空について、サイのツノのようにただ一人歩めとは

そもそも空の考え方が、ぼくは嫌いだ。

現代の認識の空とは?

本質は存在しない?というか、

空になる、少し手前の話、その手前に本質がある、その本質にすらとらわれない空間の状態に至る事を空というのであろうが。

前提としていうならば、これは本質の先にある概念の世界。

ある意味心、感覚の世界である。


ここからは、私の意見だが、

現象界の本質は、原因と結果である。

言い換えるなら、元生界、元があり、そこから生まれる、世界。

そこに何処に空があろうか? あるはずもない。

無?

無いがある?

これはただのいいよう、現象界を指すものでは決して無い、それもただの概念の世界。

無の場所が空?

現実には無は存在しない、無いように見えて常に何かで満ちている。

絶対的に無に満ちてはいない。

絶対的に無は存在しない。

見えないだけで常に常に何かの存在がある。風、熱、光、粒子、夥しい何かで覆い尽くされている。何処をどう探しても、無というものは完全に存在しないしし得ない、概念上でしか、頭の中のイメージでしか、作り得ないし、存在しない。

無い場所に空がという表現をよく見かけるが、

無など実際何処にも存在などあり得ない、だから空こそは存在しないのだ。

もちろん心の状態には存在するのかもしれないが。

本質の無い心の状態とは何ですか?

これは申し訳ないが、私からみてこれはただのバカに見える。

本質を捉えれない事を肯定してるかのようにも見える。

本質を捉える必要がない事が、立派であるのか?本質というものにすらとらわれない事が立派であるのか?

不思議とやはりバカに見える。 

果たしてこれは崇高な教えなのだろうか?

坊さんが悟ったふりして説いているにすぎない。

説いている内容、説きたいことはわかる。

が、という話だ、それが重要とは思えない、とらわれない心とは確かに大事である。

だからといって人の社会の全ての問題が、空により解決できるなら、それに越した事はないが、本来空から逸脱したものにより形成された世界、この世界に対し、人が空のみで対抗しうる事は可能なのだろうか?

これはいじめがなくならない問題に対して、いじめは良くないやめましょう、無くならないものを、無くせと?そういってるだけなのと、同じ事だと思う。

失礼承知で発信するが。

ここから本題。

釈迦が空を説いたとされてるが、原始仏典において、その言葉は一度しか出てきておらず、それは虚しいという表現が、相当に強かった。

この世界が虚しさである事を理解できるなら、貴方の死への恐怖は幾らかは拭えるだろうと。

虚しさとは空(ムナ)しさ、空虚さなのだ。

釈迦は空という状態を説いたのではない。

釈迦は空(ムナ)しさという、感情、感覚を説いたのだ。

これは感情の世界を、感覚、感情の世界を説いている。

釈迦は無記を貫いた。

有名な話だ。

どういう事か、神とか真理について、説いていない。

四諦があるではないか、12の因縁があるではないか、これをどの真理として捉えるか、人の真理なのである。全てを司る真理に関しては相変わらず、無記を貫くのである。

何故か、

それは大きく時代背景が関係し、釈迦の無常感と関連する、生老病死は彼の出発のテーマであり生涯のテーマ。

人は苦であり、そこから抜け出る事は難しく。

彼が救いたかったのは彼らである。

何度も言うが、釈迦にとっての空は

虚しさと言う前提の中にある存在、故に苦しみを感じることは、当然のことであると。

それを理解すればこそ。

釈迦が救おうとしたもの達に、善悪のない真理など、説く領域ではなかった、人はそのレベルにすら達していなかった。

釈迦は知っていたのかもしれない、自らが深淵の真理を説いても意味のない事に、教えはズレを生むことを、釈迦の教えは2000年前、彼の教えは、彼の全てを知る中の、ほんの一部、その一部を全てだと解釈し、先に進まなかった事が恥ずかしく思う、その後真理を様々なもの達が付け足しはしたが、釈迦が説いたならどうだっただろう、たまぁに私はこれを思う。

まとめるならば

全ての概念には、その概念の司る領域みたいなものが存在する、それを混同させ続けるなら人は更なる意識の進化は無いだろう、よく精査し、重要とされてきたものを疑い、さらに思考する事で、そこ先にやっと真理が見えてくる。過去の教えは経緯なのだと、私がいうのは軽視ではなく、過去の教えに敬意を払い、その先を歩む者達となれと釈迦は言っているように思える。


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