隙間、跳ね返る言葉

これまで数十年生きてきた、
何度も言葉を発してきた。

会話を行う為、
意思疎通を図る為、
投げたボールは殆どが暴投だったようだ。

ボール、
ボール、
何度もボールをカウントされる。

そうね、
何を言ってるんだろうと必死に考える事はよくあった、
取りきれなかったボールは、自分にもあった、
違う方に転がったボールを拾いに行き、
そのボールを見つめ考えた、
そしてボールを投げ返してみたりもした。

やはり、ボールはまた暴投だった。
会話は全く成り立っていなかった、

私が判断された多くの要因は先ず言葉だった。

その内、
壁が現れて、ボールは『まとも』に投げた球だけ
彼方に届くような仕様になった。

この事で、私の言葉の多くは跳ね返り私の元にしか返ってこなくなった。

相手からは『その他の言葉』は存在しないことになった。

いつしか私は、
誰もいない遥か遠いところに、どこまで届くか、
ボールを遠投し出した。

ただただ、遠いところに、
帰ってこなくても良かった。
自分の投げたボールが、この世界の何処かに転がっていたなら、いつしかそれを
生まれ直した自分がまた見つけるだろうと考えた。

その時新たな私は、このボールを手に取り
私がしたように、このボールを見つめるだろうと。

そう思い、ボールを遠くに投げ続けた。


そしたら、不思議な事が起きた、

私ではない、私達が、
そのボールを見て、ボールを見つめてくれた。





所詮人間はその何たるかを、特定できていない、
模索している過程に生まれた全ての学問は、
暴投されたボールをおざなりにして進んでいく、
会話可能なボールを用いてのみ進むのなら、
無意味にでも投げ続けた我々程は、
その会話の何たるかの経験も持たず。

まぁ仕方ないと言えば仕方ない、


言語はやはりテーマなのだろう
しかしそれを少しでもマシな意味でテーマ化出来ているのは一部でしかない。

ほとんどの会話は、壁の間を通る事が可能なボールだけでのみ進んでいくものだ。

誤った逆探知、無理解の逆探知、非共感性の逆探知、
言語の壁を知らぬまま行われる学問の進化、
何も知らぬまま進められる、
パターン化による仕分け作業の過程に与えられた
私の名は最早そう言った類いの言葉に過ぎない、

『まとも』とは、やはり相対的に見たなら
地域にやっと組合を作ったぐらいのレベルでしかない。

そうね…
空を見つめてる、宇宙を考えてる、
無形物な何かを考えてる、無知のチを考えてる…。
何か得体の知れない、広大な何かを意識的に見つめ続けている。

多分残念なくらい、住む世界が違うんだ
一生無理かな、何をしたって、そう思う。
理解される事も、共に許し生きる事も。

だって君らはボールの存在の絶対数を知らないじゃないか、沢山あった、もっと沢山、無限とも呼べるほどには、少なくとも…、なのに…。

じゃぁ無理だわ、その感覚じゃどうしょうもない
絶対的、優しさが必要なんだよ、物事には、
そもそも理解してやるって感覚が足りなさすぎる。


そうね、例えばこれも同じ事なんだ
『殺した』が既にコチラでは善悪ではないように
『なぜ殺したか』は最早問題ではない
『なぜ殺さなければならなかったのか』が入り口であり
『そうせざるを得なかった環境の評価』は必須であり
そういう環境の後押しともなった社会の風潮
風潮を生み出す、個人の『優しくなさ』
これらを痛感する事が最も重要視される。

一見別の話だけど、同じ構造のものを扱ってる


いつぞやもいった
『一つの結果の責任は必ず全ての人が所有している』

『他者が〜。』なのではなく、
やはりそもそも
『全てのひと、一人一人が〜であり、その為に〜は〜として行きざるを得なかった。』なだけなのである。

そしてこの言葉もまた、
大半がその辺を転がるだけのボールでしかないのだ、
あ〜、いつしか私は、
この皮肉な構図がそもそも好きになってきてしまっていたようだな。

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