罪なき世界の瞬間
…
歴史とは…つまり
ぬぐうという概念が消失し得ない罪の慰め合いであると…。
全ての過去は常に全くの無実、無罪にして存在し
それを認識する事がつまりは
罪となるという事であり。
結果的には…
その先を生きるその身そのものが
罰としての存在となる
言い換えるなら、生そのものは罰の入れ物と化す。 のだ。
また
それ(過去)を認識する事、それ自体がそもそもの
大罪である事になる。
つまりは7つあると呼ばれる大罪も(傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲)その中から生まれた末裔である事になる。
思い返す事が既に罪であり
意識的に何かを認識する事が既に罪である。
アダムのリンゴもしかり
善悪を知るリンゴ自体も罪はなく
又それををかじる事自体も
善悪には問われる事はなく
神へと近づこうとしていると解釈した事
あるいはそう解釈した者
それそのものを罪とした協議を用いた輩が
罪を与えたにすぎず
罪は
後天的に誰かによって押し付けられたものでしか無い。
その事自体が誤ちの始まりであり
この罪は
そもそも原罪として成り立たせるかの協議すら行われていない。
そんなもの罪として与えられるべき事でもなく
不本意極まりない、実に身勝手なものであり、
神が真理に対しての姿勢、
しもべが神に対しての姿勢
それそのものがそもそも疑われるべきである。
何故に与えられたかわからぬ不本意極まれない罪。
罪は厳密にはその時点では発生しない
全ての今は相互関係から得られた結果でしかなく、
善も悪も無く
ただただ全くの結果でしか成り得ない
罪は常に
記憶と共に発生し
意識と共に発生し
感じ、認識し、理解し、歩む事それ自体が
そもそもの罰である事になる…。
悲しいかな
罪とはそもそも
誰かが誰かに与えられるものではなく、
ましてや人が人に与えられるものでは無い。
という事であったのだ。
命はただ存在するだけで、
し続けるだけで
罰と同意であるという事になる。
人が与える罰の全ては
理性的である事の訴えでしか無い。
人が生まれながらに罪人である理由には、
過去を認識する記憶と
未来を意識する感覚と
双方のエネルギーから生み出され
産出された子(原罪等)なのである。
意識を持つ以上皆、
根源的な重罪人であるからして
その生命の種類において明確な犯罪者と呼ばれる者達は、事実その根底たる罪の中から何か具体的な罪を抽出し犯しただけなのである。
相互関係の例〜
オリンピック代表者
〜身体に備わる何らかの機能の代表者のせめぎ合い
精神的特化
〜精神の中に存在する特異的精神の代表者
分化的細胞
〜全能性の中の一機能的細胞
進化形態種
〜根源的進化の種から生じた生態系
樹々
〜幹から伸びる枝葉
次元的に現れる境界線
頂は頂では無く。
多元的に広がる根
地中に根が伸びるように、
全ての根幹の、頂点の、点の…裏側…。
そこには多様な力が、生態系の可能性が、精神的な無が、罪が発生する以前が、
つまりは今が発生する。
感じようとせず感じる今が、
馳せる程度の想いが唯一、
唯一、
我々人類が全ての罪から解放される今であり。
寝てるくらいがちょうど良く
ぼやけた世界がちょうど良い。
世界は明るすぎたのだ
あまりにも明るすぎたのだ。
明るすぎるが故に
取りこぼした現実が存在してしまったのだ。
今を理解できていないこの瞬間こそが唯一の盲点として存在し続けることが出来るのだ。
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