真理と全てを隔てるカガミの領域
ある時から自分の中で、捉える領域?感じる領域?察知する領域?これらが同周波である事に気づきだす。
その源とは真理である、人は閃きだったり、気づきだったり、わかると言う感覚の構造、それこそ運命的な物あったりと、日常的に感というものと隣り合わせになっている、チャネリングなんぞしなくても、人は常に何らかからのインスピレーションを受け、生きている。
それの出どころ、正体がそもそも真理の一端なんではないのなと、そう思う?それがわかる?そんな感覚だ。
人は肉体を持っている、感知する期間を持っている、何をか?そう真理そのものをである。
松果体だのチャネリングだのわざわざそれを漁りに行く必要すらないのではないかと思い出した。
生まれて、生きて、当たり前のようにそもそも体の機能の一部としてそれを受け取るシステムが既に組み込まれていて、今のなお、すべての人類がその恩恵を受けているのではないのかと思う。
真理の空間には音も、色も何もなく、というよりか全ての概念が元の状態で溶け合って一つの状態としてある。
我々の世界にそれが投影される境目にガラスのような鏡があり、その先には未だ何もなくて、真っ白な状態、そこから先に進むと、徐々にコントラストが生まれ黒い宇宙がはじまりだす、その宇宙という空間にはガラスから投影された根源的なプリズムが長い距離を経て、色とか音とか感情とか色んな物に分岐している。
だから宇宙空間において、物理現象は当たり前とし、意識や、意識、様々な周波数帯のエネルギーは個別に存在し、何かに付着したりする現象が起きる。
我々の世界では、色、音、温度、明暗、これらは当たり前のように存在し、全て個別と捉えるが、何かと違う物に一貫性のある構造であったり、システムであったり、概念であったり、その一貫性の出どころは真理からの所以であり。
これらに関し、わかると人が感じれる事自体真理の恩恵であるのではないのかとも思う。
これはあくまで私の妄想、しかし、妄想が妄想である、証明など存在しないことも然り、もしかしたらあるかもしれないこの事を私自身は何故か信憑性を持って捉えてしまう。
わかるという感覚がそれをそうさせてしまう。
まぁ変な話なので、話半分で、私はそう感じてるという話ですね😅
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