズは金に汚い、財産失うことの無いようにと忠告され、それとピート・ベストの母親がマネージャーの様な活動をしており抗議を受ける事も考慮したためと言われる。

ブライアン・サミュエル・エプスタイン 1934年9月19日生  1967年8月27日没


エプスタインがいかにコンサート収入を当てにしなっかのはコンサート時間を見れば分かる。1コンサート 10曲のみ 1曲3分なので計30分、大体36-38分の出演時間、当時でもライヴとしては短いですね。マネージャーがこんなだから4人もライヴを見限るの早かったのでしょう。そしてビートルズはコンサート活動を中止、現場マネージャーとしての仕事がなくなってしまったが、ロードマネジャーは存在したと思う。彼の実弟が仕切ったのでは?
ビートルズをリヴァプールから世界中に拡散させたが睡眠薬摂取?で亡くなったと言われる、しかしビートルズの4人やエプスタイン既にグラスやLSDに手を出していて本当の原因は知らされていない。

1964年ビートルズはアメリカ進出を果たすが、これは近い未来にライヴ活動停止となる布石だと思う。コンサート入場料はエプスタインの考えで低料金に抑えられていたが、チケットを手に入れるのが困難になってしまった。彼はユダヤ系なのにここで稼がない決断をしていたのだ。コンサートで人気を煽り印税や著作権使用料が莫大な収入となるのを見越していたんだと思う。

同タイプミニ

日本で一番の二番 元カーグラフィック編集長 小林彰太郎 
日本で一番早く ミニを運転した人物と思います。 横浜ふ頭に到着したミニを芝の日英自動車まで自走させた 同会社のミニ輸入を知ると自ら志願したという。
当時の重くエンジンの吹けないエンジンを知る同氏はミニの運動性能に感嘆したのでは。


30代の船村徹


「みだれ髪」「風雪ながれ旅」「王将」「矢切の渡し」などの作曲家


日本人として誰が一番最初にビートルズ生演奏を聴いたのか?
新興音楽・漣氏 共同企画・永島氏 東芝・石坂氏など浮かぶけど意外な人物を紹介します。その人とは 作曲家 船村徹です。演歌の作曲家とビートルズなんて関係ないと思われますが、彼が英国に音楽コンテストの審査員として招かれ登場したのがビートルズだったと。1956年にコロンビアレコードの専属作曲家になっていたので・・・

エプスタインのアメリカ合衆国戦略は確実に進んだ。
A Hard Day's Night 邦題 ビートルズがやって来る ヤア! ヤア! ヤア!はアメリカへの売り込みPVとみるべきだろう。
次がTV露出 エド・サリヴァンショー出演 これは運があった 出演料を低く抑え数回出演 これは当時の同番組の人気を考えれば望外の効果
ビートルズなどの英国バンドは プラスチックソウルと音楽ファンから蔑称された。 当然エプスタインは知っていて既存の音楽ファン以外の取り込みを考えたのだろう。
もう一つ興味深いのはビートルズが空港やホテルで行ったインタビューがある。1964年当時ジョンは24歳 ポールは21歳 彼らをマイクが並ぶテーブルで記者の辛辣な質問に答えさせる。宗教団体からボイコットさせられても強烈な印象をアメリカの少年少女にあたえてしまったのだ。

The Beatles live at Carnegie Hall, New York City

上記画像1964年2月12日 カーネギーホールでのコンサート写真
少し不思議ではありませんか ワシントンDCの公演を終えなんとBeatlesが演奏するステージに観客を上げている事 イギリスやヨーロッパでは考えられない。少しでも観客数を多くしたいと思ったのでしょうが、カーネギーホールはビートルズには評判が悪かった 音響は最悪 ステージに観客を入れたから体を触られたり話しかけられたり まるで動物のようだった。
ライブ録音はアメリカ音楽家連盟からプロデューサー、ジョージ・マーティンの許可が下りなかったためできなかった。
出来ないといえば翌週予定していたマディソン・スクエア・ガーデンで公演も出来なくなってしまった。


