愚鈍なる私の傍に

言葉で壊すことができるなら
耳で壊される事が可能なら
文字で捻じ曲げることができるなら
目で囚われることが可能なら

私が裁いているのは
私自身であり
結局のところは
私と世界には直接的には何も
関係性は無く

私が関係性を作っているに過ぎず
ただ世界にあるのは存在だけでしかない

生命と呼ばれるそれぞれが見ている世界には隔たりがある。

長い歴史により世界は変わっていったかに見えた。

しかしそれは人の目からであり、
その人ですら、様々たる世界を見ている。
獣に至っては世界の認識は異なり、
虫に至っては謎であり、
花々に至っては想定不能である。

人の意識がより高度であるからなのか?
果たしてそうなのだろうか、
全ては想像力から生まれたものであり、
今もそれらはその想像力により
多様に手足を広げている。

何故このような差異が?
その差異は果たして、理路整然と説明できるほど確かなものなのだろうか?
今や実存と虚実の溝は甚だしく、
どれをとっても結論的には不確かさしか身につける事ができないのでは無いのではなかろうか。

何故このような事が?
何故このような事態に陥らなければならなかったのだろうか……。

答えはおそらくこうである。


世界には善も悪も何の意味もなく
ただ存在してるだけであり

それぞれが価値を決めているに過ぎない

哲学や神も
別段、どうって事ない
ただあるだけなのだ

議論したいからしてるだけの関係性でしかない

だから
私もただ存在してるだけであり
その付加価値なども
同等であり
犯罪者も聖者も
ただ存在してるだけであり

意識的に天秤で測ることなど
本来何の意味もなさない。

🤔うーん
これは確かな事実だけれど…。
何とも殺風景な世界には見えるが
本来世界は殺風景である程に

全てが安息出来る世界なのだろうと思う。

遠くで木は切り倒され
遠くで木は切り倒される前に復元され
遠くに木は無い状態で静かに木はあり続け

そんな曖昧な世界が
安息として平行的に存在し続けるのがこの世界。

全ての観測的なモノゴトは人の意識がただ存在させただけの世界
〜未だ何も生じず………だ。


愚鈍なる私の傍には
誰も知らない静かなる世界が広がっている。

常に全ての実存も含め可能性がただ存在し続けるだけなのだ

birakocha

虚構とも呼べる静かなる世界に
その身を寄せて、光により明るみになる偽りの虚構に彩られた世界で人はただただ踊り狂うのだろう。

それが世界であり、
その世界の裏腹には静かなる世界が常に広がっている。
望まず、それはただただ存在し続けていく。

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