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裁判がなかった鎌倉時代 ~日本史入門書に噛みついてみる⑤~

長く間が空いてしまった。いよいよ鎌倉時代を見ていかねばなるまい。

1 頼朝の死因は落馬とは限らない

まず初代将軍で御家人たちの人気も高かった頼朝だけど、彼はなんと馬から落ちてそれがもとで寝込んで死んでしまう

本書103ページ

うーん、極めて微妙なところだが、一応ダウト扱いにしておきたい。
というのも、頼朝が死んだ建久9(1198)年の『吾妻鏡』がごっそり抜け落ちていて、頼朝がいかにして死んだのかは謎に包まれているのだ。
ヒントとなる唯一の記述は、建暦2(1212)年2月28日の『吾妻鏡』で、将軍実朝のもとに
「相模川の橋が壊れていて、地元民が困っている」
との陳情が来た場面。そこに
「この橋は13年前に完成記念祭が行われましたが、その帰り道に頼朝様が落馬してしまい、それから間もなく亡くなったので縁起が悪いとされ、ずっと放置されていました」
という記載があるのだ。

つまり
①落馬が原因で死んだ
②病気が発症したために落馬した
③落馬と死との間に因果関係はなく、時期的に近接していただけ
という3つの可能性があり、①と断定することはできないと思うのだ。

2 実朝は宋に逃亡しようとしてない

彼は日本を脱出しようとしたこともある。大きな船を作って、中国へ逃げ出そうとした。これも船が壊れて失敗に終わった。もしかしたら彼は身の危険を感じていたのかもしれないね。

本書106ページ

これも厳しい指摘かもしれないが、最近の研究では「日本を脱出しようとした」のではなく「宋との交易を希望した」という説が有力視されている。
かつて実朝については「北条家の言いなりとなる気弱な人物で、船を建造したのも現実逃避願望の表れだ」と言われていたが、最近は卓越した政治手腕で北条家に対抗しようとした人物といわれている。
確かに完全な傀儡ならば暗殺される必要はないわけで、最新の有力説の方が説得力があるかもしれない。

3 実朝暗殺事件の日付が変

1219年1月27日。この日、実朝が右大臣になったお祝いに鶴岡八幡宮に参拝することになっていた。お参りをすませ、帰るところを、大銀杏の木の陰に隠れていた公暁にさされ、暗殺されてしまった。

本書106ページ

「大銀杏の木の陰に隠れていた」は、初出が江戸時代なので明らかに後世の創作なのだが、まあその点は良い。有名な逸話だから紹介しておくことは悪くない。
問題は「1219年1月27日」の方。
実朝暗殺の日は、「建保7年1月27日」と太陰暦で表記するか、はたまた「1219年2月13日」と西暦で表記するかのいずれかだ。
それを混ぜこぜにして「1219年1月27日」と表記するのはよろしくない。
ちなみに私のブログでは、いつも「建保7(1219)年1月27日」と括弧書きで西暦を表記することにしている。

4 公暁は幕府に引き渡されていない

公暁はどうなったかって? このあと大急ぎで三浦氏の所へ駆け込んだらしい。ところが三浦氏は公暁を幕府に引き渡したそうだ。その結果公暁は処刑されている。

本書107ページ

これは明らかな誤り。まるで公暁を生け捕りにして幕府に引き渡したかのように書かれているが、実際には三浦義村の家臣・長尾定景は公暁と遭遇するや否や、すぐに首を取っている

5 四代将軍は九条道家の四男ではなく三男

北条氏は初めは天皇の子供を連れてこようとした。この頃の朝廷で一番力を持ったのは後鳥羽上皇だったんだけど、幕府など邪魔でしょうがなかった上皇はこれを断った。仕方がないので藤原氏の一族、九条道家の四男を連れてきて将軍とした。

本書108ページ

これは、なぜ発生したのか分からない不思議な誤り。
4代将軍九条頼経は、九条道家の三男だ。なぜ四男だと思ったのだろう。私が知らないだけで、幼くして死んだ子がいたのだろうか。

6 文永の役では台風襲来は撤退中

ここで奇跡が起こった。台風がやってきて沖に停泊していた元の船を次から次へ壊してしまったのだ。もちろん船に乗っていた元の兵士たちもある者は溺れ、ある者は流されて捕らえられた。

本書117ページ

文永の役においては、元軍の撤退中に台風が来ただけで、「沖に停泊」中に襲来したわけではない。弘安の役と混同しているのかも。

7 永仁の徳政令の説明が微妙に違う

徳政令ってなんだろう?
それはね、幕府が出した法律のようなものなんだけど、内容は「御家人がお店などからした借金はなかったことにする」というもの。えーっ? そんなのあり?
そう、おかしいよね。借りたものは返すのが当たり前だよね。