1963年 ビートルズはコンサート テレビ・ラジオ出演 レコード録音と経験したことのない忙しさだった。エプスタインのメディア戦略が確かに効果を挙げ英国だけでなく欧州にビートルズの人気は拡大していった。
残るはアメリカを含む世界戦略だけになった。

エプスタインが凄いのはコンサートだけでビートルズをアメリカへ行かせなかった事、彼は前年エド・サリヴァンと会い1964年 2月9日、16日、23日の三日メインゲストとして出演させてしまった。エド・サリヴァンは ロンドン空港でスウェーデンから帰国したビートルズへ絶叫するファンに遭遇している


映画 A Hard Day's Night 邦題 ビートルズがやって来る ヤア! ヤア! ヤア!は何だったの?
映画としてみれば単純だし脚本もイージーゴーイング 画質も怪しい
これは89分のPVとみるべきだと思います。エプスタインがファンの為に作ったプロモーションビデオですよね。

映画 A Hard Day's Night の前にエプスタインはアメリカ合衆国へビートルズを売り込むか考えていた当然メディア戦略が第一となるのだろう 
1963年秋 ニューヨークのプロモーター、シド・エプスタインから電話が 通常の2倍のギャラでニューヨーク公演をしないかと・・・
即座にエプスタインはOKを出し、エプスタインは1964年2月12日夕方と夜のカーネギーホールを確保した。

映画タイトル曲 A Hard Day's Night 曲最初の和音 どう感じますか
12弦ギターを弾くジョージ 6弦ギターを弾くジョン コードはGsus4(Gメジャー+C) これらをヴォイシング ポールはDをベースで弾く
かつてボビームーアがジョージに同和音を尋ねたがジョージ曰く「分からない」

映画 A Hard Day's Night 邦題 ビートルズがやって来る ヤア! ヤア! ヤア! は1964年3月2日から4月24日まで7週半かかった 当然コンサートはできなかったが録音や楽曲を作っていた 完成後監督や脚本家へ批判が出たが彼らはビートルズからの注文に沿って演出をしただけだった 

多くのシーンはビートルズファンとのやり取り、スタジオ・舞台でとても面白いのだが、リンゴがトボトボ歩くシーンは切ない  自分がいらない存在って思ってしまうリンゴ 大丈夫だから もうすぐ本番だよ
ポールの祖父役 ウィルフレッド・ブラムベルという役者 違う映画で見たような気が・・・

ポールのサインをギゾウしたりマネージャーからビートルズをかくまったりステージに突然現れてしっまたり 変幻自在 映画の本当の主役は誰? リンゴスターだ

同映画でポールが歌うAnd I Love Herに違和感があった ポールの声が低く ジョーが弾くアコギも同様 注意して聞くと他の曲も少し音程に違和感が これは映画のサウンドトラックのピッチが低くなった現象 避けられないとか でも魅力一杯の映画 ポールの祖父と名乗る俳優が大好き

映画 A Hard Day's Night ビートルズがやって来る ヤア! ヤア! ヤア! ビートルズ人気に乗った映画 でもスキなでんすね 初演当時スクリーンの四人を触る女性が沢山いたとか でもこの映画を見るたび少しい違和感が それはポールが 

She Love You の新しい 三人称のリリック 切羽詰まったからとか言われるが 彼女はお前が好き でも本当は自分が彼女を好き 切ない歌詞なんだよね リズムは弾んでいるけど この曲から4トラック録音 テープに4本の音楽録音可能に 本格的ステレオ録音時代へ

1963年8月31日 シングル She Love you リリース ビートルズ初の100万枚セールスを記録し一位を二度にわたり続け一位を奪ったのは11月29日リリース I Want To Hold Your Hand この二曲は同名映画の大事な場面で使用された

内田裕也氏のコンサートスタッフ?いいえ会場整理のアルバイトをしました 覚えているはフラワートラベリングバンドの帰国コンサート 旧東京体育館で 前座は頭脳警察 京都から来た村八分など バイト代は一万円 同氏開催コンサート最後はデュラン I shall be Relesead

