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ダンスの融合

変革の危機に陥ると、ダンスは保守的な力として働く。人はダンスという伝統的な形式を通じて、昔から尊重されている、「隣人」との関係を求める、それには社会制度や神にまで至る。

宗教的信仰心を掻き立て、個人的な感情に公的な抗促力を与える。共同体としての定めがダンスにはある。そういうコミュニティーでのダンスが重要視され、仲間とのダンスによる承認欲求の充実と忠誠心を表し。

下部組織の中ではより尊いものである。

人は自分の生まれた社会を離れるとき、自分の荷物と一緒にダンスを持ち込む。

新しい土地で自分たちの伝統の重要な部分を再形成する。新しい環境で新しい自分を発見して、ダンスの融合を図る。

南北アメリカとカリブ海ではこの変容プロセスが劇的に行われた。

ヨーロッパ文化とアフリカ文化の融合して新しいダンスが生まれた。これは大西洋横断の奴隷貿易によってより活性化され、現代に伝わる。

砂糖や綿栽培の労働力供給のためである。

19世期に禁止されるまで西アフリカ、中央アフリカから1100万人以上が鎖に繋がれて奴隷船で運ばれ、彼らの大半は過酷な航海で命を落としたとされる。ドラムを叩いて踊るアフリカ人に対して、プロテスタント系支配下により、反逆を企てそうな物は全て奪い取った。ドラムが語り出すことを知っていたのである。

しかし、全てのダンスが禁止されていたわけではない。背中を丸めて、鎖をガラガラいわせるよう強要された、「奴隷ダンス」は長い航路で主人の旋律に合わせるように強いられていた。

1808年、奴隷貿易が廃止されると、奴隷の子供を増やすことになる。かつて奴隷で連れてこられた女性は語っている。いつも買い手の目を引くために、ダンスを披露して、生き生きと振舞うように言いつけられていたという

表現豊かなアフリカ人が伝統のダンスを失わないでこれたのはこうした状況下であるからであった。

北米のアフリカ人にとっては、故郷のような生活の中心にあるダンスではなく、エンターテイメントとしてのダンスが根付いていた。

彼らは土曜日の夜に丸太小屋や草地に集まり、禁止されていたドラムの代わりにタンバリンを使い踊った。白人は娯楽として彼らのダンスを見物にくる。それは大西洋の両岸で人気があった、ヨーロッパのボールルームダンスを彷彿させるもので、カドリール(方陣・4人組・フランス起源)やリール(スコットランド高地の軽快なダンス)コティヨン(2〜8人で踊るフランスのダンス)などのグループダンスである。これをアフリカンなテイストにして踊っていたのである。こうしたダンスは、今でも西アフリカや中央アフリカの至る所、ジョージア州のシー諸島の黒人コミュニティに見ることができる。

アフリカ的なダンスとヨーロッパ的ダンスの融合は奴隷によって行われたが、繰り返し踊られる、パートナー数の制限、固定したステップが基本のヨーロッパの特徴に、基本的動作の繰り返しの中に浮かび上がる、一人一人の即興性に特徴がある。背筋をまっすぐに伸ばす姿勢より、大地に触れる感覚を重視して上体を前に曲げる姿勢を取り入れている。グループダンスとその中から出て踊り、再びその中に戻るソロダンスの二面に焦点が当てられている。

※元奴隷船船長が書いた名作アメンジング・グレイスは、深い後悔。それにも関わらず赦しを与えてくれた神の愛に対する感謝が込められている。

このことからも、ある程度の共通性もみて取れると考えられる。歩き方は身分を表す。かっこよく振る舞うことが最も望ましい。自分自身を落ち着いて素晴らしく見せる。そして、コミュニティーを安定させるために踊るのである。ボディーランゲージを重視してファッショナブルでいることは男性女性問わず重視されている。表現のしかたは違うが、目的は共通しているのである。

このように、アフリカ人による社交ダンスは慣例に反しない限り寛大に扱われた。アフリカ人がジグ(16世紀英国・早いテンポの踊りと西アフリカのダンスの融合)やバック(黒人のダンスとアイルランド系ダンスの融合)黒人文化のケーキウォークなどを踊る特権を与えられていたり、ダンスの能力で名声を得るプランテーションもあったとされている。主人たちがダンスコンテストに賭けを導入したこともあった。

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ピジョンウイング(飛び上がって両足を打ち付ける)ハザードロウプ(ラグリズムの波の表現)などはアフリカの動物のパントマイムが起源であろう。禁止されていたドラムの代わりにパッティングジューバーと呼ばれる複合リズムは手足を叩いて行われている。サークルダンスはプロテスタント系のパプティスト系が強いところでは硬く禁止されていた、そいうところでは、リングシャウトと呼ばれる輪になって歌うことで故郷の集会を再現した。足をクロスさせない限り罪深いダンスとしてはみなされなかった。

アフリカのダンスは身体接触をよしとしない。このことから、北米では抱き合うダンスが比較的遅く浸透した。

しかし、18世紀初頭、カリブ海では、カレンダと呼ばれる古代のアフリカのラインダンスやサークルダンスを行っており、時に腕を組み、一緒に腿を叩き、キスをしながら何回か回転する。そいいったカレンダは一時的なことだったかもしれないが、それこそが20世期のダンスフロアーを圧巻させていく。

