アスクレピオスは何を癒したのか。
プラトン、死の三部作、パイドンについて。
ソクラテス最後の言葉に
アスクレピオスというギリシャの神に雄鶏を捧げる様、クリトンへと想いを託した。
アスクレピオスとはケイローンより医術を学んだアポロンの子とされている。
ケイローンとは占星術で言うところのキロン。
ヘラクレスの毒矢により苦しむが、この苦しみから解放される為自ら命を絶ったとされている。
それ故に魂の傷からの癒しとされている。
そんなケイローンから医術を学んだアスクレピオスは、ソクラテスの何を癒したかったのか。
またソクラテスは誰の傷を癒すが為、雄鶏を捧げる様伝えたのか。
有名な話ではあるが、ニーチェはソクラテスをデカタンとして悲劇の誕生の中で描いている。
ニーチェは嫌いでは無い、が、ソクラテスの死に様が例えば、この世界になかったとする、
または取り繕い、生きる事を懇願していたとする。
そういう世界線において、この世界の哲学は形成されていたのか、そういう疑問が湧き起こった。
ソクラテスの弁明、あまりにも有名だ、内容を知らずとも聞いたことがある人がいるほどに、
紀元前400年近くの話である、そんなはるか昔に死んだ人のエピソードを認識するという、特殊な事は本来考えられない、何故それは語り継がれたのか、
間違いなく、その生き様と死に様であろう。
多くの弟子が泣く中で、彼はあくまで彼の主張を緩める事なく、毒を煽り死んでいった。
クリトンへ申し出た、アスクレピオスへの雄鶏の件、
これは生という病からの解放、それに対する捧げ物というニュアンスはそぐわないかに思う。
彼は知っていたのかもしれない、この死が、この先を生きる者達、哲学を自らの足で歩かせる者達の、心の病、それ全てを癒すが為にクリトンへと願い出たかに思う。
この死に様は、まるでキリストの様でもある。
この2人は生き様を生きた者達、
死に様の選び方に共通めいたものを感じる。
当時、2人は宗教の師では無かった、哲学の祖では無かった。
2人を永劫残る者へと押し上げたのは、他でもなく、
プラトンとパウロであった。
皮肉にも似た様な経緯を持つ2人と、2人の弟子は哲学と宗教という、一見二分するものを生み出したかにも思う。
しかし、見る人によっては、確かにソクラテスは、ニーチェの言う様であり、自らの為アスクレピオスに雄鶏を捧げる様に言ったかにも見える。
私はそうは思う、彼は間違いなく、その死に様を選ぶ事で哲学の祖となり、哲学を永劫のものへと押し上げる種へとなった者だと。
生に対し、最も悩み、最も意味を求め、誰よりも生を愛したからこそ、生き方という物にこだわり、あの死を選ぶ事で、完結を迎えたのではないかと。
彼はのちの考える者達の為、クリトンに雄鶏を捧げるよう、伝えたのだ。
求める者達は常に、アスクレピオスにより、癒やされている。
ソクラテスはそれを神に託し、彼の想いの中で、自由に思考することが出来るのだ。
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