カオス位相論的に観測された破れは新たなる対称性を構築し全ての理論を可能にする。
AがBであるとき、cはbである。
とはいったものの、
定義が定義する枠組みはそのものの側面の一部分でしかない。
定義が間違えていたのだろうか?
いや、この論考はそもそも
定義されるものの状態などそのものの一部でしかないという話。
我々の置かれた環境、
我々の生きる条件にあった環境、
その条件により表明された答えがココにある。
メビウスの輪?
何故それにそこまでの神秘的響きを要求する必要があるのだろうか?
我々が蟻であったときその世界には表も裏もなかった。
ただ広がる平原を歩く、
たとえ捻れようとも、表裏という概念に変換があっても、
あの頃の私には、蟻であった私にはそれが見えなかった。
私の目は平原に縛られそこには輪など存在しなかった。
どこまでも続く永遠を表裏もわからず只々真っ直ぐ進む。
遥か上空に加算された次元など気づきもせず、それが私の世界の全てだった。
その空間に与えられた定義など
私の世界では溶けて無くなっていた。
人類はこの蟻と同様である。
我々の世界には対称性があり、
矛盾と無矛盾の間で何時ももつれた電子を光らせている。
秩序という小さな風呂敷を広げその中でその風呂敷に入りうる理論を照らし合わせ、この風呂敷の形を測定しようと躍起になっていた。
ある時カオスは言った。
キミラは私の体を知った。
が、それ故に私の全貌を失った。
私の羽、
私には羽根がある。
私が羽ばたいていたことをキミらは知らない
そして私もまた私がなんの一部であるかも私は知らない。
理論とはこの体のようなものである。
狭視的視界にはA=Bに見えていたものが
厳密には異なる物だったと。
そういうことはよくある話だった。
私達の感覚が真に許さなかったのは私達の感覚自体だった。
あらゆる事実とされたものは
あくまでも事実を提言したかったのではなかった。
それらに課せられたことは否定。
つまり、私達の感覚の否定を行いたかったのだ。
故に導き出されたことは真実などではなかった。
ただの感覚の否定
それよりもより深淵的な振る舞いを
私達は『これまで』を多少捨て去ることで垣間見てきた。
体から伸びる蝶の羽を辿り幾重にも重なる何枚もの羽が
一つの翼として視界に映り込ませることがやっと可能となってきた今、
これまで培われてきた対称性の膜はやっと破られた。
破れとはそもそも矛盾ではない、
破れとはさらなる深淵の秩序の端切れ
何匹もの蝶が飛び交う空間にある対称性の一つ一つは、
この世界のあらゆる理論における矛盾や無矛盾を真の身体とし1つづつの蝶の身体を支えている。
この世界にはあらゆる理論が存在する。
このセカイはその視界にはいった以上、
その存在を許す、
あらゆる解釈は何匹も飛んでいるであろうその空間における蝶の体を指す。
あらゆる解釈が支えるのは、もはや蝶でもなかった。
蝶の体を支えているのではないのだ。
支えたのは空間
我々一人一人の想起が支えるのは空間である。
あらゆる理論の交点に真の世界は広がる。
そもそも誰も何も間違わないのが、
間違えていないのがこの世界である。
全ての事において、
『間違える』
ということ自体がそもそも不可能なのである。
これは寓話ではない、
既に、ある理論体系に基づいた論考であるがゆえに
間違わない理論、間違いのない理論なのである。