カップルダンスのワルツやメヌエット、1750年以降のコントルダンスやイギリスのカントリーダンスなども、ヨーロッパ故郷のダンスが混じり合い、社交ダンスを変化させ、よりシンプルに大衆化されて行った。

北米では、ミンストレルショーと呼ばれる、白人が黒人に扮して行われるショーが開催される。1830年ジム・クロウというエンターティナーによって広められ、黒人のお年寄りのダンスや歌をもとにして確立された。焼きコルクで顔を黒く塗り、身体の不自由な使用人の格好をしたりして楽しませたという。

このミンストレルをあまり移動しないで行うのが、「トラッキング」とよばれるジルバステップの原型。ミンストレルショーの全盛期1840年代~1850年後半にかけて、ある人物を1人残してすべて白人であった。唯一の黒人はウイリアム・ヘンリー・レーンで世界の偉大なダンサーと名声を得た。彼はアメリカの舞台芸術の形づくったといわれている。

27歳の若さでこの世を去ったが、彼がTAPダンスの父と呼ばれることが多々ある。南北戦争後、黒人によるミンストレル団の出現、ミンストレルダンスからソフトシュー(底に金具がついてない靴)を展開させる。19世紀後半には、ケーキウォークをもとにした、ウォークアラウンドという別のダンスが現れる。アメリカ南部の古いプランテーションダンスが起源でボールルームダンスの大流行を巻き起こす。ケーキウォークのステップが初めて、白人と黒人の境界線を越境したといえる。人気を博したこのダンスは国中でコンテストが開かれるまでになった。白人は黒人のように肩を後ろに引いて横隔膜の部分を突き上げ、足を高く上げて踊った。また黒人は背中を安定した白人のボールルームダンスの真似をしたのである。

アフリカのボディームーブメントとヨーロッパの社交ダンスの融合である。すべては南部の黒人の社交ダンスとその音楽をルーツとしているところが興味深い。しかし、舞台は白人観客のための白人演者によって繰り広げられていた。

1926年 アン・ペニントンという白人ダンサーがブロードウェイでブラックボトムを踊り大ヒットした年、

サヴォイ・ボールルームがオープン。ハーレム・ルネサンスの真っただ中である。黒人の出入りは制限されていた頃、参加できるのは、隠された闇営業のダンスパーティーが多い中、サヴォイは違った。豪華な内装に、超一流のバンド。そして、開店当初から人種差別は撤廃されていたのだ。

キャッツコーナーと呼ばれた、ボールルームの北東の角は、もっとも優れたダンサーの為に設けられた。トップダンサーは勝負を止めるまで激しくやりあった。土曜日の晩はカップルダンスが踊る場所とされ、評判のカップルが一組ずつ踊り、現チャンピオンの男性がステップを止めるまで続いた。

一般的に動作が早く、アクロバティックな動きが注目を集め、独創的は即興を多く取り込むことができたダンス。

これがリンディ―ホップである。(1927年・大西洋単独無着陸横断飛行に成功したチャールズ・リンドバーグのあだ名に由来)

型にはまらい、即興性、カップルが離れてもスウィングビートを保つ。常に新しくかつ難しいダンスに挑戦する。

リズムカルな躍動感が特徴のスウィングはビートが命。

ダンスとムーブメントの完全なる調和。

カウント・ベイシー楽団のテナーサックス、レスター・ヤングは言う。ダンサーのリズムは演奏者に跳ね返ってくるんだと。

リンディ―ホップのダンサーは、本番前自宅や路上で新しいステップの練習を積んだ。白人が踊るリンディーホップをメディアはジッターバグ(ジルバ)と呼んだ。

若手常連客を集めて結成された、ホワイティズ・リンディ―・ホッパーズであった、フランク・マニングは次のようにいう。

カップルで踊っている二分間、そのパートナーと音楽に恋に落ちて三角関係になるんだと。あなたはどちらが大切ですか?

1936年、カーネギーホールの客席で10代の若者がベニー・グッドマンのバンドの演奏に合わせて踊り出したことがきっかけで、アメリカの白人にリンディーホップが公式に認められた時だとされている。

その後「ライフ」誌は表紙絵の関連記事にダンスを取り上げ続けた。

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そして、次第に黒人の革新者たちは忘れさられていく。欲に目のくらんだリーダーホワイティに嫌気をさしたメンバーの脱退が続き、リンディホッパーズは解散。サヴォイのダンスホールは営業免許が取り消しとなる。

第二次大戦後の10年でビッグバンドの活動も衰えて、リンディはダンススクールのレッスン項目となる。

こうなると、型破りな即興性はほとんど伝わらなくなっていく。

1950年代初期、新しいダンスと音楽。リズム&ブルースから派生したロックンロール。ここにリンディは生かされていく。

あるドキュメンタリー番組は初期のロックンロールを放送。しかし、こちらのチャックベリーの曲に合わせて踊る子供達の映像を間違えてリンディ・ホッパーズとともに流してしまった。

パートナーと組んで踊りながら、即興ダンスを行うというダイナミックな緊張感がリンディの栄光であったが、

これが元でツイストが大流行したことで、1960年代には一つの時代が終わっていった、あっけない幕切れであった。もちろん今でもリンディは伝わってます。ダンスは死にませんからね。

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