イスカリオテのユダ、偽りの愛
ごめん、ちょっとごめん、少し、怒りが湧いてくるからもう書くけど、気悪くしたらごめん、でも、多分重要、多分こちらが正論。
ユダの裏切り、
あの話ってなんかおかしくない?
イエスが実在したとかしないとか、本当はこうとかああとか言うのはなしにして少し疑問を書きたいんだけど。
イエスは何故磔にあったのですか?
もっともメジャーな回答ではさ、人類の罪を身代わりとして受ける。
そんな感じだよね?それは良い、凄い感覚、真似できない。
でもさ、そのイエスがさ、この中に裏切り者がいる!って言うの自体、もうおかしくない?
矛盾してない?
そういう感覚にいる人がさ、それ知ってても言わなくない?その後自責の念に陥る事も、後悔する事もわかってんだよ、だったらそこで彼の罪は精算されると考えると思うんだよね?
なんでこのエピソード必要だったわけ?
裏切り者すら愛するという構図が必要でしたか?
そんなにしてまで、愛を押し通したいですか?
愛!これが良いものか、悪いものか、あえてここでは問わないが、
といううか、これを問わなければならなくなるのは、何のためか?
愛をゴリ押しする奴らの軽薄さがあるからに他ならない、愛を説いておきながら、口々に愛を連呼する奴のただならぬ軽薄さがやたらめったら俺の目に止まるのは何故だ?
お前らが馬鹿だからだ、愛の領域を知らないからだ、異様な許容範囲を持つ愛という概念は、それこそ何でもかんでも受け入れなくてはならない、それが出来てるか、出来ていないかが問題になる、もちろん聖職者でその愛の懐の深さを感じた事がある。
でもそれは本当稀!稀!
そんじょそこらで、連呼して発信してるものにそれを感じない、ボロが出まくってますが、気づかないんですか?それで何かを説こうとは、愛に対する冒涜ですよね?
愛を語るあなたがどれだけ心が薄汚く、人の心を汚していくのか、その様をいつも見てきた、まだその醜態を晒すか?
神の愛などと言ってる時点で狂ってる、神の管轄の領域は人ではない、人を含む全てだ、全て等価だ、神が人を愛したなどという、自惚れも大概にしろ。
均衡を保つ、愛の数だけ憎しみがある、このバランスを維持する事が摂理の持つ愛。
偏ることは隔たること、神が全てを愛する?お前のいう愛は何なんだ?
全てを善なるもので塗り固めるなどあり得ない。
それはバランスの崩壊を招く、隔たる事が、いかに無秩序的か知らないと見える。
愛とは円環、完全なる均衡、全てが全ての価値を愛し、その状態で安定させる事こそが本質的な愛、愛を語るなら許せ、全てを愛しめ、向けられる刃にさえ、離れていく哀しさにさえ絶対的な愛で答えろ。
人の心には色んなものが存在するそのままでいい、そのままで愛せないなら、愛を語る資格はない。
それすら出来ないなら、もうお前の愛は崩壊している、早々に捨て去れ、これ以上醜態を晒すな、そんな姿を見てるこちらがどれだけの虚しさを感じるか、お前の愛は、俺に虚しさを生むだけだ、その時点でもう崩壊している。
もうやめろ、頼むから、これ以上私を壊さないでくれ。頼むから。
お前のいう愛など私からしたらそんなもんだ、二度と口にするな。
愛を語らないお前ならきっと許されるはずだ、
いや、
そんな虚しいお前でさえ、秩序は愛してるのだろうな、なんて事だ。
なんて奴だ。
そんなことすら気づかない、
やはりお前が哀れに見える。
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