堕落〜星になる
果たして、何かに溺れ、何かに依存し心身を壊す事は堕落と呼べるのだろうか、
人間は常に様々な葛藤と共にある、
その延長線上にこの心の病たる何かがあるとするならば、これは単純な、情動作用であり、それが慢性化するかの違いのようにも感じる。
この社会において、ごく当然な流れとして、この心の状態は存在しうると思う。
生きてるうちは堕落のしようが無いのではないのか?
酒に溺れ、女に溺れ、金に溺れ、人に溺れ、心に溺れ、
依存、固執、逃避、拒絶、無理矢理信じ込むことが、一瞬の情動作用から慢性的な情動作用に至るまで、
同じ風邪にかかったようなものであり。
とてもそれが堕落しているようには思えない、
それ程に心を壊す事は理解の範囲にあり、同調の範囲にあるかに思う。
ただここから先がなかなか難しいところで、
死ぬ人達もいる、命を絶つことにしか見出せない、
集団的な自殺すら行動の規範に入ろうとしているこの時代に
流石にこの心の壊れ模様は、落ちた、堕ちたと表現するに値するかに思う。
堕落とは死であり、自ら選び取る事がそもそも堕落なのではと思いもする。
この堕落という言葉、何となく自分の中で違和感を感じる。
堕落は美しいか否か。
例えば酒池肉林などといった言葉があるが、あれが堕落というのかと聞かれたら、多分僕の中ではノーだ。
人間だもの、フツーじゃん、そんなもん、
もちろん自分がそうしたいなどとは毛ほども思わないが、溺れる事は至って人間としては当たり前の範疇だと言いたいだけで、これが薬物依存でも、自傷行為でも、アルコールでも何でもいい、
単純に心のバランスを保とうとする事自体には何の悪意も無いのだろうから、それが堕落とするならば、全ての人が堕落していると言いたいだけで
ニュースで何かを揶揄したり、コメンテーターを使い、思想の統制を図ったり、人民掌握も含め、ごく個人の何かを尊守しようという想いの現れであり。
学校の教員、職場の上司、父、母に至るまで、何かしら守ろうとする心的何かが存在する。
世論的な認識でものを言うならば、私の目線から見てみればこれらは全て堕落となってしまう。
私にとっての堕落とは何か考えた時、やはり選び取らざるをえなかった死というものが、落ちる、堕ちると繋がっていく。
虚しき悲運の命の自認
これこそが堕落なのだろうなと思った。
神話の世界で、良くそういった死を迎えた者たちは
星となる。
そう言う者たちがこの世界を照らし星々となっている事が、何とも不思議である。
人は空を見上げて美しいと感じる星々、
人は空を見上げて、何かを思う星々、
人は空を見上げて何かを願う星々、
これらが全て堕ちた心の過去を持つ者だと考えた時、何とも不思議な気持ちになる。
彼らの悲運は、人の心の根に宿り、
また彼らの悲運は、人の心の宿木となり、
彼らの悲運こそが人の生きる力となるならば。
堕ちる事すら美しく感じてしまう。
そんな私はやはり、何なんだろうな〜と思う今日この頃でした。
なんだかな〜…。
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