GSで思い出すのが内田裕也氏 タイガーズ フラワートラベリングバンドなどプロデュース 京都で発掘したタイガーズ 既存の作詞家作曲家でヒット曲を唄いGSのトップになった 沢田研二氏と萩原健一氏のバンド ピッグ のコンサートに行ったったことがある 日比谷公園野外コンサートだったかな

残念だったのは日本のGS JAZZ喫茶でスカウトされデビューするが既存の作詞家作曲家のレコ―ドばかり 例外はスパイダ―ス ワイルドワンズくらいか 歌謡曲としては出来がいいが若者の心情を伝える事はしなかった できなかった 稚拙でもいいからバンドの作った楽曲を聞きたかった

なぜLP Please Please Me に注目するのか? それはバンドメンバーが作詞作曲の曲とカヴァー曲が何故これほどヒットしたのか 確かに英国テレビ出演などPRのうまさもあるが30代以下の女性に受けた それはアメリカンポップスをビートルズとして昇華 自分たちの個性を追加して演奏

Beatles 最初のLP Please Please Me 1963年3月22日発売  新曲10曲 オリジナル4曲カヴァー6曲はモータウンと女性グループの曲 モータウンはジョン 女性グループはポールが選択したのでは? カヴァー曲は基本ゴスペル 二人の作曲に影響 これは毎晩毎ライヴをこなした結果

たった585分でオリジナル曲 カヴァー曲 11曲を録音してしまってビートルズ 四人の絆はもちろんエプスタイン ジョージマーティン スタジオスタッフの信頼も勝ち得えたその後EMIスタッフは80年代を代表するタレントのプロデューサーとなる人が出ている ビートルズのスタジオ制限はもう無い

朝10時 録音は There's A Place から始まり 四人はランチもとらず スタジオスタッフから驚愕の声 1曲 1時間 ジョージマーティンはこれしかないと思っていた 夜9時過ぎから最後の録音 Twist and Shout は時間も無く 一発録 のど飴を舐めながら ジョンは歌った

あのレコードとは ビートルズ最初のLP Please Please Me  1963年2月1日だけで 自作曲5曲 カヴァー6曲を585分で録音してしまった スタジオは600分しか使用できずビートルズはほとんど毎日ライヴ 奇跡の一日しかも ジョンは風邪 のどガラガラ のど飴は必需品だった

Love Me Do  の頃 ビートルズにもセッション報酬が払われていた 大体一回のセッションで 7ポンド10シリング程度 安いの高いの?わかりません ドラムのアンディーホワイト 9月11日のセッションには 5ポンド15シリングが支払われ 当然タンバリンを叩いたリンゴにも

あのレコード録音の前に EMIロンドンスタジアム事情 アビーロードと名乗ったのはアビーロード発売の後 録音は書面で希望スタジオを請求し空いているスタジオが割り振らわれる ビートルズでも朝7時からの録音もあった。技術者はなんと白衣を着せられていた。英国式と言えば聞こえはいいが・・

1963年1月11日 第二弾 Please Please Me/Ask Me Way リリース
作詞作曲はポールだが ジョンやジョージマ-ティンからボロクソに
リズムやコーラスを作り直し シングルチャートトップには届かなかったが充分すぎる成果だった 次はあのアルバムの録音

Love Me Do 売り上げは全英シングルチャート17位 リンゴがドラムを叩いたヴァージョンは発売後アンディー・ホワイトヴァージンに変更 噂 レコードセールスがリヴァプール周辺で多かったのはエプスタインが買い占めたからと噂がある その数1万枚!リンゴがドラムを叩いたマスターテープは破棄された

1962年10月5日パウロフォンから初のシングル盤発売 A面 Love Me Do B面 PS I Love You ジョンとポールの曲 こんなことはビートルズ以前なかった 与えられたプロの曲を歌うのが普通 彼らの政治的手腕のすごさ ジョンとポールが力を合わせた結果だ

1962年9月4日EMI ロンドンスタジオでの初シングル盤録音 How DoYou It ジョージ・マーティン提示の曲 録音したが 大人の取引 Love Me Do をシングルにする替りHow DoYou It 著作権管理者をレノン&ポールの著作権管理者に 彼ら大儲け