本書119ページ

徳政令の説明として「借金はなかったことにする」という表現は、少々違う。正確にいうと永仁の徳政令は、
1 御家人の所領の売却や質入れを禁止する。
2 御家人が御家人に売却した所領のうち20年前までに売却されたものは、無償で取り返せることとする。
3 御家人が非御家人に売却した所領については、期限なくいつ売却されたものであっても、無償で取り返せることとする。
(以下略)
というもので、つまり「借金を帳消しにする」わけではなく「借金の際に出した質物を無償で取り返せる」というものだ。

8 裁判はなかった? そんなわけない

御家人たちにお金を貸していたのに返してもらうことができなくなったお店の人たちなどはどうなる? そう、当然困るよね。腹も立てただろう。今なら裁判なんてものもあるけれど、この時代にはそんなものはない。ひどい命令だけど身分が上の武士たちに逆らうことはできない。泣き寝入りするしかなかった。

本書120ページ

これが本書の中でも最もあり得ない誤り。鎌倉時代に裁判はなかった? いやいやいや、そんなわけないでしょ。問注所(今でいう裁判所)とか引付衆(今でいう裁判官)とか聞いたことないのかな。
・・・と思ってこの本の鎌倉幕府の機構の説明を見てみると、こんな記述があった。

三つの役所が中心になった。御家人という頼朝の家来を取り締まるための侍所。幕府のお金を管理するための政所。それに裁判をする問注所だ。

本書102ページ

つまり、あるページでは鎌倉時代に裁判があったことをちゃんと明記しているのに、他のページでは裁判がなかったと言っている。変なの。

9 御家人は金を借りられなくなった?

でもね、これから先は御家人には絶対にお金を貸さない、という予防手段はとれるよね。そして実際にそうなったんだ。つまり徳政令以降は御家人たちは借金すらできなくなった、ということだ。貧乏だけどお金を借りながらどうにか生活ができていた御家人たちは、もはやそれすらできなくなった。

本書120ページ

永仁の徳政令以降、御家人たちは「徳政令の効果は本契約には及ばないものとする」などといった「徳政文言」と呼ばれる条項を設けた契約書を締結し、所領を売却・質入れしていた。借金ができなくなったわけではない。

10 単純ミス

行く川のながれは絶えずして しかも本の水にあらず よどみに浮(う)ぶうたかたは かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし

本書121ページ

「浮かぶ」と書くべきところを「浮ぶ」と書いて、しかもルビが「う」のみ。単純な校正ミス。

11 吉田兼好はもう古い

吉田兼好の「徒然草」も有名な作品。

本書122ページ

現在の通説では、徒然草の作者は「兼好法師」又は「卜部兼好」であって、吉田姓ではない。
というのも、卜部氏が吉田姓を名乗り始めたのは兼好の死後であって、兼好が生きていた頃に「吉田」を名乗ったはずはないのだ。

さらに最近では、兼好が卜部家(その後の吉田家)とは無縁の人物だった可能性も指摘されている。吉田兼倶という人物が、「兼好はうちの先祖です」と嘘をついた可能性が高いというのだ。
いずれにせよ「吉田兼好」という名称はもはや歴史界では用いられない。

12 浄土真宗では念仏はしない???

法然の浄土宗が「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることを必要としたのに対して、親鸞の浄土真宗は、阿弥陀仏は自分にすがる者はすべて極楽浄土に往生させる、と約束してくれているのだから、念仏など必要がない。何もしなくても阿弥陀仏を信じてさえいれば極楽に行けると説いたんだよ。

本書123ページ

あまりに大胆な嘘なので「え? 俺が間違ってるのかな?」と思い、調べてしまった。浄土真宗の葬儀に参列したことがあるが、念仏は唱えていたと思うのだが・・・?

東本願寺・西本願寺とも、公式HPを見てみるとちゃんと念仏をしている。やはり浄土真宗では念仏は唱えるものだ。
恐らく、親鸞の思想の解説書である『歎異抄』の中で、
「念仏を唱えれば罪が消えると期待して念仏を唱えてはならない(そんな打算的意図を持たずにひたすら念仏を唱えなさい)」
との記述があるので、作者はこれを読んで誤解したのではないだろうか。

カウント

というわけで、鎌倉時代では12個の誤りを発見した。

第1章 旧石器~古墳時代:8個
第2章 飛鳥~天武王朝時代:10個
第3章 奈良時代:6個
第4章 平安時代:19個
第5章 鎌倉時代:12個
計:       55個

これは、上手くいけば100個に届くのでは???
そして宝島社さん、良かったら私を校正係に雇ってください。

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