Moral(倫理)をmへ
ここ最近のモヤモヤについて、
モラトリアムと言葉が来たのが事の発端だった
語源はラテン語でmora(遅延)
lをつけるとmoralになる
まずこの違和感が始まりだった。
moral自体の語源が、mores(社会的習慣)
一見全く違う二つの言葉
遅延と社会的習慣
moratoriumをもう一度考える
金融的、社会的、心理学的、歴史的、
様々な状態で派生されるこの言葉に共通する認識は、
ある動きの中から何かを見出す為、準備期間、停止期間、思考時間、
つまりは既存の中からの新たな動きを見出すための遅延的停止作業
そう考えたとき、先の二つの言葉は確かに
moratoriumに集約されている。
しかしこの、moraにLの小文字を入れる作業が社会的習慣に繋がる事自体が、やはり異様でならない。
L、ラテン語12番目のこのアルファベットは
ギリシャ文字でラムダΛ, λ
キリル文字でЛ, л
小文字でl
もうこうなってくれば面白い、
まるで何かを表しているかのようで…
そう、つまりはmoral(社会的習慣、倫理観)
はLと言う、仕切り(l)、蓋(Л)がなされていることが前提となってくる。
そう考えた時、これをとっぱら意現れる状態こそがmora(遅延、停止、思考期間)と言うことになる。
そう考えた時、倫理という物は初めから普遍の形で存在してる事は既に幻想かに思えてくる。
二極化の天秤
まぁまず初めに、これは、概念の批判であり人の批判ではありません
moratoriumの期間をどう捉えるかでもあり、既存の倫理的発想のどこに悔いを打ち込むかを思考している期間でもある。
例えば不倫問題、いじめ問題、ウイルス問題、宗教的戦争の問題、社内での徒党問題に至るまで、様々であるが、相対的に悪としてある事が完全な悪になり得るのか、掲げられる善が、本質的に全てを救いうるかわ不明である。
プラスとマイナスが存在するように、凹凸が存在するように、ごく当然とその状態は起こりうる事で、そこに善だの悪だのの意味付けをするのは人間ばかりであり。
二極化などという、半端な幻想的、理想的な社会も存在し得ないし、又は摂理が求めるのはそんな半端な世界には無いかに思う。
常々思うが自分自身人に対して、人類に対して、強いべき論を持つが、これは何も、50、50で分ける作業でなく、0か100かであり、救われるべきは全てであり、それがなされないなら、淘汰されるべきもまた全てであり、半分救って半分落ちるなどという利己的幻想は持たないし、持てないし、また人の罪とは満遍なく与えられるべき物で、誰かが救われ、誰かが落とされるなどということは、あり得なく、もっというなら求めるべきことでは無い事も私のべき論であり。
人の罪を押し付け、開かれる世界などという幻想は持たない方がいい、というか、そこに私は言ってもその世界はまた同じ事を繰り返す物だと思う。
蟻だ、まさしく、それはあり的な社会の構造をまた作るだろうし。
結局以下のコメントまでの前置きが長すぎてしまうがこう思う。
まとめ
角度的に善を悪と見れる要素があるなら
絶対的な善は存在しないことになる、
ならば善と悪を区別しようとするのも、
悪の潜む善の行為からである
この狂った主張を、悪と見なすなら、それは狂った善の主張であって、それを受け入れるなら、容認された善であって。
言い逃れのできない、理屈であり、言い逃れをしようとするならば、それは絶対的な善にすがる行為
それほどに善は曖昧で、悪と同義で、誰かの善は誰かに罰を与える行為。
本質的な善が存在するなら、それは悪を断定する事も、罪も罰も与えない事を、そしてそれが不可能な事もよくよく理解すべきだ。
理解と述べたのは、それを行う心と脳を持つ人を対象としたからだ。
人と称したのは
間を意識する人間になど用は無いからだ、区切りなど、自己肯定の手段にすぎない、その自己肯定が他者を否定する行為なら、それは行われるべきでは無い
それほどに人は個を尊重すべきであり、間など社会性を作るの賜物でしか無い
今後、人は創られなければならない
脱却と変化こそが進化である、
それは既存のmoral(倫理)からl(仕切り、蓋、壁、)を無くしmora(抵抗)する行為である。
つまりはmoratoriumは新たな価値観へと進化させる期間であり、moralという倫理は『現状の』であり、普遍の何かが生み出された時、その言葉はまた進化するのだろう、おそらくそれは純化であり、言葉が増えるよりは減るパターンが望ましい。
差し詰めmと言ったところか、
大文字としなかったのは、小文字こそが、
『根源たる純血の物』
のニュアンスが強いからだ。
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