ドグマ、教理ではなく、信じ込ませられた事
ドグマ
この意味は本来不確定的だが、恐らく真理と思われるであろうニュアンスの領域のことを指す。
人間の認識上の言葉、人間であるからこその由来の言葉、
ギリシャの本来の意味では
『思われる事』
とされているが、これはおそらく、
『実際のところはわからんけど多分〜な気がする』
的なニュアンス
これが徐々に歴史の中で変換されていく、
〜であろうかと思われる
〜であるに違いない
〜であるべき
〜だ
以下
世界は、神は、人は、本来〜だから〜であるべきなのです。
以下
いいですか、皆さん、世界は本当は〜なのです、だから〜すべきなのです。
こうして教理は出来上がる
信仰的な宗教も、新興的な宗教も、社会も、物理も、哲学も、密儀も、学問も、神も、精神も、現実も、先入観も、常識も、非常識も、教育も、社訓も全てはその信じてやまないそれを神格化し、絶対視しする、その純粋性から生み出される。
が、本来は教理とは不確定的なもの、教えるという姿勢すらとらず、当たり前であり、何ら有り難みすらないほどに当たり前の事、価値をつけ、評価をもたらしたのは他でも無い人間だと思っている。(古来のドグマ)
上のだと思っているをであるとすると教理となっていく。
真理は混沌
途方もないそのエネルギーはマグマとして禍々しいほどのエネルギーを放つ
光の、闇の、火の、風の、土の、水の、
それらの持つエネルギーは、それが根源たるものではなく、
全てはさらにその奥の根源から
マグマのような周波数不明なエネルギーから生み出される木漏れ日に過ぎない
教理は所詮この木漏れ日に過ぎない、
想定したものの姿でしか無いもの
本来それがドグマ。
私を突き動かさんとする、何かの存在、そうそれこそがまさに古来のドグマなのである。
教理的ドグマにおいて私の意思決定は行われない。
感じざるをいられない真理においてドグマなのである。
教理ほど強制的でなく
教理ほど夢みがちではなく
教理ほど限定的ではなく
教理ほど純粋ではなく
教理ほど無知では無い
それが私のドグマであり、またそのドグマは自分自身ですら信じ難い事でもある。私のドグマの深淵はまるでマグマのようにうねる、そしてこれがそうである事を、何者かがそうだという。
幻聴的に何者かがはつらつと明確に元気よく、『お〜』っと手を叩く。
何じゃそら!っと自分は思う。これがドグマ。
しかしやはり、
純なるものの誤法もまたこれ美しく
罪なるものの護包もまた美しい。
どちらも好きだな〜
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