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負の電荷、負の心


前提としての話

素粒子はこの世界には実際のところ負の電荷しか存在しない。
これは、この事実は、
すでにそもそもの不思議である。

そもそもの全ての始まりについては、
この世界には何も存在しなかった。

ビッグバンをきっかけに反物質と物質とが生まれたとされている

物質とは全て負の電荷を持ち、振動している

反物質とは全て陽の電荷を持ち、振動している

これらが世界に生まれ落ちてから何度も対消滅で消えていった

ガンマ線は1番最初に生まれた放射性物質。
放射線、これは人体に悪影響なものだけではなく、全ての周波数帯に対応するエネルギーの総称。
(わかりやすいもの貼っときます)

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理論上対消滅の際それそのものは打ち消しあい、放射線が生まれ、それそのものがエネルギーとして成り立っている。
全ての放射的なものの正体は粒子
その粒子は振動し、その波長帯の中で人間が視認できるものが光として存在している。

これに関して、感じる事がある。


『錯覚した感覚は真実から遠ざかる。』

これは大いにありうる事
何を言いたいか、
たぶん頭ではわかっている、皆んな
その理由は、科学で説明されているからなのだろうが、感覚的にこれをはっきり意識できているのだろうかと思う。

例えばどういう事か‥。

例えばあなたが太陽の日の元、温もりを感じていたとしよう。

あなたはどう感じますか?

たぶんおそらくは、

『太陽の光は暖かい』

ではないだろうか。
でもこれ自体が錯覚な事は多分理解に及ぶのだと思う。

どういう事か、、

わかりやすく言うなら
太陽の光を暖かいと感じると言う事は↓

太陽の表面で起きた対消滅のお陰で、エネルギーが得られ、更にそのエネルギーが振動する線として遠路はるばるやって来て、私の体内の分子に共振し、その分子が振動して熱エネルギーを生み出すから、私は暖かくなる。

これが(あー太陽あったけ〜)であり、
実際の現象と人の認識の誤差から生まれる、錯覚なのである。
この現象の面白いところは
物質がエネルギーに変わり、エネルギーはまた物質に変わることができる。

あくまでも太陽の光があったかいわけではない。

これはすごく重要な事、
とは言っても
『光が実は暖かいわけではないんだよ!』
といいたいわけではない。
では何が言いたいのか。

少し考えて欲しい事がある、

科学というものが今まで行ってきた行いとはなんだったか?
に対する答えでもあるが、
何故?という領域、見えない領域がそこに存在する、その見えないもの、よくわからないもののために、なんらかの影響があるからこそ、科学は進歩していった。
『何か』それを模索する為、空を調べたり、顕微鏡を使ったり、
これが科学だった。

もっとわかりやすくいうなら。
科学がない時代、見える範囲は?認識する範囲は?

勿論の如く、可視光線により、色の周波数帯が反射して網膜で反応した世界が目の前に広がる。

ではそれ以外の世界は存在しないのか?
これは長い歴史の中では謎だった。
存在しないと言っても、何かしら不思議な腑に落ちない現象や、反応が網膜に焼き付く事があった。

だからこそ、神を掲げた宗教が存在したり、哲学が存在したり、思想が存在する事ができた。

長年この可視光線の領域から人々は脱する事ができなかったが、長い研究の末、これは少しずつ範囲を広げていった。
赤外線を認識し出したのは1800年
電波は1860年頃
x線は1900年、
以降γ線、電磁波、宇宙線と発見されてはいるがもっと周波数の短いもの、長い物はあるかもしれない。
このように光だけではなく、音の波長も存在する。
『太陽が暖かい』は見えなくとも、感じる事ができる。
このように目に見えないものが、聞こえないものが、あなたの持つ感覚に何らかの影響を与える事は本当にこれ以上の概知になり得ないのだろうか?

何か意識的に感じる、『もしかしたらこうかもしれない』、『なんかそんな気がする。』
これらの感覚はもしかしたら、科学がまだ証明できていないだけで、私達が知らないだけで実は存在するメカニズムが本当は存在する可能性が、果たして本当にないと言えるのだろうか。

この世界は我々の認識している以上の何かが存在する。

我々が生きるのはあくまでもこの振動の世界、
我々が感じるのはあくまでもエネルギーの世界、
これらの中のごく一部を感じているにすぎないのだ。
そしてこのエネルギーの膨大さは、常識を易々と超えてくる。

