何も考えなくていいという贅沢
親離れしてはや5年目突入。もうすぐ25才になる長男とはオンラインで仙台と神戸を繋いで頻繁に会話している。
会話というより対話。
こちらの家族の問題や彼個人の悩み、私個人の悩みから社会問題まで多岐にわたって話す。
今夜も様々話していて、えーっ!とか、実はさぁ〜とか、あっという間に2、3時間経ってしまうのだが今夜もすごい気付きがあった。
"何も考えずその場所にいられるのは自分がマジョリティだから"
"支援者たちは'自分は味方だ、色んな当事者を受容している、だからあなた方は安心しなさい'と言うがそれは押し付けになっていないだろうか"
"あらゆる当事者が何も考えずにその場所にはいられない状況、'コレを言ってもいいかな、アレは黙っておこうかな'と気を使っていなければならないのは周りが当事者ではなく、マジョリティ側だから。当事者の心を100%知る事は不可能だからね"
"当事者ではない支援者が当事者の事を理解したつもりで’支援してあげる'’対等に付き合ってあげる'は傲慢でしかない。本当に支援するなら当事者が何も考えずに済む様に当事者がマジョリティでいられる様に配慮するべきだ"
"何も考えなくていいこと。"
"常に気を使わなくてもやり過ごせること。"
"それは周りも自分もマジョリティだからだ。"
周りがマジョリティで自分はマイノリティって事はそのマジョリティの中には自分に差別の目を向けて来る人がいるかもしれない可能性を孕んでいて、心が安心安全でいられない。
マジョリティは特に意識せず、何も考えず、安心して過ごせるのだから。
マイノリティ、当事者はいつも意識していなければならない、いつも気を使わなければならない。安心安全を感じる時間が少ないのだ。
何も考えなくていい…それって実はものすごい贅沢なのかもしれない。
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