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From Buenos Aires

ジプシーなの。

私は彼にそう挨拶した。どこまで彼が本気にしているかはわからなかったけれど、「ok」とだけ言った。

何が了解事項だったのかはわからない。でも、ただ「ok」とだけ言って私を抱きしめようと試みた。彼は最初からそうだった。すぐに急いてくる。私のタイミングなんかお構いなしだった。異国の香りはどことどこのミックスなの?という問いからはじめた。彼がどこにも属していないような雰囲気を見抜いたのは私と彼の運命がなせる業だと思う。思ってもいないことを言ってそれが彼のハートを射抜いてしまうことがよくあるからだ。

ふざけて「私はイザベラっていう名前を使っていたの、だからエリザベスも親戚よ」とじゃれた笑顔を振りまけば、彼はそれ以来私を「Bella」と呼んだ。

彼は「evan」と名乗った。イヴァン、ベンガル語ではよくある名前らしい。意味は射手だと自慢げに語るその瞳が射るようだった。私は後ずさりして身構えた。防衛本能であろう。体を守るという意味ではなく、心を守るという意味がある。

イヴァンとどうにかなってしまったら私はきっと人生を転げ落ちる。

ジプシーだと名乗ったのに私が日本人だと言っても、そうなんだね、日本のどこに暮らしているの?と聞いてくるし、名前がイザベラではなく楓だと言っても、相変わらず私のことは「Bella」と呼んできた。

一定の距離を取り続けても、懲りることなく毎日連絡をしてくる。怖かった。でもその愛が心地よくて止めることができなかった。彼はかなり賢いのに、私に騙されることを望んでいるのか、それとも本気で騙されているのか、それとも何か別の目的があるのか。

答えの出ない日々の延命治療として私は彼に対して拒絶という態度をとりながらつなぎとめていた。

期限が迫っていると感じたのは初秋の出来事、イヴァンが私の家を突き止めたのだ。恐怖と期待が入り混じり、私は扉を開けた。わかっているのだから開かない自由もあった。でも開いたのだ。


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