Tレックス日本武道館ライブへ友達参加したが一言  ヘタ 行くんじゃなかった デビットボウイとグラムロックブームを起こす原動力となった。パンクロック台頭の影響を受け活動はしぼみ、妻の運転するミニクーパーの事故により死亡。ブルーズ R&R ハードロックとは違う音を聞いた

音楽小噺
Tレックス グラムロックの代表的バンド。
マークボランは一時期パウロフォン・EMIに在籍 売れなかったが、当時のティラノサウルス・レックスと名乗ったころの生ギターとボンゴの演奏は好き。1972年 Get it On発表。同年Electric Warrior 全英7週ナンバーワン

音楽小噺
故加藤和彦氏がエルトン・ジョンの家ではなくお城を改造した邸宅のパーティーに参加した時の話。女子学生が着るセーラー服姿の髭ずらのおじさんがいて、飛ぶように踊りを踊っていと。場違いな感じがしたが、彼?彼女?その人はなんとエルトン・ジョンの父親だったという話。わかるような感じがしますね。

リヴァプールからロンドンまで286Km 東京 名古屋間315Km 一晩中夜の2時3時まで何ステージも演奏の時代 楽器を積んだワンボックス(何とか走る)に四人乗って一般道をロンドンまで走って4曲演奏 今度こそEML専属契約 よかった 9月のシングル盤録音には問題があった

ハンブルグから帰ってリヴァプール キャヴァーンや他のクラブで演奏する日々 マネージャーに就いたエプスタインのEMI契約の嘘に誘われテストセッションへ リヴァプールからEMIロンドンスタジオまでバンド機材バスで移動 まだアビーロードスタジオとは言わなかった のちに改名

苦難のハンブルグ時代。プロモーター アラン・ウイルアムズからハンブルグ演奏に行かされ一晩何ステージも演奏、寝床は映画館の暗いスクリーン奥の部屋。退廃したクラブとアンフェタミン、だがハンブルグ時代は趣味のバンドからプロのバンドへの変革期であった。歌手のバックバンドからオリジナル曲へ。

1962年6月6日 EMIテストセッション受ける  曲名 Love me do / PS Ilove you/ Ask me way/besame mucjo の4曲 EMI子会社パウロフォン ディレクター ジョージマーティンは「失うものは何もないさ」EMI専属契約の理由。

ビートルズは何人? 四人 いいえ六人です。ジョン ポール ジョージ リンゴ そしてマネージャーのエプスタインとディレクターのジョージ・マーティン。エプスタインはテレビを使ったプロモーション、ジョージ・マーティンはジョン&ポールの楽曲を研ぎすまし最大の魅力を引き出した。

ビートルズが生まれた町リヴァプール、かつて奴隷貿易船が出港した港。漁船が獲った魚を処理し内蔵(レバー)を海に捨てた漁港のある町。ジョンレノンは船員が海外のレコードを買ってくる以外何もない町と言った。そんな町から20世紀最大の音楽家を生み出しなんて誰が想像できたのか?

貴方はビートルズをステレオで聞いていますか?普通ステレオで聞きますよね、でも一度モノラルで聞いてください。当時英国でのレコード販売はモノラル、アメリカではステレオが多かった。音楽家がミキシングに参加するのは当時ほんと珍しかったけど、彼らモノラルだけ参加。ステレオは無視・・・

ポール ベースを弾く。アタリマエと言われるけどハンブルグ時代はサトクリフが弾いていたが退団 誰がベースを弾くのか 問題だった。サウスポーのハンデを克服しポールがベースを弾いたのは音楽界にとって最高のプレゼントになった。コード追従の単純なベースラインから一変してしまった。

1958年、59年になるとジョンとポールは曲作りを始め、love me do / one after909などが当時の作品。彼らはジョージ・ガーシュインとアイラ・ガーシュイン ジュリー・ゴフィンとキャロル・キングの様に二人名義、一人で作っても二人で作ってもどちらが作曲作詞しても

ビートルズにならなかった男。紹介するのは、トミー・ムーア。当時シルバービートルズはハンブルグ演奏の為ドラマーを探していた、1960年ジョンは20才、ポールは17才、トミーは30代後半、本業はフォークリフトオペレーター。年齢差やガールフレンドの忠告で入団せず。もったいない!!!

