イジメ、死を選ぶ前に…。

いじめに関して何が問題か、加害者、被害者どちらが悪い、ではない、全くもってその様にはなっていない。

イジメが存在し人が自死を選択しなかったとする、これはあくまで個人の問題であり社会を巻き込む事も無い。

つまりは社会的な問題として広がりを持ち、始めていじめ問題というものが起きる。

私もイジメを経験した人間、その時これは、私の問題は社会的な問題では無かった、あくまでも個人個人の中に巻き起こる逃げ場のない大きな渦。

それに関して何も出来ない社会が何を言ったところで私には何の影響もなかった。  そもそも時代的には今ほど社会問題ではなかった。

イジメとは社会ではなく、個人レベルでそれとどう向き合うのかでしか無いかに思う。


それを前提に話を…。

イジメが無くなるか無くならないのか、

勿論べき論としては無くなるべき由々しき問題、

しかし結果的に言って無くなるか、が問題になって来る

個人レベルで起こりうる問題、被害者、加害者の線引きすら危ういこの問題が、無くなるとは私は到底思えない。

善悪をどう決めるのか?加害者が悪いと世論が決め捲し立てたところで、無くならない問題に対し、この答えはあまりにも利己的で、偽善的、被害者を思っている様でその実何の役にも立たない。

加害者者が馬鹿であることには何の変わりもない、その馬鹿が変わる期待は無いとして。

それを断定したところで変わらない、その答えには何の意味も存在しない、現に私は何も救われなかった。


私の事を書いていく…。

何でかは知らないが私は友達が少なかった、お金を払って遊んでもらうのに疑問は浮かばなかった。

担任からも良く隣の空き教室に連れて行かれ腹を殴られた記憶がある。

昼ごはんには大きめの段ボールに詰め込まれ、上に乗られ笑われ、タイミングがずれて開始される昼食に、後から来た担任は私に対する苛立ちの目を向けていた。

何を言っても罷り通らなかった、ただただ悪意に満ちた人の目と、蔑み憐れみ、様々な温度に、まみれた人の目を私は浴び続けていた。

私は笑うしか無かった、加害者も、傍観者も、誤解者もそのままに、何も変えようがないことはわかっていたから。

誰が悪いのか、相手や周りでは無かった、勿論その答えは私を救ったりはしなかった。

私は私が悪いと考えることで、この精神の状態を、死ぬ方向に向かわない様にすることで精一杯だったのかも知れない。

死ぬなんて答えは当時の私からしてみれば、ありえない答え、勿論何かを変えれるわけではないが、心の中では抵抗していた、抗い、この苦しみが自死を選ばぬ様、責任の所在地を探していた。

私は、何故苦しいのか、何に悩んでいるのか、不幸なこの感覚はどこから来ているのか、そればっかりだった。

私はいじめから逃れたいとまでは、実感した記憶がない。

理由がわからない以上、逃げる事の不可能さ、イジメる感覚の理解など出来ず、またそこに人の心を見出す事の困難さ、悪意なき何気ない言葉の、危険性。それに対しては抵抗する力はなかった。

ただ出来る事やれる事は、私が死なない心を作るだけ。

それだけに集中した。

漫画を読んだり、ゲームをしたり、世界観に耽け、没入感を得る行為は確かに逃げる上で欠かせなかった、

好きなジョンの歌を聴きながら、悲しい感覚を探し出しては、他に苦しい感覚が世界のどこかに存在する事を錯覚したり、自然に目を向け、何故を探して、そこに目を向けたりと。

いろんな手法を取り、イジメからではなく、感覚的痛みから逃げる事だけを行なっていた。

おそらく、最後のこれが良かったんだと思う。一時の気休めは一時のものでしかなく、逃すでしかなく、私はまたその痛みに直面していた。


それに比べて何故は、どうだろう、そうやすやすと答えも出ない上、イジメられている事にすら何か突拍子もない視点から思考が働いていた。

もちろん子供の何故、イジメがなくて良いよなとか?何も考えなくて良いから良いよなとか?

その程度、しかし、それでも重要だった、それで充分だった。自死を選ばぬ答えを築くにはどうすれば良いのか、そこだけに集中した。

彼らはむなしき存在なのだと、他者を傷つけることで、虚栄を張ることでしか、アイデンティティを確立できない悲しき人間の一人なのだと、周りもそうであると、自分の苦しみは自分が受けることで、誰かを救っているのだと。

そう錯覚するようにした。

自然はイジメというものが存在する社会ではない、そう見えるものがあったとして、実際はそうではなく、生態的システムや理由がある。

人間の社会にのみ、いじめる側と、イジメられる側があり、生体的になんの利点もない事と向き合っている両者がなんともバカらしくなってきた。

イジメがどちらが悪いのかは相手ではない、相手であったとして、免れたとして、またそれは繰り返される可能性のあるもので、根本的に解決したわけではない。

私これを私のせいにして、解決しなければ、解決のしようなどなかった。

議論の余地など無いほどに、イジメ問題の善悪は、相手が悪いのでは無く、精神的成長を迫られた自分自身の問題として片付けた方が、圧倒的に効率的な答えなんだと思う。

死を選んだあなたが悪いだの、いじめる側だの、親が悪いだの、社会のシステムだの、御近所さんとの在り方の変化だの、いじめられる理由だの、色々上げてはいるようだがその議論は全くもって話にならない。

無くなるか、無くならないか、ここには無くなるべきという、べき論すら入り込む余地がない。

何度も言うがいじめは無くならない。

いじめの理由に、人の精神性という漠然としたものが含まれてる以上、これはどうしようもない問題。

だからイジメられるあなたが悪い。

それでも君は生きて、生きて、死にたくても、生にしがみついてでも、生き無ければあなたは、あなたを正当化する術はない。

そこから立ち直り、立ち上がる精神こそに意味があり、新たな確固たるあなたを形成する、最良の餌場なのだと、それこそがヒントなのだと、唯一無二の精神を築き上げる、題材としてそれを扱って欲しい。

現代のイジメは本当にエゲツない、自分がどうもしてあげれなかった事を悔いるほど、エゲツない。

この言葉すらあなたの感じる温度には見合わないと思う、どうにかして、その温度から逃げて下さい、全ての社会的立場それを捨ててでもいい、それでも必ず何とかなる、死ぬよりかはいい、勿論これすらも無責任な言葉、それでもいい、死ぬ事だけは…。

辛辣な言葉、下らない評論、善人気取り、半端な優しさ、話題に取り上げれば取り上げただけ、人は死にたくなるメディアは本当は何も発信しないが良い、ニュースはコメンテーターの意見などは本当は言うべき事では無い事に気付いているのか、いないのか。全てのあり方が、おかしな方に崩れつつある。

君はまだ辛い時期かもしれない、だが、それに対抗しうる心は必ず作られる、目の前を見る事を少しずつ忘れ、世界の何かに目を向ける、興味を注ぐ何かがあるはず、探究したくなる何かがあるはず、

誰しも必ずそれが存在する、そこは入り口、そこが入り口、音楽でも、料理でも、本当に何でもいい、没頭できる何かを見つけ生きて下さい。

死は必ず今その時点では必要のない要素、死はあなたが思っているようなものでは無い、もっと違った意味合いをあなたはいつか見つけるはずだから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?