悟りって何ですか?
悟りとは悟りを求めた者に訪れるある意味境地のようなもの、
悟りを求める前提がある、
悩み、苦しみ、それを解き放ち、あるがままに生きる境地へと至る事。
ニュアンスはわかる、
でもこれは何処となく言い聞かせてる感覚がある、様々な問題が人生にはあるが、それを補完し、そこに意識を向け、とらわれない生き方を選ぶ為に生きる事が悟りなのか?
自分奔放に生きる人は悟ってるのか?私利私欲のために、とらわれず、やりたい放題して生きる事がさとりなのか?
この両者は違う基本的にはね、
でも僕は思うんだ、根っこは一緒じゃね〜?
悩み苦しみから解き放たれ、一切に心を乱されずあるがままに生きると言うのは、時代の表題によってその姿を変える気がする。
そもそもは、苦しみから解放されるため、それはごく個人的なものから始まった、影響し、その教えが広がったものが悟りという言葉の持つ領域。
その苦しみから解放される方法を別の形で満たした場合、それが欲によるおぼれだと評価するのは、第三者で、本人からすれば幸福の真っ只中、
やはりなんか違和感が拭えない、
単に苦しみから解放されるあるがままに、全ては無、その境地に至る、一切の悩みなく、、、これが悟り、うーん、なんかしっくりこない、で、悟った彼はその後どうしたの、どう生きたの、釈迦は生き方を選択したが、その他のさとりしものの生き方は?
悟った人ばかりになると、世界はどうなるの?
人の幸福感とは存在するの?それは幸福なの?
なんかやたらめったらいろんな疑問が吹き出してくる、
そこにスイッチを入れた途端、
完全に普遍のもっと理解不能な境地だと思われる、言葉に表す事ができるようなものがそもそも悟りなはずがない。
言葉にできるとは結局は人の範疇内に収まるものであって、その内容がいかに困難であろうと、人の意識内のものから生まれたものならば、そもそも達成可能な境地であり、悟ってる人はもっとメジャーかしていても、おかしくない気がする。
現に悟っていると言えるほどに明確な存在は圧倒的に少ないよね?
これってもしかして、悟りという境地勘違いしてないかい?言語化が困難なほど説明が困難な状態がそもそも悟りなのではないかと思う。
では僕がイメージしてしまってるものは何なのか、についてですが、それは単純に世相は世相の流れ、それが長い歴史上どういう経緯で、そうあったのか、にまずは由来します。その結果と照らし合わせるべき理想論がそもそもは存在していたわけです。
その理想論こそごく少数派で、それは社会が逸脱していれば逸脱しているほど、孤独となっていきます。
その孤独的全体像も含めた上で、全てを捉えつつ、生きかたを生きざるを得ない生き方が存在する事に気づきます。その視点は、その者の目線にはなく、悟り歩くものの後ろ姿を写すものである。悟った者のあゆみとはごく個人的で、人の手に余るほどの真理すら求めず、ただ与えられた生から感じるものを味わい尽くし、感じ生きるという感覚。
???うまくことびにならんな???
多分にまだこの言葉にはまだ誤解があると思う、
出された料理、与えられた料理、これをただただ有り難く、味わい尽くし『あー美味しかったな〜』と実感するような感覚?
『うわっ!うま!なるほどこれはこうで〜こうなるから、こういう素晴らしい味になるのか、すげ〜な、すげ〜な、おもしれ〜料理って!』
なんか下のひとは馬鹿みたいな人にも映るけど、これが真理を求める人のスタンスだと思う、感動と疑問と感心が悟るものに対して主観的で病的な強さがある、そんな気がする。
うまく言葉にできません!
何となく悟りと真理の探究は違いがあり、
特に悟りは既存の意味合いの領域に疑問を感じたという話。
うまくまとまらんかった、多分わかる人にしかわからん記事になっちまった、その内また書くんだろうな、これに関しては、更なるインスピ!って感じで…。
これに関しては、まだ実際わからないとこがある、でも多分本来の悟りとは今言われてる意味とは違う言語化する事すら出来ない、何らかの意識状態と思われる。
もしかしたら彼が語らなかった無記の領域を真理というのかも知れない、そしてそれをベースとした彼の中だけに悟りが生じたのかも知れない、という事は真理を知る事でしか悟りは開けないという事にもなってしまう。
そうなれば、悟りとはやはり世に言う悟りよりも更に深い何かだと思う。
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