例えばアインシュタインの考えたエネルギーの式がある。

物質1kgの対消滅を起こし、エネルギーに変換すると、光の速度が持つエネルギーの2乗、光速度とは俗に言う『1秒間に地球を7周半回ることができる速さ』

E=MC2

E(エネルギー)=m(質量)c(光速度)2(二乗)で表される

この事はこれから書くことの前提の話、別に本筋はこれでは無いが、ベースにこれは必要なので。

わずか1キロの対消滅が引き起こすエネルギーの莫大さは、想像を絶する、以下の話は核分裂の話ではあるが、この計算式の恐ろしさ、を知るには充分すぎる。

例えば1グラム衝突して対消滅をしただけで生み出されるエネルギーは広島原爆の三倍近い数字となる。

これは、人間の感覚ではとうに過ぎたる物理量だ、

感覚的突破口

少し再考察

そもそも、言われていることの一つに
『意識が世界を創る』
という言葉がある

その意識が世界を作り出すという事に関しては、
やはり物理的に考えてしまう脳では少し疑問が残るのも当然である。

ではこの創るとはどう言うことか、

まずこの ❶『意識が宇宙を作る』と言う言葉の持つ意味は?

動植物など既存の生物の宇宙観と我々人族の宇宙感にはそもそも隔たりがある、これは意識的にも見て理解が及ぶ。
人の宇宙感、又は世界観に関してこの❶を取り入れるならば、
我々が宇宙観を持つからこそ、宇宙がそのようにして意識的に存在する事になる。

だからこそ、この意識が変わる時、宇宙というものは姿形を変える事にもなる。

そもそも宇宙は断定的に存在しているのではなく、我々はそれを解明していっている段階であり、明確に何かが決まってしまったわけではない。

だからこそ後天的に宇宙に変化が訪れるというもの。

❷宇宙の可能性は無限大であるの意味。

我々は飛行機を作ったり、鉄道を作ったり様々な事を達成して世界に対する感覚的概念を変えてきた。

例えば

例えば、遥か原始の時代に飛行機は飛んでいたか?

例えば、遥か原始の時代に、高速で移動できる手段は存在したか?

例えば、遥か原始の時代に遠方にいる人々と意思の疎通ができたのか?

NOとYES

これらの答えは原始ではNO、最先端ではYES

ではその間では?ではこの先未来では?

原始と最先端の間においては、YESに度合いの違いが存在する。
未来においてのYESに、これもまた度合いの違いが存在するはずだ。

少しなら飛べる(YES)、高く飛べる、早く飛べる、たくさん乗せて飛べる、
これらの過程の中で、人は世界に対する認識を広げ、意識的進化、感覚的進化を達成してきた。


それぞれの時代区分において、それぞれ宇宙感も違えば、生命感、地球感、人の意識など含め全てに違いが現れるだろう。

ではこの違いに対応するかの如く、宇宙の可能性、自然の原理は変わったのか?

その問いに対しては、答えは皆ともに一緒である。

それは普遍である。

これは周知の通りごく当たり前のこととして認識されている。

しかしこの普遍という事がそもそもの問題となっている。

この普遍をどう捉える?

我々は全てに対し、果たして何%の理解を達成したのだろうか?

我々は秩序の持つ無限の広がりを未だ知らない。

変わりゆくYESに対し普遍のNO

ただ言えることは、空を飛ぶ為に利用した原理はNOの時代から存在していた。

高速に移動するための原理はNOの時代から存在していた。

意思を伝達する原理はNOの時代から存在していた。

YESの原理はNOの時代からすでに存在する普遍の原理を用いたものである。

ならば、飛行機も、移動手段も、通信手段も原始に既に村沿いしていた事になる。

勿論の如くその物体そのものは存在していなかったがそれは少し前にiPhoneが存在していなかった事と変わりない、テレビが存在していなかったことと変わりない。

何が言いたいか、

それは結局のところは何かを意識した時点で、それの存在は予見されているという事だ、不可能がどれほど可能になりうるかは現時点ではわからないとしても、意識した時点でその可能性はではなくなってしまうということでもある。

到底遥か原始には空を飛ぶなど及ばざるが如しであったにもかかわらずだ。

何のことはないそれらの不可能性が用いてきたものは、既に存在していた普遍の何かを使用したが為であり、この普遍が我々が理解の到底及ばない何かを秘めている以上、無いものは既に存在している事になる。