ピートベスト退団の闇。鍵を握るのはマネージャー、エプスタインであると思う。彼はいわゆるBL 、若い男性の汗をかくところが好きという。ビートルズで一番のイケメンだったピートベスト、何か問題が発生したのでは?BBCがジャニーズ性加害を告発したが、こちらも追及してほしいと思う。

当時ベストの母親はライヴが聞けるカフェを経営しておりメンバーはいろいろ助かっていたはず。たぶんジョンやポールは金銭的に十分ではなかったのでは? 
ベストは嫌われたのかな、自分がビートリズのリーダーなんて・・・
思ってしまったのかもしれない。

ピートベスト退団 やめたの? やめさせられたの? どっち
アンソロジー発売の際 ピ―ト・ベストには法外なお金が支払われていた
数曲演奏にしてはとんでもないギャラだった。リンゴと仲が良かったジョージの仕業とかジョージマーティンの決段とか言われているが・・・

実際 love me do の録音までビートルズは最悪。悪ガキ風の革ジャン、リーゼントを止めファンを戸惑わせた。ジョンの育ての親 叔母の死 ポールの母親の死 バンドは活動停止状態。何とかEMIのテストセッションに合格したのはマネージャー エプスタインの力が大きかった。

1962年8月18日リンゴスター 本名リチャードスターキー ビートリズ 正式加入 この当時四人の中で一番のお金持ちは誰? レノン ポール ハリスン いいえリンゴなんです。彼は当時 リヴァプールの人気バンド ロリーストーム&ハリケーンズのメンバー 指輪沢山 あだ名はリング

love me do の録音 リンゴが演奏したレコードは発売途中でセッションドラマーが演奏したレコードに代わってしまった。一度ラジオで両方聞きましたがリンゴの特徴あるスネアもビートルズにあってるみたいで・・・
自分の演奏は差し替えられタンバリンを叩くのはつらかったのでは?

ピートベストの退団はビートルズの黒歴史?ハンブルグの過酷な演奏、EMIのテストセッションまで経験したのになぜ?ドラムの技量はのちのリンゴもジョージエプスタインの関心を得られず、シングル曲録音時は他のドラマー採用の予定。実際 love me do でリンゴはタンバリンを叩いた

リバプールのダンスポット キャヴァーンに3年間で300回の演奏回数、革ジャンにリーゼント。キャヴァーンはかつて野菜貯蔵庫換気が悪く薄暗かった。そのビートルズを見つけたのがブライアン・エプスタイン、父親の経営するレコード店で客がビートルズのレコードを探しに来た事から。

ピート・ベストはビートルズ初めてのパーマネントドラマー。それまではスタジオミュージッシャンドラマーやリンゴスターが演奏。ドラマーを見つけられない場合ポールがドラムを叩いた。サトクリフはバンド名 ビートルズの提案者と言われる

ポールとジョージが参加したクオーリー:メン。ロックンロールを演奏したい二人とメンバーの音楽性の違いから他はメンバー辞めていった。ハンブルグへ演奏するまで低迷する。ハンブルグのメンバーはドラムのピート・ベスト、ベースのスチュ・サトクリフが参加。

ビートルズの母体はジョンレノンが作ったクオーリー・メンというバンド。1957年10月 ポールはクオーリー・メンのレノンに出会いメンバーになりポールの紹介でジョージハリソンもバンドに参加。バンドを楽しみたいレノンとサウンド極めたいポール。その時は小さな違いだが・・・

今では偉大過ぎる存在になってしまったビートルズ。最初は演奏能力は低くバンドのリテラシーもなかった、演奏中の喫煙や食事なども・・・やがて世界のミュージックシーンの中心となりメンバー同士軋轢や金銭上での食い違いで解散してしまった。ジョンとポールが出会ってから13年間の出来事だった。

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