そう、全てなくても全て存在していた事になるのだ。

これが普遍の持つ絶対的な力であり

また、意識が宇宙を作り出す所以であり、

無が有である理由。

全ては何か具体的なものを選んで実感しているに過ぎない
全ての可能性は既にそこにあり、全ての人の意識の中に、全ての人の思いの中に、身体の中に、そしてその手の中に。

実際に手を見てみればいい。

その手は小さな細胞でできていて、その細胞は素粒子で出来ていて、
しかしそれはミクロが二次元的に敷き詰められているわけでは無い、空間を持ち隙間を持ち、実際のところは、ほぼ何も無いに等しい。

なのにそこには無いはずの次元が浮かび上がっている、私達の目はその現実的には存在していないものを捉えている。

既に不可思議の渦の中にあなたはいる。

物に触れる事ができるのも、電子が反発するからだけであり、その恩恵さえ無くなり、ゼロへと化す事象が起きた時、電子が少しでも別のルールに引き寄せられた時、あなたの手は、本来のあなたの手となり、『触れる』ことすら出来なくなる。
これは実際電子的に存在する、電子は動きを制限された時、本来必要なエネルギーを消費する事なく、反応の目的の場所に移動する事ができる。
この触れる事の凄みとは本来そういう事なのだと思う。

そして

それを意識的に実感する事が、そもそもこの世界を変える概念でもある



余談が過ぎた。

言いたいのは以下、
私たちが住む世界は、私たちの感覚では到底及ばなかった、物理学が繰り広げ出した世界がある、最先端の科学が立証しだしたその領域は、現在の私達では、到底理解の及ばないもの、私達の負という属性的感覚は、負という電荷の作り出すもの。
科学が黙認し出したその領域は、私達の意識を変えうる物なのか、私達の進化が終わるか、進むかは意識、感覚全てが理にどれだけついていけるかにかかっている。

というわけで。

『産まれ落ちたるは負の世界』

初め、全ては安定していた。
この世界の今あるすべては、
精神的であれ、物質的であれ、
全ては振動という共通点を持つ。

振動という概念の存在しない全ての始まり以前を、『安定』と呼ぶ

これは別にそんなおめでたい話では無く
かといってお堅い話でもなく…

抗い用の無い事実としての話、
そして何より、
高い精神性を必要とする話。

無意味にスピリチュアルを否定する人や、
闇雲な情報的スピリチュアルに傾倒する人にも
そして化学と精神を切り離してきた、人類にも
言葉以上によく良く理解していただきたく…。

そう、全ては安定し完全であったものから、
ある時振動という概念が生まれた。

それはやがて伝播し、
世界にエネルギーが芽生え
最初の物質の根が生まれ落ちた。
その物資の根を素粒子と呼ぼう。
最先端の化学は
それらに奏でるという意味を持たせ
弦と名付けた。

その生まれ落ちた、+とーの物質の根らは、
互いに対消滅を引き起こし、
その根らは全て消え失せた
その代わりにエネルギーを生み落としていった…

ただひたすらにそれを繰り返した。


何度も何度も繰り返された、
そう、何度も…。



それでも同じ数だけ、+とーの物質の根は産まれた、
やはりそれらは互いに打ち消し合い、
エネルギー以外何も残らない…。



…はずだった…


何度繰り返しただろう?

10億回?
それ程は繰り返したであろう…記憶がある…。
対消滅を起こした際、
不思議な事が起きた。


この現存する全ての世界
最初の不可思議が起きた
それは

マイナスの電荷の物質の根が一つ

取り残された。

何故?
どういう原理で?
わからない。
わからないが、
残された。
残されてしまった。
取り残されてしまった…。
そう、取り残されてしまった。


やがてその異質な現象はまるで
秩序であるかのように、
それはその周期で延々と引き起こされた。

その不思議な現象が蓄積された世界が存在する。
そう、
その世界こそが
この世界。


その賜物こそが、君らのよく知る、
この世界の辿った経緯だった。

いつしか全ては
負の電荷で覆い尽くされていった。

それでもなお、
エネルギーから湧き出る両物質の根
そして
生成と対消滅


今尚この
不思議な秩序は続いている。

『負の電荷の織りなす、3つ目の心、それは情緒』


私たちが何かに触れる事が出来るのは、
電子が負の電荷を帯びるから、
電子同士は反発し、
初めて、
触れるという事が出来るのだ、
全ての存在も、
形を成せるのは反発の賜物、

全てが陽の電荷なら、
全てはすり抜け、結びつき、
一体となる、
聞こえはいいが、
これはいわゆる個の喪失、
何も認識できなくなるほど、
全てと混じり、
混じったことも忘れ、
忘れる事も忘れ、
ただ、振動するだけのエネルギーとなる。

これは、
この世界には、そもそも存在しない概念、
存在してはいけない概念、
だから想像も、
その意味も、
恐らく意味もなく、
そして見当のつかないもの、
それほどにあり得ないことであり。


それに比べて、我が考える、
全ての事、全ての願い、全ての想いは、
何とも可能性のあることのように感じる、
無論それに比べて、
ではあるが。

個は他を認識し、思いが存在し、
思いの周波数は
望みや、憎しみ、苦しみを纏い
強く振動し、
いつしかそれは更に強くなる、
そう考えると、

全ての感情の存在意義など、
その想いのエネルギーから生成される
二つの感情、極性的な感情、
憎と愛、正と悪、苦と楽、嬉と悲
これに苛まれるがために、
人は心を持つのかもしれない。
もちろん定かでは無いが、
この二つの感情で織りなす心は、やがて

一つの情緒となって、

一枚の織りなされた衣となって、
あなたをいつかは温めるだろう。

新たな次元、
新たな心を創り出し
苦しんだ人々、
悲しんだ人々を包んで行く。
それこそはまさに

美しき情緒であると。

『我=エネルギー』

負の電荷の目的

そんなもの達を包み込むのであろう、
カルマ、業、精神的傾向は、
完結では無く、
新たな心の次元を生み出すための通過儀礼
それほど人の心は複雑で、
状況、境遇、先天も様々で、
その道を生きた人の苦労を私は語る事は出来ない、しかし私もまた、
〜何か病的な心に引き連れられた人生〜
であったかに思う

別に遺書では無いが、
今なお苦しむ人々も、
そこから逃れんが為
他者を傷つける選択を取らざるを得ない人々も
逃れ思い込む人々も、
想い信じ生きる人々もまた、

全ては負の何か、
または負の電荷の賜物であり

これは変化することを前提とされた、
世界に生まれたものの宿命であり
また、それからは逃れる事が出来ない。

私含む全てのあなたへ

僕から僕へ、そしてあなたへ

あなた方はいずれあなた方のままではいれなくなる

あなた方は迷い、気づき、想い、やがて進むのだろう

あるべき道筋はあなた自身の心達が恐らくもうすでに知っているのだと思う。

あなた方は心に気付き、自然とそこを歩き出す、

心配などする必要もなく、

全ての事象は、ただ意味もなく存在するのかもしれない

がしかし、言葉以上にその事象に左右されるのが人であり

気付かず人は心理的にその事象に意味付けをする。

もっと言うなら、スピリチュアルに傾倒しようと、しなかろうと

人は自らの感情、感覚に、思い込みの感覚を刷り込み、意味付けをし

生きる道、言い換えるなら、生きれると自己解釈した道筋に謝った意味付けをする。

思い込んででもそれで生きようとする強迫観念が何故か存在するのだろう。

しかし、いずれ、あなた方はその意味づけの仕方すら変えるのだろう

それを気付かずに行ううちに、あなたは本当のあなたを見つけ、あなた方はあなた方自身になる。

それは誤った正により負を呪う行為ではなく

負から生み出された、正の如き哀愁に

全ての負自体をあなた自身が包み込もうとする一つの次元を織りなす身となる。

本当の心という存在を創り出す。

結局のところはあなたを作ったのは世界では無かったのだ

あなた自身含め、私自身含め、それが誰であったのかすら、いずれは、万人ですら気づける世界にすらなる事が出来る。

これがこの世界に残されている本来の可能性であり

負の電荷を与えられた私たちがなすべき事、であり可能性でもあるのだろう、

だから衝突も嫌悪も、怒りも憎しみも、悲しみも、愁も、想い出も…。

全ては認識する事を特性として与えられた我々の使命でありまた喜びとも言えよう

無根拠な手放しなど、無意味、それこそは逃避、

人は人間らしく苦しみ、もがき、死と向き合い、何かを得ていく、これがやはり人の生き方なのかもしれない。

幸せな未来が全てに存在する事を私とて願っている、

避けられぬジレンマも、虚しさも、罪悪感も

そして願いも、私の中にはあり、
全てにそれが許される事を私は私で願っている。

そんな今日この頃。

目に映る世界が全て、美しき情緒を忘れ、ただ反発しているだけだと思うと、何とも不思議な感覚になる、何ともおかしな感覚になる。
そして僕は何とも首をかしげたくもなる、そして何とも苦しくなる、気付けば何とも泣きたくなる、やがて何とも叫びたくなる、そして結局何とも求めたくなる、想いが、伝わる事を、望みたくなる、僕は、悲しくなる、そしてまた、虚しくなる、
そして…。





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